END-5 Ex-post facto
春も終わって雨季に入る少し前の話。
とは言え北方や大山脈を抱える西方ではやっと積雪による交通規制が解除された時期。
男は歩く。
大理石の廊下を歩く。
三十代になったばかりの男は、カツカツと規則正しい足音を立てている。
巨大な宮殿の、長い廊下にはそこかしこに掃除婦達の姿が見えた。
千年国家の輝きを当初のまま、未来に伝えるために、栄華を表現するためだけに存在する調度品を飽きること無く磨き上げている。
その誰もが彼に頭を下げたりはしない。彼もそれを求めたりはしない。
彼も、彼女らも自分の仕事にこそ注力すべきだと彼は心底からそれを信念としている。
そもそも、彼の信念とは無関係に、彼は頭を下げられるような人間ではない。
この掃除婦達の誰よりも身分は高いが、彼は中央政府の官僚であって、いわば彼女らと同じこの国家の歯車なのだ。
目的の場所に辿り着く。
その巨大な扉には、月と太陽の紋様が描かれている。
男は扉の両側にいる騎士たちには目も向けず、声も掛けず、扉に手も伸ばさず、その場で止まる。
いくら急いでいると言っても、礼儀慣例は官僚にとって法と同じくらいに彼自身そのものと言っていい存在だ。
両側の騎士は扉をゆっくりと開いていく。そして、
「どうぞ」
と言われてから、その中に入った。
毎日訪れていることだが、毎日行っていることだからこそ彼はそれを守る。
中に入ると、巨大な、何十人も座ることができる一枚板の縦長の卓だ。
椅子はピッタリと隣の席と寸分の狂いもなくおかれており、そこに座っている者は今は誰も居ない。
彼はその空白の会議場を通り抜けて奥に向かう。
そこには更に狭くなった廊下があり、すぐにまた先程より小さな扉に辿り着いた。
その扉の前に立っていた全身甲冑を着た騎士が、彼を見下ろした。
全身甲冑の頬当から覗く肌の色は褐色を通り越して黒い。瞳の色は金。
「遅いぞ」
と、だけ彼に騎士は告げる。
この騎士は背後の部屋に、その日訪れる者の名前と予定を全て頭に入れている。その予定が狂っていたのなら、それをこの騎士が納得するまでは彼をこの部屋に入れないだろう。彼であろうが、誰であろうが、この国で無条件に入れるのは只の一人しかいない。彼の直接の上司であっても、この国の最高権力者の一人であっても、この騎士が納得しなければこの部屋に入室することはできない。
なぜならこの国で無条件に入れる人とは、まさにこの国で『唯一』の権力者なのだから。
だから、彼は黒人種の騎士に手に持っていた手紙を掲げてみせた。
「すまない、ニルベイン。急報が入った」
目の前の騎士は、男の顔を暫く観察していたが、やがて納得したのだろう横に下がって道を空ける。
男は扉の前に立つと少しだけ、息を整えた。そしてノックする。
返事を待たずに、その必要もないので、扉を開いて中に入る。
「陛下」
と、彼はまず真っ先に中央の執務机に座る人物に頭を下げた。
そこに座っていたのは癖毛の茶色い髪をした、温厚そうな人物だった。
歳はまだ十代のようにも見えるが、実際は二十五歳になる。
この国の最高権力者。
つまり、皇帝に他ならない。
「まっていたよ、ラウール」
その外見に似合いの柔らかな声で、一官僚に過ぎない彼の名前を呼ぶ。
「はい。貴重なお時間を割いていただきありがとうございます」
傀儡皇帝レオナルド・トラモント・ガッテミウス。
それがこの目の前の若者に付けられた、不名誉な二つ名だった。
元々この皇帝は元老院の操り人形として祭り上げられた人物だった。
ただし、歴史が示す通り、今やその元老院の老人たちは食い殺されてしまった。
「やれやれ、らしくないじゃないか。ラウール」
厭味ったらしく(ワザとだから質が悪い)「ラウール」のウの部分にアクセントをつけて言ったのが、元老院を食い潰した張本人だ。
帝国宰相フィリップ・ジャン・リシュリュー。
この国の実質的な最高権力者である三賢者と呼ばれる者の一人。そして何より銀狐と呼ばれる曲者だ。
元老院の思惑通りであれば、この青年の二つ名もまた傀儡だった筈だ。
銀の長い髪と鋭利な瞳を持った青年で、いつも人を馬鹿にしたような笑いを浮かべている。女官たちに言わせるとそれが堪らないそうなのだが、直属の部下からすれば違う意味で堪らない。
「まぁまぁフィル。それでその持ってきた手紙はなんだい」
ニコニコとしながら皇帝が、乳兄弟を諌めつつラウールに話を促す。
傀儡皇帝と、元老院が実質形骸化した現在でもそう陰口を叩かれているのは、今は元老院から三賢者に人形師が変わっただけだと思われているからだ。
ただ、実際にこの乳兄弟の間柄を知っていると、そういう関係ではないことはよく分かっている。
ラウールなどは直属の上司で銀狐などと政敵から恐れられている男と友人関係を続け、あまつさえ自分の右腕にしているだけで尊敬できる。そんな人物はラウールの知る限り、目の前の皇帝と言われる人物以外にいなかった。
「陛下」
もう一度、ラウールは尊称を呼んで、それにその場にいた者がおやっと彼に顔を向けた。フィリップでさえもだ。
「ビスマルク卿がやってきます」
その言葉に全員の動きが今度は一瞬止まる。
「それはカール大将軍のことかい?」
ビスマルク家は帝国でも大貴族に分類される家で、ビスマルク卿と言ってもその姓に連なるものは多数いる。
「失礼しました。そうです。四天ビスマルク公です」
ラウールは自分のミスを訂正して、最も特定しやすい名を出す。
カール・ビスマルク。
東方軍統括総司令官、征夷大将軍。
二百年に渡るビスマルク家の東方軍団長としての歴史の中で最も勇名な英雄だ。
さまざまな呼び名を持つが『四天のビスマルク』という二つ名が最もこの国では知られている。
四天とは、この国の軍事を統べる四つの勢力。
つまり、
近衛騎士団を中心にした白天。
大地母神教団が抱える神殿騎士団である処女月。
西方カルバン王の軍勢、いわゆる黒獅子。
そして征夷大将軍ビスマルク公がまとめる東方軍だ。
千年の歴史を持ち、広大な領土を抱える帝国は常に内部での対立構造を持つ。
それは初期の三代皇帝の乱であり、三百年前の権天事件であり、十年前の元老院と帝室の対立だ。
現在は帝室派と反帝室派の対立はそれほど過激化していない。
十年前にフィリップが元老院を徹底的に骨抜きにして以来、三賢者と呼ばれている三人が実権を握っている。宰相フィリップ、筆頭宮廷魔術師カスパール、 大地母神教団帝都教区の大司教バルタザーナのことである。
歴史的な流れで見ると対立の構造は中央政府を軸にした帝室派と地方有力貴族を軸にした反帝室派という形が多いが、その意味ではこの十年は政治の動乱は見えない。
四天のうち、白天はまさに皇帝の直属兵団であるし、大地母神教団の神殿騎士団はバルタザーナの支配下にあり表向きには中立の立場。そして何より東方で絶対的な影響力を持つビスマルク公が皇帝に対して厚い忠誠を持っていると言われていることが大きい。
明確な(もちろん本人はそうは言っていないが)反帝室派といえるのは四天の内では武器王と言われるカルバン王のみである。
「うん? 一体何をしに?」
皇帝ガッテミウス、私的なこの場ではレオナルド陛下と呼ばれる皇帝は目の前の官僚に、一見すると間の抜けた質問をする。
しかしそれは、ビスマルク公のことを知っていれば当然の疑問だった。
戦場の生ける伝説。
そう思われている大将軍だが、実際は中央の政争などに興味を示さない生粋の武人だということだ。
レオナルドがビスマルク公のそういう性格を慮って、無理に呼びつけたりはしないので、この十年はますます帝都には寄り付かなかった。それ以外の者が呼んでも何だかんだと理由をつけて、または付けずにやって来ないのである。
その戦場でのみ、つまり現在の帝国では東方のみに存在する英雄が、何の戦乱の影も見えない帝都にやってくるというのだ。当然レオナルドは呼んでいない。
レオナルドは銀狼と呼ばれる自分の乳兄弟をチラリと見たが、銀の長髪から覗く切れ長の瞳を少しあげて、『否』と無言で答えただけだった。
だから、ラウールの答えを待つ。だがその答えもまた要領を、意味を捉えられない答だった。
「それが……まさにこの会合の議題についてです」
「議題? つまり学園新入生の調整について? かね?」
発言したのはこの場にいる最後の一人。まだ政治家としては若いが、それでもこの中では一番の年長者である。
クロード・アレグル子爵だ。
黒髪に薄い無精髭。ただしその無精髭も帝都では最近流行っているお洒落の一つだ。
この部屋にいるということは、つまり帝室派貴族の中核メンバーであるということで、元々五大家である リシュリュー公爵家と縁の深い家の出である。
ラウールとクロードの言った議題とは、先程まで話し合っていた今年度の帝都学園に入学してくる新入生達のことである。正確に言えばすでに入学している幼稚舎の面々を含めた子どもたちについてだ。
レオナルドの御代になって十年。しかし元々、元老院の傀儡として立てられた現皇帝は未だ二十五歳という若さである。政局も一応は安定しているし、その政権が長期になるというのが大半の見方だった。
今年、学園の初等部に入学する子供たちは六歳。それの意味するところはこの年代からギリギリ次代の皇帝となりうる可能性がある。もちろん病気などもあるし、レオナルドが予想外に長生きすることもあるのだが。また皇位継承権の上位にある者は皆成人または成人間際の者も数人いる。だからレオナルドに万が一のことがあっても、皇帝になるのはその者達の中から選ばれるだろう。
帝国の皇位継承は以下のしきたりによって決められる。
まず、皇位継承権を持つ資格があるのは、皇室の血筋である公爵家の、さらにその中の五大家と言われる家の中から選ばれる。これは法ではなく前例、慣例だ。だが法制化されていないからと言って、変えられるものかと言えば、そんな可能性は実際のところ零といっていい。歴史ある国家の前例主義とはそれほどに強固なものになるのは別にこの国に限らない。
さて、その五大家とは。
宰相フィリップのリシュリュー家や、レオナルドのトラモント家などがそうだ。
この五大家は時代によってその数は変わる。七大家であったこともあるし、十四大家だったこともある。時代とともに減少傾向にあるが、皇帝はその五大家の中から選ばれる。初代オブリガン公爵、流刑皇子と呼ばれた英雄もオヴリガン家を興すまではこの大家の一つだったわけだ。逆にビスマルク家は公爵ではあるが、大家だったことはない。
ちなみに公爵家は帝室の血筋であるが、その祖を誰にするかで三つにわかれている。それはそのまま始皇帝から三代皇帝の誰の血を引いているかということだ。先のオヴリガン公爵家の場合だと、この家は始皇帝の血を引いていることになる。もちろんオヴリガン家の例を見ても、現在の権勢と誰の血を引いているかはほとんど関係がない。
元老院。
フィリップによって形骸化された組織だが、彼ら元老院議員が持つ権限が、五大家の皇位継承順位の変更と皇帝即位の『助言』である。
この『助言』をどう捉えるかが、そのまま十年前までの元老院と帝室の争いだったといえる。
元老院が狙ったのは当然のことであるが、『助言』を限りなく『決定』の意味となるよう『慣例化』することだった。実際に十年前まではそうだった。レオナルドとフィリップがその位地にあるのはまさにそれによってである。
だが、現在は『助言』は言葉の通り『助言』であり、決定権は皇帝にあることが『既成事実』になっている。そして元老院自体も非常設機関に変えられた。変えたのは勿論フィリップであるし、決定権も実際はフィリップを始めとする三賢者にあるというのが政局通の見立てだ。
だから乳兄弟レオナルドとフィリップの間柄を知っていれば、または銀狐にそのような情が通っていると少しでも信じるなら、今代ほど皇帝の権力が強い御代も珍しいと言える。
わざわざ皇帝と宰相である彼らがその政治議題として取り上げているのは今年、または今年を軸とした数年間に、皇位継承権を持った、または持つだろう子供、そしてビスマルク家の様に継承とは無関係ながら政治的には大きな影響を及ぼす家の嫡嗣達が数多く入学するためだ。
更には数日後には特待生試験が始まる。帝国で最も名門である教育機関の学費免除を受けられる者を選ぶ試験だ。ここでも推薦状の発行を依頼した大貴族によっては下駄を履かされることもあるが、殆どはその才能のみを評価された受験生たちが帝国領内から集まる。そもそも受験推薦状の発行権から下駄を履かせるくらいなら、学費を貴族本人が肩代わりして一般入学させたほうが手綱が効く。
もちろん、皇帝候補である五大家の子息も通う学校だ。身上検査は下手な政治家よりも行われるし、推薦状を出した官僚も、出させた貴族も、たとえば万が一その子供が王国のスパイなどであった場合は連座させられるので、才能だけの子供ということもなく、大体が貧乏貴族や派閥の中堅貴族の子供である場合が殆どなのだが。
だがそれでも、現体制派としては頭の痛い、またはその他の勢力にとっては力を伸ばすための好機に溢れているのが今年の入学者および受験者なのだ。
巨大国家故に血によってのみ全てが決まるわけではないが、千年国家故に血脈は何よりも尊いものとしてある。それこそ『前例』『慣例』いや、『歴史』である。
その『血』と『才能』がゴッテリと固まって現れるのが今年の入学年次にあたる生徒達なのである。
そして、学園という教育機関の目的に、貴族や有力者同士の横のつながりを強めることが含まれ、学生自治権がかなり意図的に強くされている以上、この入学という行為自体が政治問題なのだ。彼らの行う自治がそのまま未来の帝国政府の姿だと言っていい。
そこに公教育への国家権力の介入云々等といった『甘っちょろい』ことは問題にさえなりえない。敵国のスパイは大げさにしても、帝国権力の源泉に綻びの種を植え付けることも十分可能なのだ。
「それでビスマルク公はその入学式に何をしに、ああいや、そうか」
クロード子爵はラウールに尋ねながらも自分で答えを出す。
「そう言えば公の孫も入学者リストの中に入っていたな。戦場の鬼といえども……孫は可愛いということかな?」
途中で言葉を向けられたフィリップは「知るか」とでも言うように、細い指を少しだけあげて見せた。
「いえ、その、入学式典ではなく、数日後行われる特待生試験に立ち会わせろと」
「なんのために!? もうほんの数日だぞ。東方からでは間に合わんだろう?」
あまりに馬鹿げた答えにクロードが呆れた声でその答えを否定する。
ビスマルク家の当主、いや四天のビスマルクほどの大貴族、特に軍事の最重要人物となると、帝都にやってきたいと言ってちょっと立ち寄るというわけにはいかないのだ。
それが、常人ならの話だが。
常人でないから英雄と呼ばれているのだということを、次のラウールの言葉が証明した。
「いえ、すでに来ています。飛竜に乗って単騎帝都の結界の傍まで」
「おおい!!」
クロードは思わず「なにやってんだ」と声をあげたが、フィリップだけでなくレオナルドまで笑い声を上げていた。
「いやいや、さすがあの爺様はやることがデカイわ」
フィリップが目の端に涙を浮かべながら腹を抱えて笑っているが、レオナルドの方はもう少し上品だ。
「それで、大将軍はなぜ特待生試験に?」
直属の上司の馬鹿笑いは放っておいてラウールは、天上人の声に冷静に答える。
「はい、何でもギルベナ地方からの受験生と会ってみたいのだと仰っているようです」
その言葉に、馬鹿笑いしていたフィリップが、ピタリと動きを止めた。
「フィル、何かあるのかい?」
乳兄弟の言葉に、フィリップは少し考えていたが、
「彼処からは確か今、オヴリガン公爵家の令嬢が特待生試験を受けるために帝都に入っていたな」
「は? そもそも東方の英雄が、『ギルベナの引篭』の娘に何の用だ?」
クロードの言葉は誰もが疑問に思うことだが、その答えを持っている人物はいない。
「正確にはビスマルク公は特待生試験に立ち寄った後、ギルベナ地方の受験者達と会いたいと」
「クレオリア姫以外に、受験生がいたか?」
先ほどまでの馬鹿笑いが嘘のように、冷たい声で自分の部下に尋ねる。
「もうひとり、一般入学で……」
「いやいや、まてよ」
当然の問に答えを用意していたラウールの声を遮る。
「ギルベナ地方で、そう、サウスギルベナで最近報告書が上がっていたな」
「……魔物が大量発生した事件ですね」
求められた答えが変わったがすぐに答える。
「魔物、それは聞いていないな」
皇帝が口を挟んだことに、皇帝であるから『口を挟む』ということにはならないが、それにラウールは答える。
「陛下、三年前にギルべナ地方で起こった魔病騒ぎがあるのですが、今回の事件はその際に瘴気を完全に浄化できなかったことに原因があるようです」
「問題の程度は?」
「陛下のお耳にいれるほどでは。魔物も現地の治副司が陣頭指揮を取って半日の内に騒ぎは収まっています。魔物と言っても小型でしたし、陛下が気に留めることはございません」
「……フィリップ?」
レオナルドは黙ってしまった宰相に言葉を向ける。すぐに銀狼は顔を上げた。
「報告書には、大地母神教団からの申請もあったな?」
「さて、そこまでは」
ラウールも自分をそこそこ優秀な官僚だとは思っているが、大量に上がってくる報告書の中に記述してある許可関連の記載まではイチイチ覚えていない。
「うーん」
と、フィリップはその長い銀の髪を掻きあげて、記憶を探る。
「……新しい非営利団体の設立に関するものだった筈だ。それが商業活動になるかどうか、微妙である云々の報告書が……」
ブツブツとフィリップは漏らす。誰にも答えを求めているものではない。
「駄目だ。分からないな」
と、フィリップは諦めた。記載してあったことを思い出せないのではない。そこから意味のある繋がりを見いだせなかったということだろう。他の三人に理解できることではないのだろうから、フィリップが「分からない」と漏らした以上それに言及する気もない。
「で、将軍は今どこに?」
とりあえず皇帝は目先の問題に言及する。
「急でしたので対処に困っていましたが、自分から郭外街にある拠点に飛竜と共に入って行きました。そこで内壁への許可を待っている状態です」
そうか、とレオナルドは頷くと、
「ではとにかく、私の元まで連れて来い。久しぶりに大将軍と話をしてみようじゃないか」
と、にっこりとその外見に似合った柔らかい笑顔で言った。
恭しく頭を下げるラウールを余所に、フィリップはじっと考え込んでいた。
流刑地ギルベナ地方。
三百年前より辺境であり帝国統治から捨て置かれた貧困地帯。
その最南端の港町つまり帝国の最南端、サウスギルベナでその騒ぎが起こったのは今から一月と数週ほど前。そこで起こった魔物騒ぎ。
北方よりは冬の終わりが早いと言ってもまだ春先になったばかりの頃だ。
ラウールは皇帝の耳に入れるほどではないと言ったが、それはある一面で嘘で、ある一面で全く正しい。
被害があったのはあくまで『帝国民ではない』者達が住む地域であり、市街地には被害はなかったからだ。
その騒ぎで当該地の盗賊ギルド有力者達が多数死亡した。サウスギルベナの盗賊ギルドとは実際には貧民街全体を支配している権力者の一角だ。しかも貧民街は都市の人口構成としては最大勢力を誇っていた。その一辺に大きな変化があった。
そしてそのほぼ同時期に、現地の大地母神教団からの新組織設立申請だ。
帝国では一定人数以上の集団組織を作るときには現地領主の許可を受けなければならない。
それは教団や商人組織、冒険者パーティまで同じである。許可が要らないのはまさにはみ出している盗賊ギルド位のものだ。
その新組織は三百年の歴史を持つサウスギルベナでは今までなかった種類の組織だ。少なくとも成功はしたことはない筈だ。そして街と同じだけの歴史を持つ盗賊ギルドが揺らいでいる。
三百年は千年を迎えようとしている帝国に比べれば短いが、しかし、三百年続いていたことが変わるなら、そこには何かあるはずだ。だから心に残っていた。
なぜ東方の英雄までが、サウスギルベナの子供たちに拘るのか。
自分と同じように。
フィリップはまだ、部屋の外に出ていなかった部下に顔を向ける。
「さっき言ったギルベナからの報告書を私のところまで持ってきてくれ」
ラウールは素直に頭を下げ了承した。「ああ、それから」とフィリップはそこに付け加える。
「クレオリア姫ともう一人の、ほら、推薦状の件の男の子、名前は何と言ったかな?」




