10 東方戦線異常無し
東方。
その名の通り、帝国の最東に位置している。横に広大な大陸では大陸全体から見れば中央地にあたる。これより以東の地は異民族と魔族、そしておそらくは帝都以北と同じように人の住めない魔境が広がっている、と噂されている場所だ。過去、その地を統一した者は神話と歴史の境目にただ一人存在しただけの場所だ。
三百年前から西の王国との緊張関係を抱える帝国だが、建国以来千年に渡り異民族との戦いを繰り広げているのがこの東方だ。その大半はお互いにとって防衛線のづらし合いであり、軍事的な緊張感で言えば近年は西方の方が高まっていると言われている。だが、実際にこの帝国で千年もの間『防衛戦』と『侵略戦争』を繰り返している場所はない。
「短弓、構え!」
「短弓、構え!」
「短弓、構え!」
副官から伝えられた命令が、それより下手に向かって水が流れるように伝わっていく。
数百の弓を構えた歩兵たちが同時に、一斉に同じ動きをする様は、この軍隊の精錬の度合いを物語っていた。
その自然な流れは粗野だが美しくもある。
番犬のように、弓兵達はそのままの体勢で動かない。
目前には兵装も統一していない、上半身の肌をむき出しにした蛮族共が、雄叫びを上げ、血塗れた武器を振りかざし、戻ることなど考えていないほどの勢いで迫ってくる。
だが、構えた兵士たちは動かない。
戦場は東方の砦。敵はその森の境目から湧き出てくる異民族。丘と丘、一見すると畝のようになっている土の波の地形を走り、バラバラに突っ込んでくるその有り様は整然と並んだ東方軍とは相反して見える。しかしそれは各々が各々の特性と利点を追求した結果だった。
森の境目といっても、東方の大半は森と山岳と荒野の繰り返し。だいたいどこに行っても森の境目に当たる。丘陵も多く、あまり騎馬隊が用いられないのも、長弓が用いられないのも、広大な平野での戦闘が殆ど無いという東方での戦場の特徴だ。
「てぇ!」
副官が鋭く短く、命令を告げる。
また下々に水が流れるようにそれが伝わっていく。
鋭くやや下方に放たれた矢が数百、黒い雲霞の様に異民族の最前線を襲い、鏃は露出した肉体に容易くめり込み、何十の命を奪った。
「突撃!」
第二令はさらに早く下部に伝わり、金属鎧に全身を包んだ歩兵が弓兵の脇を駆けてゆく。
あっと言う間に統制から混濁に戦場は変わる。兵装の特徴以外に敵味方を区別するものがなくなる。どこでも、泥に塗れ、剣を振るって胴を裂き、斧を振るって腕を跳ね飛ばし、棍棒で兜ごと頭を叩き潰す。
今日も東方の一日が始まった。
副官の男は斜め下で始まった日常に今日も異常がないことを確かめながら、鍋底が焦げ付かないように火加減に気を配る。
ここ最近、東方の火加減がおかしい。それは実際にその場にいる男だからこそ感じることだ。
例えば今日のこの戦いだ。それほど異民族との最前線でもないこの砦が襲われた。そういうことがいままで無かったかといえば勿論そんな事はない。異民族達はゲリラ戦が最も得意とする戦術だ。神出鬼没に襲ってくることは当たり前といえばそうなのだが。しかし最近その規模と頻度が僅かながら増え、それによってこちらが被る被害も増えている。
その異変はどちらかと言えば自分たち東方軍にとってあまりいい兆候ではないようだ。あくまでも彼の個人的な予感のようなものだが、今までそれで生きてきた男としては気のせいと捨て置くことは出来なかった。
彼が新任の副官としてこの場にいるのもその異変の結果だった。彼の主は確かに武名に勝り、二人と並ぶ者のない英雄であるが、軍隊であるかぎり主の勇名が轟いたのは主の配下たちのお陰でもある。その有能な部下たちが、主の元を一人また一人と去っていく。それは本人同士の信頼関係というより、政治的な思惑であるのがよりたちが悪かった。
しかしこの真綿を締めるようなまずい状況をどうにかできるとすれば、それはこの東方にやはり一人しかいない。
その人物を戦場の中から探そうとして、しかしその動作は中断された。
「父上はどこだ!」
振り向くと、数人の騎士を連れた金髪の男が立っている。この戦場において、ジャーキンの上からダウンを羽織っただけのどこからどう見てもどこかの貴族という男だ。副官の男と同じ年代の、四十代の男。
副官はその男のことをよく知っていた。後ろの砦に滞在していた男で、東方においてはかなり身分が高い。どこかの貴族どころか最も尊敬し崇拝されている家に生まれ、その長子である男だ。
ただし、と副官の立場では付け加えなければならない。
全ての尊敬の念も、崇拝の対象も、家柄などというものでまとめればそうなのであるが、それらは正確には一人の男が築き上げたものだ。息子である後ろの男はそれに全く寄与していない。本人が自覚しているとは思えないが。
「この中にいらっしゃいますよ」
副官は先程から探していた男が見つからないまま、金髪の貴族に教える。
副官も貴族と同じ人物を探していたが見当たらないので、この近くにはいないのだろう。
あの人は何がどうしたって衆目を集めるのだから。
「これは一体どういうことだ!」
貴族が吠えるように副官に詰め寄るが、鍋の火加減を見逃さないように、戦場に目を向けたままで答える。
「何がです」
「なぜこの砦が襲われているのだ!?」
そう言って貴族は戦場を指さす。
「さぁ」
やはり副官はまったく貴族には目を向けずに答えた。
そんなこと俺に聞くなよと思うが、『一応』あの人の息子で、帝国の大貴族だ。
色々と推測することならできるがそれを彼と議論し合うつもりもない。
たとえば先日ずっとここから南にある常闇の都の女王が単身街道を西に進んでいるという情報が入っていた。もしかしたらそれに押し出されるように異民族が北に動いたのかもしれない。
少なくとも主と副官の軍がこの砦にいるのはその影響だ。
一人で旅する女王というのも、それが軍に動向に影響を与えるというのもおかしな話だが、アレは普通の人間が想像するような女王様というより、一個の天災のようなものだ。地震や津波に人間が影響を受けることは、それはそんなに不思議なことではない。天災的人間が存在するのかという問題もあるが、誰も人間だとは言っていないからやっぱり問題はない。
彼の主。副官なので当然主がここにいるのだが、その人物によると、常闇の女王が何か思惑を持って動くことはないのだそうだ。あの女王は天災の名にふさわしく気まぐれに人に厄災をまき散らして去っていくらしい。
森との境目辺りで、木がベキベキと倒れているのが見えた。
副官はそれを指さす。
「ああ、大殿は彼処ですね」
行けるものなら直接言いに行け、と戦場にもかかわらず鎧も身につけていない貴族に言う。もちろん鎧を着けていても行く勇気はないだろう。そんな勇気があればここぞとばかり主には黙って後ろからバッサリいったほうが、世のためだと半ば本気で副官は思った。
「なぜこんな後方の砦が襲われるのだ!」
また同じことを中年貴族の喚き散らす声が鬱陶しい。が、言っていることはそう的外れでもない。もちろんこの貴族の場合は自分の身の安全のことであって、副官の男のように東方全域における戦略上の疑問点ではないが。
もし、偶然主の軍勢が、一応常闇の女王の動向に警戒し、この砦に立ち寄っていなければ、きっとあっと言う間に砦は落とされていただろう。副官も主の判断を当初過敏だと思っていたが、その判断が彼の息子の命を救い、異民族達にとってはかの天災と同じくらい予想外の不運だったろう。
それが異民族達にとって不幸なだけで済んだのかは微妙なところだが。
「私に聞かれてもわかりませんよ。新任ですからね」
自分の違和感をこの貴族に言っても仕方がないからそう答えて、副官は貴族の方を向いて腰の剣を抜いた。
「な、な、なにを!?」
貴族が狼狽した様子で数歩後ろに下がる。貴族の護衛の騎士たちが気色ばんだが、副官は相反してまったく顔色を変えずにその剣を軽く振るった。
軽い音がして、流れ矢がへし折れて地面に転がる。
「そんな格好では危険ですよ」
と、剣を鞘に戻して戦場に目を戻した。自分のお人好し加減を顔には出さずに。
探していた主がいるだろう辺りでは、また樹木がゆっくりと倒れていた。それはつまりそこが今日の戦いの最前線であることも意味している。
今日も平常運転だ。
副官はその様子を眺めて、まるで自分の主の健康状態を測ったように心の中で呟いた。
「フン!」
気合とともに巨大な三日月斧が横薙ぎに振るわれる。
竜巻が起こったようにその範囲の内側にあるものが異民族だろうが、樹木だろうが吹き飛ぶ。
撃ち終わりを狙って懐に入ってきた敵兵の頭を金属の手甲が鷲掴みにして横の異民族に叩きつけた。
恐ろしいことに、その騎士、全身鎧で隙間なく身を覆った騎士は、片手で自分の身長よりも大きな三日月斧を軽々と、その一撃は決して軽々としたものではないが、自由自在に操っていた。
三日月斧に限らず、この類の武器は、刃以外の柄の部分などは取り扱いを容易にするために樹木などを材料にする場合があるが、この騎士の持つものは全金属製の物だ。
ただし、実際のところその逸品は魔法金属を使ったもので、見た目ほどの重量はない。しかしとても軽いとは言えない。少なくとも常人に扱えるほどには。重さも相手を叩き潰すには重要な要素であったから、軽量化にはそれほど重点を彼は置いてはいなかったのだ。
使い始めた当時は光り輝く銀だった全身鎧は、今では黒っぽく変色している。夥しい敵兵の血を浴び、憎悪を受けた結果その魔法金属がより戦に特化した性質に変化したからだ。
面当兜でどのような人物なのかは分からない。身長は二メートルほどだが、金属鎧の嵩を考えると百九十センチ前後だろうか。鉄の塊の様な全身鎧に身を包み、三メートルほどある三日月斧を操る戦士にしては、均整のとれたフォルムをしていた。
あまりに特徴的な武装によって、その顔立ちが伺えないことはこの戦場において関係がないようだ。実際単騎で最前線に立つ彼の元には尽きることなく異民族達が群がっている。理由は敵味方にあるだろう。敵方の理由としてはこの騎士を倒せば、東方全体の戦いも終結すると、敵でありながらそう信じているのだ。そして味方の理由としては、この嵐のような騎士の一撃の近くに、味方がいるほうが彼の邪魔になるとこれまた明確に理解していた。どちらも単純な理由から彼は単騎で最前線にいた。
いや、単騎ではない。一人、彼の後方に一人の帝国兵が戦っていた。
騎士の殺傷範囲ギリギリ後方に、これまた狂戦士のように長剣を振るう兵士がいた。胴鎧に身を包み、簡易な兜を身につけただけの従者のようだった。
兜から除く顔立ちはまだ幼さが残り成人は迎えていないように見える。
その少年が、自分の主ほどではないにしても、まさに剣風というべき暴走した鎌鼬のような連撃を振るい、主の背後を狙う敵を切り刻んでいた。
その攻撃はメチャクチャに振り回しているだけのようだが、実際はまだ未成熟な体で長い剣を振るうために遠心力を利用しているためだ。一つ一つの動作が素早く、もたらす結果が凄まじいためにメチャクチャに暴れているように見えるが、実際は天才的なまでに制御された動きだった。
ふむ。と主の男は一息ついた。別に襲い掛かる敵が減ったわけでもない。当然三日月斧を片手で振るいながら。自分の従者に目を向けるためだ。
この従者は先日から自分の傍に置いて鍛えている少年の一人だ。
歳は確か十三歳ほどで、本来なら帝都あたりで学院高等部の入学試験のための準備をしているような年齢だ。
あんなところで千年学んでも何もなりゃせんが。
戦場でのみ戦いを学んだ騎士は、よく知りもしない帝国最高峰の教育機関をそう断罪する。
あんなところでチマチマと育てるより、戦場に一日放り込んだほうがどれだけ効率的か。
自分の息子達とこの少年を比べてもそう思う。
結局戦場で役に立つかどうかは、戦場でしかわからない。
この少年のような存在がそうそう現れるわけではないが、それを判断するためにも戦場に放り込んでみるに限る。戦場という竈は適正のない不純物を淘汰して灰に変えてくれる。
一人でも多く、若く強い力が必要なのだ。
男は自身が戦場において図抜けた力を持つが故にそう考えていた。自分に続く力を、自分に及ばないならそれなりの力を持つ者を数多く、だ。
そうでなければ帝国は滅びる。
それは帝室批判とも捉えられかねないために、実際誰に口に出したことはない。だが間違いない。証拠を示せと言われても無頼者の彼は中央の狸たちのような弁説は持つ合わせていない。
だがしかし、彼は彼をこの長年戦場の中で生かし続けていたこの『カン』を持って、千年の歴史を持つ国家が自分のように老いて、ゆっくりと誰も気づかぬほど確実に朽ちようとしているのを感じていた。
だからこそ、今こそ、若い力が必要だった。
十年ほど前に中央政界に現れた銀の髪を持つ青年や、黒魔術の始祖オズ・ウィザードの再来とも言われる天才のように若い力が数多く必要なのだ。
そう言えば、と騎士は連想する。
天才といえば、オヴリガン公爵家にも神童と呼ばれる姫がいる。
たしか名前はクレオリアとか言った筈だ。
なぜ東方にいる彼が南方の公爵家といえど貧乏貴族の一姫の名前まで知っているのかといえば、彼がクレオリアという少女を並々ならぬ関心を持って調べたからだ。
彼には、
彼の家にもまた、若き才能は育っていた。
それは東方で最も有名な騎士である彼の後継者と、彼と周囲も認めていた息子『だった』。
七年前、その息子と契を交わし、子を産んだ冒険者がいた。
つまり彼の孫を産んだ女だ。
その女と孫の行方を追って辿り着いたのが、サウスギルベナ。つまりオヴリガン侯爵家が邸宅を構える街だった。
彼の孫が男の子だったのか、女の子だったのかまでは分からない。しかし、孫が生まれたらしいという日と、クレオリアという姫が生まれた公式記録はほぼ一致していた。
彼がまず考えたのはそのクレオリアこそが彼の孫なのではないかということだ。あれから数年経ってこらした耳にその神童の噂が聞こえる度に、そうなのではないかという願望が首をもたげる。ただし、クレオリアの母親が大地母神教会の産婦施設に入院していたという記録もあるので孫ではない可能性が高いということも理性では分かっている。
だが仮にこの姫がそうでないとしても、彼の孫が生きているのは間違いない。
そこにアーガンソン商会という地方豪商の総帥が絡んでいることも分かっている。ソルヴという名のその商人は、孫の母親の冒険者仲間だった男だからだ。そして、孫が生まれたという日、共同墓地にソルヴの手によってその女と孫らしき赤子が埋葬されたことも。
だが、それは逆にソルヴがこの一件に関わっており、孫が生きている、生かされていることの証明となった。なぜなら、これは決して表には出せないが、赤子の死体を掘り起こし、それが孫でないことを調べたからだ。まさかソルヴも赤子の血筋を調べる方法があるとは思わなかっただろう。しかし実は、彼の孫かどうかを調べるのは簡単なことだったのだ。
しかし、生きているということは確信を得たが、それ以上のことは分からなかった。調べていた間者と連絡が取れなくなったからだ。間者が送ってきた赤子の体の一部を受け取って以降、音沙汰が無い。流石に共同墓地を掘り起こしたせいでアーガンソン商会の警戒網に引っかかったのだろう。そしてそれも彼の孫が生きていることの証だ。
本当なら彼自身がサウスギルベナに行きたいところだ。
だが、それは彼の立場と状況から彼のような性格であっても不可能だった。
二人の息子のことも、孫のことも、身内のことでありながら結局は政治問題ということから逃れられない。それが大貴族というものだ。
「大殿」
従者の少年がいつの間にか剣を降ろして、跪いていた。
周りを見れば死体の山が積み重なっているだけで、二人以外の姿もない。
朝飯前の運動終了というわけだ。
大殿と呼ばれた騎士は三日月斧を肩に担ぎ、片手で面当兜を外す。
髪を角刈りにした老人の顔が見えた。先ほどまで物思いにふけながら鬼のように戦っていた力の持ち主とは思えない。加齢によるシワの刻まれた皮膚と灰の髪を持つ男だった。
「大殿と呼ぶな」
ブスッとした声で老人は少年を見下ろす。
「畏まりました大殿」
シレッと不敬な態度で少年が答える。彼の部下らしいといえばそうなのだが。
しかし騎士は『大殿』と呼ばれるのが嫌いだった。
若い力が必要だなどと言っているが、そう呼ばれるとまるで自分がご隠居のように感じるからだ。
だが彼の部下たちはみな彼のことを『大殿』と呼ぶ。
彼の後継者だった息子が『若殿』と呼ばれていたからだ。東方の彼の家ではずっと当主のことをそう呼ぶ。
「狼煙が上がりました」
従者の少年がそう言って砦の方を指さした。
「よし、腹も減ったし朝飯にするか」
「はい」
騎士はまるで農作業でも終えたかのように、のんびりと戦場を横切って砦に向かって歩き出した。
彼は本名以外に多くの尊称を持つ。部下や家の者達が『大殿』と呼ぶのもその一つだ。
公爵と呼ばれることもある。
帝国において二人しかいない王と呼ばれることもある。
異民族達は憎しみを込めて『鉄鬼』と蔑怖する。
英雄譚や領民たちの間では憧れを表して『竜騎士』と呼ぶ場合もある。
二百年にわたり東方軍を統べる武家の棟梁であることから『征夷大将軍』とも。
しかし、彼の呼び名で最も有名な、帝国に住む者なら誰にでも通じる呼び名は、唯一つだ。
帝国の軍事力を統べる四つの勢力という意味に、そこに彼の家名を加えてこう呼ばれる。
『四天』のビスマルク、と。




