42 善意のご褒美に神様から不幸を授かった日
手の中にカビの生えた麺麭がある。
大豆の粉を使った、黒い麺麭だ。今はカビのせいで少し色味がついているが。
裾を引っ張られる感触に、下を見ると、幼い男の子がいた。その影に隠れるように女の子がいた。
兄妹だろうか。きっとそうだろう。
この街では血縁のつながりが最も信頼できる絆だったから。相対的にだけれど。
手の中にある麺麭を見る。小さな手でも片の掌で持てる大きさしかない。
自分にはすこし、少ないかもしれない。でもこの兄妹にはぴったりだと思った。
だから、麺麭を男の子の方に差し出した。
あっという間に手の中から麺麭は消え失せた。
男の子は手に入れた麺麭を胸に押し抱いて、奪われることがないように、こちらを警戒心のある目で見つめている。
そんな兄妹に、興味を失って、歩き出す。
数日ぶりに麺麭の匂いを嗅いでいたからだろう。香りが胃を刺激して活動を促す。
空腹を通り越して、苦しみになって、苦しみを通り越して、気持ち悪くなって、今はそれも通り越して、頭がフワフワと不思議な気分になった。
数歩、歩いた。
とたんにグルリと景色が回転して、頭が地面に叩きつけられる衝撃があった。
幸いなことに、もうそれを感じるだけの力は体になかった。
何とか体を仰向けに転がす。
うつ伏せになるより、そのほうが、空を見上げるほうが、気持ちが良い気がした。
でも、地面が汚れているように、空も灰色に汚れていた。
空も地面も、この街も、自分の世界はすべて薄汚れているのが残念だ。
それでも、それ以外にすることも、できることもなくて、ずっと空を見ていた。
幼い兄妹たちが覗きこんできた。じっと見つめてきたが、やがて姿は消えた。
足早に立ち去る足音を聞きながら、申し訳ない気になっている。そんなことを思う必要もないのに。
麺麭をあげてしまったから、もうあげられるものは何もない。
小さな白い光が落ちてきた。
初めて見る。それは小さな真珠のようだった。そして宝石より軽やかに舞って落ちてくる。
雪だ。
初めて見たが分かった。
なんと美しいのだろう。純白の、汚れのないそれは、まるで自分を迎えに来た天使のようだ。
エスドニアという国があった。
帝国成立以前の話だ。
大陸中南東部に位置する古代国家であり、元々は四百万人ほどの国家であったらしい。
地勢学的に大陸を縦横する街道の中心点であったことから栄えた国家だ。
海を擁しないものの、まだこの時代には大陸間貿易はなかった時代であったから、そういった時勢の風も受けて商業の中心となった国家である。
最も栄えたのは、最も有名な王を戴いた時期だった。
王は周辺国家を征服し、併呑する。
東進し、南進し、大陸の中央以南を支配した。
それは現在帝国支配地域以東の蛮族の集落も、魔人の国家でさえもである。
王の名前はレドナクセラ三世。
古代史において最も有名な王であり、神話の多い英雄。
始皇帝が現れ、帝国を建国するまでは大陸最大の国家で、歴史上最初の帝国の大王となった人物。
大陸の半分を支配したレドナクセラ三世は、いよいよ北進を開始する。
大陸の完全統一に最も近づいた君主であったが、人である王は病には勝てず病没した。
エスドニアの王に即位して僅か十五年ほどのこと。王に即位したのが二十歳になるやならざるやということであったから、四十になる前に亡くなったことになる。
大王の死後、帝国は分裂する。
エスドニアとは別の、現帝国の始皇帝が現れ、十の王国を滅ぼし、大陸を文明圏と未開地にわけ、現在の情勢に落ち着くまで、レドナクセラ三世の国を超える巨大国家は現れなかった。
それが、帝国が建国されるさらに少なくとも千年は前の話である。
現在になり、
分裂した国家のうちの一つ元のエスドニアであった地域の人種のことをエスドニア人と呼ぶ。
帝国南西部。中央の南西、南方ギルベナ地方よりも北東、自由都市より北西の地域に住んでいた人たちのことだ。
北部の帝都から南部と東部をつなぐ大河川が整備されるまでは、貿易の中心地であり、人種の坩堝であった。
エスドニア人は、帝室を生んだ北部の人種に比べると、肌が黄色に近い。髪や瞳の色は茶を基準として黒の濃淡で差が生まれる。といってもこの世界において髪や瞳の色は体内保有魔力の違いで変わるので、あくまで平均的にということだ。
肌も褐色に近くなる者もいるため異民族との混血児と間違えられることもあるが、学術的にはまったくの別物だ。もちろん先述したようにエスドニア人は大陸を横断する国家の系譜であり、様々な血を受け入れた民族である。その中には現在異民族と呼ばれる帝国以東の血もあっただろうから、間違いとも言えない。
イザベラは、
イザベラという少女はガラティアという都市で生まれた。
ガラティアはエスドニアがあった地域の帝国都市である。現在の行政区画で言うと、南方ドリッチ地方の北西部。
自由都市を軸とする、都市貴族連合の支配する地域でもある。
父親はその都市貴族の一人で、ガラティアの評議会員の一人だった。
自由都市での商業権を持っていたということだったから、それなりに強い力を持っていたに違いない。
『持っていたに違いない』という推測でしか話せないのは、イザベラが八歳で、家業について何も知らないからではない。
イザベラは現在、サウスギルベナという最果ての街の、貧民街という最下層の地域で生きているからだ。もう彼女が本当に貴族であったのか、毎日温かい食事とベッドがあったのか、確かめようがないのだ。
イザベラが貴族の娘であったことを知っている者はこの街にいない。
温かいベッドも、麺麭も、ミルクも、父も、母も、どこを探してもない。
まるで夢だったかのように。
残っているのは、読み書きができるだけの知識と、イザベラ・D・コロムという名前だけ。
そして両親が朝起こしに来てくれた、子守唄を唄ってくれた、抱きしめてくれた記憶だけ。
その記憶も、最後には、都市貴族たちを呪う呪詛の言葉を吐く、醜く歪んだ形相に侵食されていたが。
父親はいつの間にか姿を消していたが、母親とはサウスギルベナまで一緒にやってきた記憶がある。でも一年も経たない間に、母親もいなくなっていた。ある日、筵で作った家とも呼べないねぐらから、金を稼ぐためと出て行ってそのままいなくなった。
待っていてもいつまでたっても誰も来ないから、イザベラは腹を満たすために街に出た。
街は荒れて、素足で舗装もされていない道を歩くと痛い。
イザベラは六歳でこの街に来た。
そして七歳のいま初めて、雪を見た。ガラティアでは雪は降らない。サウスギルベナでもあまり雪が姿を見せることはない。この時は珍しく雪が曇天の空から舞い降りてきた。
雪を初めて見たのは、地面に寝転びながらだ。
お腹が空きすぎると、立っていられない。
空腹で倒れるという経験は初めてだったが、この数ヶ月ずっと体はだるかったからあまり驚きはなかった。とうとうやってきたという感じだ。
イザベラはジッと天からの白を見つめていた。ゆらめき落ちてくる、真っ白な雨粒は、この汚い街で一番キレイな光だった。
体も洗えず、薄汚れて、変な臭いのするイザベラの体に積もっていく。
七歳の自分が道端に倒れていても、助け起こす人はいない。
石ころに気を止める人がいないように、この貧民街では珍しくもない光景だった。
きっとこのまま目を閉じれば、きっとこのまま二度と目をさますことはないだろう。
こんなに美しいものを最後に見て、こんなに苦しいお腹の凹みと、足裏の痛みから開放されるなら、それはそれで幸せなのかもしれない。
イザベラはそっと目を閉じた。
雪が舞い落ちるのと交換に、体から力が抜けて、天に昇っていくような気がした。
苦しみもどんどんと和らいでいく。
つん、と額に違和感があった。
しばらくすると、二度、三度と額に違和感が続く。
「……」
せっかくの微睡みを邪魔されて、イザベラは目を開けた。
雪のように白い髪と、白い肌の中に、赤い瞳があって見下ろしていた。
さっきの兄妹とはまったくの別の少年だった。
幼い顔だ。たぶんイザベラよりも小さな男の子だった。
「生きてる?」
少年が訪ねてきたので、イザベラは頷いた。
「立てる?」
イザベラは答えなかった。もしかしたらこれは自分の頭のなかに描いた空想かもしれない。
「なんで最後のパンをあげっちゃったんだい?」
やっぱり夢かもしれない。その問をイザベラ自身でも持っていたからだ。
ゴミの中から拾った麺麭の欠片を、イザベラは小さな兄妹らしき子供に上げてしまった。
あれがあれば、腹の皮がへばりつくような苦しみは少し先に伸ばせたかもしれないのに。
なぜ自分はあの兄妹に、麺麭をやったのだろう。
「……わからない」
それは自分に対する返答でもあった。でも疑問にも思わなかったのだ。良いことをしたとも思わない。ただ自分には不要になったから、あの兄妹には必要だったから、そう感じたから麺麭を渡した気がする。
「君は紛れもない愚か者だよ」
雪の妖精のような男の子は、随分と酷いことを言った。
少年は跪くと、イザベラの体を抱きかかえて、上体を起こす。
「弱った体に固形物は無理だろうから、これを飲みな」
そう言って竹筒の水筒をイザベラの口に添える。反射的に中の液体を口に含むと、苦い味が広がって思わず吐き出してしまった。
「美味しいものじゃないけど、体を癒してくれるから」
そう言って、再び口元に呑口を傾けてきた。なされるがままに、また液体を口に含む。苦味は相変わらずだったが、すこし慣れたのか飲み込めた。
乾いた喉に液体が染みこんでいく。そして喉から全身に水分が広がっていくような感覚があった。
苦いが、毒ではなかったらしい。
「どうして」
喉が潤ったせいか、言葉がすんなりと出た。
貧民街で、物をくれる人は少ない。
抱きかかえられた体から少年の体温が伝わってきた。それは夢ではなく、確かな存在であった。
蝕むように、その熱は身体に染みこんでいく。
「さて、どうしてだろう、ね?」
まるでうつし鏡のような言葉が返ってきた。
「君が麺麭をあげた子どもたちが、僕を呼びに来たんだよ」
少年は吐き出した液体で汚れた口元を拭ってくれた。
「……あなたは天使? それとも妖精?」
お腹が少し満たされたせいか、急激に眠くなってきた。
少年はイザベラの言葉に笑い声を上げた。少し馬鹿にしているようにも感じる。
「やっぱり君は愚かだよ。愛おしいほど愚か者だ」
ガラガラと車輪がやってくる音が聞こえた。
少年はそちらに目を向ける。
「荷車がやってきた」
少年の声が急に遠くなってきた。
ああ、眠い。
心地よい暖かさにイザベラは我慢できずに瞳を閉じていく。
寝闇の黒に落ちていく最後の瞬間、曇天の灰の中に、白い雪と白い少年が薄暗く見えた。
最後まで光を放っていたのは、異質に光る赤い瞳だ。
少年が自分を少し馬鹿にした理由がわかった気がする。
その赤い光は物語に出てくる悪戯好きの悪魔にも見えた。




