40 エド悶々
六歳児でも、日が昇る前から働かなければならないのはこの世界の特徴。
エドは寝付きも寝起きも良い方だ。
前世では意外と繊細な方だったので、これはエドゥアルド・ウォルコットとしての性質かもしれないし、まだ体が六歳だからかもしれない。
そんな寝付きのいい体でも、精神が二十四歳でも、朝が早いと眠いものは眠い。うまいもんはうまい。そういや、肉なんてトンと食っていない。豚でも、鳥でも。
「いかん。眠くてイミフな連鎖思考になってる」
ついでに体も若干ふわふわ、フラフラする。
「……」
欠伸をしていたら、仕事仲間もとい先輩のベックと目があった。
娼館の酒場部分の雑務が二人の仕事で、今日で一週間。仕事自体は清掃が殆どだったから慣れるとかいうものでもないが、仕事場の雰囲気は大分わかってきた。
「……チッ」
ベックが舌打ちした、がそれ以上何も言わずにテーブル磨きに戻る。エドは床の雑巾がけだ。
初日に顔面パンチを喰らって以降はこれと言ってトラブルはない。態度自体は不快そうにしているが、仕事はこちらから積極的に(空気を読まずとも言う)指示を仰いでいるので滞り無く進んでいる。初日の出来事があったので、ベックの方もこれ以上揉め事は起こしたくないのだろう。
エドが見るに、ベックは友達になりたいとは思わないが、相手との力関係には敏いタイプのようだ。初っ端に脅して精神的に優位に立とうという試みが失敗した以上、盗賊ギルドとアーガンソン商会の見習いであることを加味した二人の立場は対等だ。
こちらが弱みを見せず、かつ相手をあからさまに持ち上げる態度でいれば、余計なことはしてこないだろう。そのラインを超えて、手を出してくれば、責任者であるディガンに『相談』すればいい。盗賊ギルド幹部で、この娼館の実務責任者であるディガンとしては仕事が廻ればいいのであって、ガキの構成員のことなどどうでもいい話。こちらに非がない以上、利を説けばベックを排除するのは簡単だ。
考えを巡らせながら、持ち前の生真面目さなのか、落ちない木目のシミ、恐らくは昨日の客が胃の中をぶち撒けた残りを、ゴシゴシとキレイになるまで磨く。
盗賊ギルドの見習いね。
エドは十二歳のベックの利用価値について考えていた。
最初は、ベックに取り行って盗賊ギルドについて調べようと思っていた。
エドの『計画』を実行するのに、盗賊ギルドの『市場調査』は必須である。
エドには目標がある。
『周りの人たちを幸せにする』つまり「三百年間『流刑地』と呼ばれたサウスギルベナを変える」ことだ。
兄の死が誰かの策謀だったのか、単なる偶発的な不幸だったのか。事の真相自体はそれほど重要ではない。兄も姉も、生き返るわけじゃないし。
重要なのは、なにやら漠然とした『不幸』という名の空気を変えることだ。
『世界を変える』。
口に出すのも恥ずかしい夢だ。
だから、誰にも言っていない。分かってもらおうとも思っていない。
『世界』と言ったって、エドの世界はこのサウスギルベナだ。そこは異世界で、不幸なことに唯一の世界だ。
そんな小さな世界を変えるという夢でさえ、口にするのはこっ恥ずかしいほど大それている。
目標を叶えるには、口に出してみればいいとよく言うが、エドの夢は口に出せば出すほど、滑稽で陳腐になった。
精神年齢二十四歳だからか、前世の冷めてる日本の高校生の名残か。
とにかく、そんな夢はエド本人だけが分かっていればいいだけだ。目標の共有なんてできなくたって『部品』の収集は可能なはずだ。それが自分には合っている。
そのための『計画』だ。
そして、「周りの人達を今よりほんのちょっとだけ幸せにする」「不幸が不幸であると認識できるくらいには幸せにする」そういった目標は、日本に『帰ることができそうにもない』エドにとってはこの世界で生きるためには必要なものだ。自分の寝床を居心地良くするのと同じくらい当然の動機だと思う。
だから、この世界を変えるのは夢想の自慰ではなく、単なる生活活動だ。
そして、そうやって賢しいフリをするのもまた自分という人間。
きっと他人にとってはエドの目標なんてどうだっていい。皆が納得する利己と欲望に満ちた言葉を口にすればいいのだ。
エドはそっと心臓の部分をわしづかみにして、ぐっと力を入れた。
まるでそうしないと、心臓が固まって、止まってしまうかのように。
姫様には、言えねぇよな。
クレオリアのことを思い出して、黒雲が頭上を覆ったような気持ちになる。
今年はもう、姫様、クレオリアに会いに行く年で、数ヶ月が過ぎている。
いつまでも、グズグズしている場合ではない。
あの姫様のことだ。随分カリカリとしているだろう。
『迎えに来てね』
そう言った、女子高生の姿を今でも覚えている。
クレオリア、上郡美姫を日本に帰す。
それもエドにとっては大切な目標であることは間違いない。
でも、二人で日本に帰ることはできそうにない。
皮肉なことに、エドが日本に帰るために努力すればするほど、エド本人は日本に帰れなくなるのだ。
それどころか……。
エドはため息を吐いた直後、イヤイヤと自身の後ろ向きな考えを否定する。
そんなのは会いに行かない理由にはならないだろう。
エド自身が日本に帰れないことは納得して、それをクレオリアに黙っていればいいだけだ。
元々、日本にそれほど未練はない。
いや、ゴメン。嘘。帰れるなら帰りたい。
正直になればそういう気持ちは確実にある。日本で、のほほんと学生生活を送るということが、どれだけ幸せなことか、それを否定することはできない。この世界の親や兄弟を見捨てて帰ることになったとしても、湧き上がる気持ちは未だにある。いや、六年前よりも強く思う。六年前には実感できなかった。
『不幸が当たり前にある世界』と『不幸であることに気がつかない世界』。
どっちがいいのか分からないが、エドは今なら迷わず後者を選択するだろう。
しかも、今の状況は実は目には見えないが、とてもまずいことをこの街でエドだけが知っている。その状況から逃れるには、日本へ帰るのが根本的に解決の方法となるのだが、帰れない理由もそれに起因してくる。
とにかくすぐに会いに行けよ。
エドはゴシゴシと雑巾に力を入れて、自分を叱咤激励する。
ナイジェルの弟子になって、夕方まで外を歩けるようになった今が、会いに行くにはいいタイミングだ。
ウダウダと考え事をして、その場に立ち止まろうとする自分の性質を、エドは自覚していた。
ええい! とにかく会いに行こう。それから盗賊ギルドのことも調べる。
まずはそれだ!
それ以外のことは考えないようにしないと、ためらいの汚泥に足を取られそうだ。
よし! 今日、会いに行こう。決まり! いや、それはどうなんだろう。
今日、何十回目の上がったり下りたりの決意と逡巡を繰り返す。
モヤモヤを落とすように、真っ黒になった雑巾を桶の水にザバザバと漬け込み洗う。
それよりも、いや、それよりもってことはないが。
ベックだ、ベック。アイツの利用方法……もとい、利用価値なしって話だ。
十二歳の少年にすべての鬱憤をぶつけるように思考を戻す。
最初に考えていた思惑では、ベックとの関わりを足がかりに、盗賊ギルドの内情について調べるつもりだった。
が、一週間、娼館で働いてみて、盗賊ギルドについて調べるならベックは下っ端すぎることがわかった。
盗賊ギルドはこの街ができてしばらくして成立したらしい。少なくとも二百五十年以上おそらく三百年近く前から。
都市人口千人弱。おそらくは八百人台というこの街の市民に対して、貧民街は倍近い人数が住んでおり、盗賊ギルドの構成員は数百人。エドが貧民街で調べた感じでは二百人以上。この街の常備兵が十人ちょいということを考えればどれだけ大勢力かわかる。
この街の三大勢力は貴族、アーガンソン商会、盗賊ギルド。
十五年前までは表社会を貴族、オヴリガン公爵家が、裏の世界を盗賊ギルドがおさめていたらしい。だが、アーガンソン商会がこの街に腰を下ろしてからは勢力図は変わった。
恐らく、いや、間違いなくだが、アーガンソン商会の武力は盗賊ギルドより大きい。
そうでなければ二百五十年以上の力関係の間に、一介の商人が割って入るなどできないだろう。
アーガンソン商会の警備部所属の人間は現在二十一人。人数では十分の一でしかないが、個々の戦力ではアーガンソン商会の警備兵達の方が優っているだろう。といってもエド自身はそれほど武芸の才能がないので、判断はできない。聞いた話では、アーガンソン商会の警備兵達は『スゴイ』というだけである。
それよりも『ヤバい』のが、アーガンソン商会の商人や、メイドや、本来荒事とは無縁の人間たちだ。
サウスギルベナ魔道士ギルド長のジガ、No.2の商人アベル、行商人のジャック、執事長チャーベリン、メイドのグウィネスとアンジェ、意外だったところでは鍛冶師のドワーフ、ガーランド。とにかく例をあげればキリがない。
灰魔術師としての目で見れば人外、本当に人間でないのモノも含めて、『ヤバい』としか言いようのない面々が揃っている。
あれを相手にして、盗賊風情が数百人いようが物の数にもならないだろう。特にグウィネスとガーランドに関しては単体で殆ど戦術兵器並の存在だ。飛び抜けすぎていて実力の程もエドには分からない。もしかしたらセドリック級の存在かもしれない。実際だからこそ、盗賊ギルドは新参者の第三勢力を受け入れたのだ。
オヴリガン家が、統治と法を司り。
アーガンソン商会は、陸路港湾を含む交通網と経済を。
盗賊ギルドは貧民街の人的資源を元に、奴隷と治安維持。
盗賊ギルドが治安維持というのもおかしな話だが、彼らが最大構成層の貧民街の住民を管理し、時に罰するからこそ、オヴリガン家は少ない人数でこの街の治安を維持できているといえる。
何の話だったか……。そうそう。
エドは雑巾を汚れたバケツから引き上げギューと小さな手で絞った。
この街で最大数の人間を抱える盗賊ギルドを調べて、彼らの権益に手を突っ込むには末端中の末端構成員であるベックでは役に立ちそうにない。この娼館に勤めることができている現在、ベックに利用価値はない。なにせ娼館は盗賊ギルドが独自に経営する中では最大の収入源である。この店の経営者であるゴンズレイは組織内でもかなり地位が高いはずだ。ゴンズレイとは初日に会ったきりだが、その直属の配下で、現場責任者であるディガンは毎日店に詰めている。そうなると、下っ端構成員の十二歳ベックの利用法など、エドには思いつかないのだ。
そもそも、人付き合いとか好きじゃないし。
本当に自慢にはならないが、前世でエドは高校時代の友達数が0だった。小中、記憶のあるかぎり遡っても、結果は同じだ。
人と喋って愛想笑いするだけで、神経が摩耗する。
ベックにはやる必要があるから、愛想よくしているだけだ。
アーガンソン家の面々に、ナイジェルに、ベイトマン父娘、盗賊ギルド員。
コミュニケーションを取らなければならない人間は多々おり、これからも増えていくだろう。残念ながらエドのコミュ力HPはこの身体の魔力と同じく前世に引き続き貧しい限り。先々のことを考えると必要のないものはできるだけスリム化しておきたい。
「水換えに行きまーす」
エドは真っ黒になったバケツの水を交換するために立ち上がってベックの側にいった。
少年の足元にあるバケツに手を伸ばす。
「サボんじゃねぇぞ」
睨んできたので、ニヘらと笑って、
「はい、ベックさん。すぐに行ってきます」
と答えてすぐに立ち去る。
勘弁しろよ、クソガキ。
内心の悪態はすっかり隠して、気持ちの悪いくらいに愛想よくしておく。
そうでなくても人との交わりなんて好きでもないのに、こちらに悪意の持っている人間との言葉の交換はゲージをごっそりと持っていかれた。
エドは天秤棒を持ってくると、それを二つの桶に通して持ち上げた。
うー、重い。
細い棒が肩に喰い込む。肉が肩甲骨に挟まれて痛いのだが、これが一番運びやすい。二個なので両手に下げれば良さそうなものだが、六歳児では重さもさることながら一個でも身体の大きさの関係上、バランス的に運びにくいのだ。
ヨロヨロとしながらも水桶を担いで、店の外に出る。
まず向かうのは排水路だ。
臭いの問題もあるので、店先に廃水を捨てるわけにはいかない。
幼児の足で、歩いて十五分ほどに川があった。
ヨタヨタとそこに向かう。




