023 灰の世界と暁の光
「あなたには公爵家令嬢の誘拐と殺害の罪を負ってもらいます」
シリィは司祭が言った言葉を最後まで理解することはできなかった。ただ自分の腹に突き刺さった短剣を見て、そして司祭の顔を見た。
司祭は満面の笑顔を浮かべてシリィを見ていた。それは昔日に行き倒れていたシリィを抱き起こしてくれた時と同じ笑顔だった。
「ありがとうシリィ」
司祭はシリィの腹に埋まっていた剣を引き抜く、その空いた隙間から吹き出るように血が溢れ出て床を濡らした。シリィは反射的に腹を両手で押さえたが、湧き出る泉の様な血は指の間から止まることなく床へと滴り落ちる。体を保つことができずに、膝を付いた。
それを見届けて司祭は後ろを向いた。そして視線を籠の中の赤ん坊達に向ける。
「それでは、御心をなし遂げよう」
司祭は短剣を手に下げ、赤ん坊に近づく。
「アーガンソン商会の子供の方は、リガリオ達が助け出したことにするか」
グルバ達がエドゥアルドまで一緒に誘拐したのは誤算だったが、結果としてはアーガンソン商会への貸しができそうだ。
司祭はクレオリアとエドゥアルドを引き離そうと籠を覗き込む。
二人の赤ん坊は目を覚ましていた。
「これは……」
司祭はクレオリアを見て呻いた。最後に見たときは衰弱していたのが嘘のように、他者を平伏すようなオーラがあった。
「一体何があったのだ」
司祭の声に反応するかのようにクレオリアが声を上げる。それは泣き声ではなかった。
怒りの声だ。もしも司祭が日本語を理解できたなら、生まれたばかりの赤ん坊の喉であっても、それが異世界の言葉であったことが分かったかもしれない。
「正体を現したか! 悪神の使いめがっ!」
だが言葉は分からなくとも、クレオリアのあげる声が怒りに満ち、それが自分に向けられていることはわかった。生まれたばかりの赤ん坊だが、その目にははっきりと意思の力が宿り、まっすぐに司祭を睨みつけていた。
「滅びろ!」
司祭が剣を振り上げたのと同時に、クレオリアの体が光輝き、目を焼き尽くすような眩い電撃が放たれた。雷は声を放つ間もなく、司祭の体を貫き後方へと弾き飛ばした。
床に倒れた司祭は体から煙を発し、ピクリとも動かない。
「……クレオリア様」
シリィは霞んでいく視界の中で一部始終を見ていた。クレオリアの体が神々しい光に包まれ、司祭の体を雷で打ちすえたことを。
床に這い蹲って、赤ん坊達の元までたどり着いた。腹から流れる血が、床の木目に赤い擦り跡を描く。
シリィは机に縋り付くように体を起こすと、籠の中の赤ん坊を覗きこんだ。
クレオリアがシリィを見て、呻くように声を上げる。その隣には、エドゥアルドはしっかりとクレオリアの手を握っていた。
二人の赤ん坊はシリィを見ていた。そこにはすでに怒りはなく、悲しみを湛えたような、慈愛に満ちたような、そんな瞳をしていた。生まれたばかりの赤ん坊達が意思を持った瞳で見つめることにシリィはもう疑念を抱かなかった。きっとクレオリアは、そして同じ時に生まれたエドゥアルドは、シリィには考えも付かない、何かしらの意思によって産み落とされた子供達であると、確信を持ったからだ。
「もう、大丈夫……」
シリィは失血で朦朧としながらも、二人に声を掛け、二人が寝かしつけられている籠を両手に抱えて立ち上がった。
「お家に、帰ろうね……」
シリィは籠を抱えてゆっくりと歩き出した。視界は歪み、体は重かったが、何か温かい陽にあたっているような気分がした。事実、魔力感知ができる者がこの光景を見たならば、二人の赤ん坊からシリィへと生命の力が流れているのがわかっただろう。それは白魔術の治癒魔法ととても良く似た力だった。
だが、赤ん坊達からの力がシリィの傷を治しているわけではなかった。シリィは腹から血を流しながらも、司祭の執務室を出て廊下を歩いていく。まるで、その力は消えかけの蝋燭を、両手で包み込んで風から守ってくれているような、そんな力だった。
「……お家へ帰ろう」
熱にうなされるかのように、同じ言葉を弱々しく呟く。
シリィにはもう考える力はなかった。だから自分がどこへ向かっているのか、どこへ向かうべきなのかを考えることはできない。けれど、シリィはトンネルから光の方へと歩くように、ゆっくりと、だが迷うことなく歩いていた。
光の差すほうへ、ただそれだけに反応してシリィは歩く。
もう殆ど目は見えていなかった。
その瞼には強い光だけ瞬いているのが映っていた。
やがて、光の下に、シリィはたどり着き、膝を付いた。
温かい、優しい風がシリィを包む。
急に視界がはっきりしていくのが分かった。
シリィがいたのは、そよ風が吹く草原だった。
ああ……春が来たのね。
シリィは自分が村に帰ってきたのだと思った。
どうやって、なぜここにいるのかは疑問にも思わなかった。目の前に広がっていたのは以前良く知っていたあの村の風景で、帰ってこれた安堵感だけがあったからだ。厳しく残酷な雪の季節は終わり、生命が息吹く歌の季節が広がっている。
抱えている赤ん坊を見た。
そこにいたのは、良く知っている赤ん坊だった。
貧しい家に生まれただけで、冬を生きることが許されなかった我が子。
だが、今はしっかりとその手に中にあった。
シリィは愛おしそうにその子の頬を撫で、微笑んだ。そっと、だがしっかりと赤ん坊を抱きしめる。自然と優しい笑顔が浮かんできた。そして、あの時言えなかった言葉をシリィは口にした。
「もう絶対に離さないわ……生まれてきてくれて、ありがとう、リィーナ……」
その夜、一人の女が息を引き取った。
二人の赤ん坊を抱えたまま、守るように死んでいた女がいたのは、大地母神教団の教会礼拝堂。
発見したのは、ギルベナ領主、スコット・オヴリガン公爵である。彼は自分の子供が無事に帰ってくるようにと、祈りを捧げに夜明け近い教会へと足を運び、そこで女と誘拐されていた赤ん坊達を発見する。
礼拝堂に祀られた大地母神像の元に、眠るような表情で女は息絶えていた。そこに苦悶の表情は無く、微笑んでいるようにさえ見えたという。
ステンドグラスから光が差し込む。日の出の光を背にした、青銅製の大地母神。
その瞳が静かに、彼女と赤ん坊達を見下ろしていた。