004 エドゥアルド・ビスマルクは死にました
帝国の貿易港 サウスギルベナ。
敵国である王国との貿易が主であるために、その規模は大きくはないが、辺境の地ギルベナにとっては大切な収入源である。
辺境の地ギルベナ
帝国領土の最南端に位置し、西に大山脈。南に先ほど述べたように海を望む。北と東には荒野と砂漠が広がっており、経済規模はお世辞にも大きいとはいえない。
元々は帝都を様々な理由で追われた流刑者達が開拓した地域で、人が暮らしていくのに適した土地ではなかった。
そのギルベナ最大の街が、貿易港と同じ名を持つサウスギルベナ。
その街の最大の権力者がアーガンソン商会の創設者である、ソルヴ・アーガンソンである。
まだ40代の彼と、彼の商会は10年前にこの街に来てあっというまにこの街の表裏の世界を牛耳ってしまった。
元々アーガンソン商会は帝都でも有名な会社だったのだが、10年前に本拠地をギルベナに移した。当時は新進気鋭のソルヴ総帥のご乱心として、政財界に限らず大きな話題となったが、その真意がどこにあるのか本人が口にすることはなかった。
そのサウスギルベナにある、ソルヴの邸宅が俄かに騒がしくなったのは、まだ夜が明けきっていない時間。かろうじて太陽が地平の向こうからやってくる気配がする時刻のことだ。
ソルヴ・アーガンソンはすでに起きていて、大きな体躯に相応しく大股で歩いていた。
この街でもっとも富を持つ者であるが、その体には無駄な肉は付いておらず、商人と言うよりも一角の大将軍といった風貌の男である。四角く骨ばった顎を持つ顔立ちは美男子とは言えないが、ギラギラとした好奇心と知性を感じさせる瞳は魅力的にも見える。
ソルヴは敷地内にある馬小屋の扉を勢い良く開けた。
馬小屋には一人の女が倒れていた。
藁の山に背中を預けているその下半身は血にまみれている。
年は確か三十代の前半だったか。眉の張った気の強そうな美女だったが、今は弱々しく息をするのみ。
そう、ソルヴは彼女を知っていた。最後に会ったのはもう10年以上前だったが、今も十分に美しい顔立ちをしていた。
ソルヴは近づくと、女を介抱している内の一人に声を掛けた。
「ジガ婆、どうだ?」
ソルヴに呼びかけられた、老婆が振り返った。ローブに身を包んだその老婆は皺だらけで細やかな表情はわからない。ジガと呼ばれた老婆の手には、一人の赤ん坊を抱えていた。
「赤ん坊は無事じゃ……が」
女の方にジガが目をやったので、ソルヴも視線を女に向けた。女は虚ろな目を宙に向け、弱々しい息を繰り返すのみで、生まれたばかりのわが子を抱く力もないようだった。
ソルヴは再びジガに視線を向けた。
無言の問いに、ジガはやはり無言で首を横に振った。
「そうか」
短く答えてから、ソルヴはジガから赤ん坊を受け取る。それからソルヴは全員に馬小屋から出て行くように言った。赤ん坊を抱えたまま、女の側に膝をつく。
「エリス」
人がいなくなった気配がしてから、ソルヴは女、エリスに声を掛けた。虚ろだったエリスの瞳に力が戻り、一筋の涙が流れた。
「ソルヴ」
名を呼ばれたソルヴはエリスの手を握った。
「……私の赤ちゃんは?」
「見ろ。元気な男の子だ」
赤ん坊をエリスの胸の上に置くと、握った手を赤ん坊に沿わせる。
「ああ、私の可愛いエドゥアルド」
「そうか、エドゥアルドという名か。いい名前じゃないか」
「ごめんなさいソルヴ、ごめんなさい。あなたしか頼る人がいなかったの……」
ソルヴはエリスの頬に手を伸ばした。そしてとびっきりの笑顔を浮べる。
「何も心配するな。この子のことも、お前のことも、全て俺に任せておけ」
しかしソルヴの言葉が届いているのかどうかは分からない。エリスの瞳にはすでに力がなく濁りが見えた。
「ソルヴ、この子のことを……」
それがエリスの最後の言葉だった。
ソルヴが馬小屋から出てきた。手には赤ん坊を抱えている。
それを見て、ソルヴの腹心である男が進み出た。その手には一通の手紙がある。
「あのご婦人が、ソルヴ様に宛てた手紙です。身体を検めた時に見つけました」
赤ん坊をジガに預けると、ソルヴは手紙を受け取った。
封を開けて、手紙に素早く目を通す。
「この赤ん坊の名前は、男の子ならエドゥアルドと言うそうだ」
一通り目を通してから、ソルヴが口を開いた。先ほどの明るく笑って見せた顔はどこにもない。
「姓はビスマルクだそうだ」
その言葉に、腹心の男が一瞬だけ眉をひそめた。
「ビスマルクと言えば」
男の言葉に、ソルヴは何も答えなかった。答えは全て手紙にあったからだ。そして、ソルヴはその手紙をくしゃくしゃに丸めると地面に放る。
「ジガ婆」
ソルヴの呼びかけに、ジガは片手で赤ん坊を抱えると、もう一方の手の指先を地面に転がった手紙に向け、短いルーンを唱える。
手紙がポウ、っと炎に包まれた。そのままあっという間に灰へと姿をかえる。
突然の炎に驚いたのか、赤ん坊は大きく鳴き声を上げた。
それを見て、ジガが笑い声をあげる。
「おお、泣くがよい。泣くは健康な証じゃて」
が、その直後異変が起きた。
赤ん坊の泣き声に呼応するように、屋敷を覆う空一面に大量の死霊らしき霊体が現れたのだ。
「なっ!」
男は咄嗟に身構える。ソルヴは少し眉を顰め面妖な光景を見上げ、ジガは感嘆したような声を上げていた。
死霊たちが見えていたのは一瞬で、すぐにその姿は見えなくなった。今は夜明け前の夜空に星が瞬くのみ。
「これは……」
男が呆然と呟く。
「ジガ婆、今のはなんだ」
ソルヴの問いかけにジガは驚きと愉しみを交ぜた声を上げた。
「なんとまぁ! 今のはこの屋敷に向かってかけられていた呪の類ですじゃ。残滓のような霊ではありますが、それがこの子の一声で消し飛んでおりまする」
「ほう」
「ついでにワシがこの屋敷に仕掛けておいた防御結界も消し飛んでおりますが」
「そちらの方が大事だな。確かにこの赤ん坊の力か?」
「はい。ただし、どんな力かはわかりませぬ。何故かワシの魔力感知も働きませんでしたからな」
「今はどうだ?」
「ふむ?」
シガは赤ん坊を抱え上げて眺める。
「特に魔力も神力も感じませぬな。平凡な赤ん坊のそれです」
「害はなさそうか?」
「害意に関係なく無差別に消し飛ばすことは問題ですが、体には害はありませんじゃろ。あればワシら三人も唯ではすまなかったはずですわい。古来より赤ん坊の泣き声は万難を退けるとはいいますが、『恩恵』の類は詳しくは調べてみなければわかりませぬ」
「よし。調べるのはジガ婆に任せるとして、今は放っておこう。今はこの赤ん坊をどうするかだ。アベル」
ソルヴは腹心の男の名を呼んだ。男が一歩前に出る。
「赤ん坊の亡骸を手に入れてきて、女と共に埋葬しろ。この赤ん坊の方は使用人の誰かに育てさせるように。
それからエドゥアルドはまだしも、ビスマルクを名乗らせるわけにもいかんな。……そうだな。有能な子に育ったなら、アーガンソンの名を継がせてもいいだろう。
あとは旅の準備を」
アベルは黙って頭を下げ、主人の命を了承する。
この日、この街で一番の権力者、ソルヴ・アーガンソンの屋敷でちょっとした事件が起きた。
馬小屋に流れ者の女が入り込み、子を生んだ。女はそのまま死に、赤ん坊も命を繋ぐ事はできなかったという。二人は町外れの墓地に埋葬された。二人に名はなく。墓碑銘も刻まれなかったという。
この事件での影響はまったくなく、アーガンソン商会の総帥ソルヴ・アーガンソンは帝都へと商用で旅立っている。