019 夢見る人々3
黒く、赤い煙のような濁った光が眼前にあった。
言葉を発する分けではなかったが、はっきりと邪悪な意思が感じ取れた。
やがて赤黒い雲が、じわりと近づいてくる。
雲の中に稲光の様な光が瞬いているのが分かった。
司祭は、目を覚ました。
執務室の机に頭を伏せて眠っていたらしい。公爵令嬢の誘拐事件発生後、産院施設からこの大地母神を祭る教会に戻ってきたのは0時過ぎ。その後、この執務室で報告が来るのを待っている間にうつらうつらとしてしまったようだ。
赤黒い雲の夢。
この夢を見始めたのは、この二、三週間のことだった。
司祭とて聖職者の一人である。邪悪なモノを感じる夢を、ただの夢だとは思っていたなかった。
大地母神が何かを自分に教えてくれていたのか。何か不吉なモノを感じていたが、まさかこんなことになるとは。
よりにもよって、アーガンソン商会が後見人となっている子供が一緒に誘拐されるとは……。
実際のところ、公爵令嬢の子供が、盗賊に誘拐されたという問題は、大きな問題のように思えるが、司祭はどうにか処理できる問題だと思っていた。なにせここは流刑地ギルベナ。見捨てられた地である。『流刑地』の呼び名は、実際に帝国の刑罰によって、このギルベナが流刑地として指定されているわけではなく。人が生きていくには貧しく厳しい土地柄であったことと、英雄であったはずの初代公爵が皇帝の後継者争いに敗れた後に封じられた土地であったためだ。つまりここは帝都の人間からすれば、忘れられた土地なのである。だから主要な機関。それこそ帝都全土に支部を置く組織であっても、このギルベナには置かれていないという組織は多い。ギルベナのメジャー組織といえば、大地母神教団と、魔道士ギルドくらいのものだ。
そんな辺境の、治安の悪い土地で、公爵といえど貧しく、実質的権力のない小貴族の身になにがあろうが、帝都で問題にされることはないだろう。司祭の所属している大地母神教団は、この帝国で最も力のある教団組織である。今回の誘拐事件で、クレオリアが戻ることがなかったとしても、司祭自身はそれほどの罪に問われることはないだろう。もちろん教区責任者としてなんらかの懲戒を受けることはあるかもしれない。もしかしたら、司祭の職を解かれるかもしれないが、ギルベナ以上に辺鄙な土地もないからそれを罰と呼ぶかは微妙なところだ。
それよりも、である。
盗賊達がエドゥアルドまで一緒に連れ去ったのことの方が、問題だ。
このサウスギルベナでアーガンソン商会を敵に回すこと以上の脅威はない。
もちろん、大地母神教団とて、この帝国でもっとも力のある組織だということに疑いはないが、ことサウスギルベナの街に限れば、その認識は間違いだと言わざるを得ない。
もし、アーガンソン商会がその気になれば、司法手続きや不服申立てなどという面倒臭い手続を執らずとも、己が意思でその罰を司祭の身に刻み付けることができるだろう。
エドゥアルドという子供。この子がアーガンソン商会にとってどういう意味のある子供であるか。
それは司祭も知らされていなかった。ウォルコットという使用人の子供というのが公式な身分だが、特別室に入院していることから、ソルヴの隠し子ではないかというのがもっぱらの噂だった。
それが真実かどうかは別として、教団の力も弱い、この街に生きる司祭にって、エドゥアルドの身柄だけは、無事保護しなければならなかった。
その報告をずっとこの執務室で待っていたが、いつの間にか眠ってしまっていたのだ。
「いくらなんでも、遅すぎはしないか?」
この部屋には、時計などと言う高価な物はないが、感覚的には午前2時くらいだろうか。
司祭は暗闇に包まれている窓の外を眺めながら思った。
報告はまだか、こちらから確認しに行ったほうがいいだろうか?
少し不安になっていたところに、
コンコン。
部屋がノックされる。
報告がやっと来たか?
「入りなさい」
司祭が入室を扉の向こうに告げると、ゆっくりと開いた。
しかし、入ってきたのは予想もしなかった人物だった。
「シリィ?」
そう、産婦施設の職員で特別室の世話係だったシリィが入ってきた。手には籠を抱えている。
「司祭様……申し訳ございません!」
入ってくるなり、シリィが頭を下げた。
「一体こんな夜更けに、それにどうして謝るのですか? ……なぜ、ここに?」
「実は……」
シリィは、自身がクレオリアとエドゥアルドを誘拐した一味であること。神殿騎士リガリオにそそのかされたこと。そして、大地母神の啓示を受けて、二人の赤子を連れて逃げてきたことを告げた。
「では、その籠は?」
司祭の言葉に、シリィは頷くと、籠の中身を見せた。
「おお!」
司祭は思わず声を上げてしまった。籠の中には確かに二人の赤ん坊がいる。
「彼らはどこにも怪我はしていませんね?」
再び、シリィが頷く。それを見て司祭は考え込んでしまった。
「司祭様?」
「いえ、それで、シリィ。ここにやってくるのを誰かに見られましたか?」
シリィは今度は首を横に振った。
「いいえ、誰かに見られては不味いと思いましたので、誰にも告げずにここまでやってまいりました」
シリィの言葉に、司祭は暫く考え込んでいたが、やがてフーと大きく息をついた。
「よくやりました、シリィ。それならなんとかなるでしょう」
張り詰めた様子だったシリィの表情がほっとした色が浮かぶ。しかし、それは司祭も一緒だった。なんとか最悪の事態は防げた。
しかし、シリィの話してくれた倉庫での出来事は、実際に目にしていない司祭にとっては俄かには信じられないでいた。
「誰かが手助けしたのか? しかし、シリィの夢は? 本当に大地母神がその様な奇跡を起こされたなら……その御心は一体?」
やがて司祭は考え込んでいた頭を上げた。
「なるほど、そういうことか」
「一体どういうことだ?」
一方、シリィの逃げ出した倉庫では、若き魔術師ハイツは頭を抱えていた。
「おい! ハイツ、これは一体どういうことだ!?」
グルバが怒りと困惑の混じった声を上げている。
「貴様! 一体どういうつもりだ!」
神殿騎士リガリオの方も、状況が理解できずに、だが怒りの篭った視線をハイツに向けていた。
それはそうだろう。グルバも、その仲間も、神殿騎士リガリオも、全員が意識を取り戻した時には、倉庫の床に縄で縛り上げられて転がっていたのだから。
唯一、ハイツだけがこの倉庫の中で、捕らわれずに立っていたのだ。
いや、正確には、グルバ達誘拐犯の仲間はハイツだけが捕らえられていなかったというべきだろう。今、グルバ達の隠れ家であるこの倉庫の中には、グルバ達誘拐犯以外に、もう一人の人物がいたからだ。
「あのー、先輩大丈夫ですかぁ?」
のんびりと、少女といって差し支えのない女が頭を抱えるハイツに声をかけて来た。
紺色の生地に、白いフリルの付いたメイド服。長い髪を三つ編みにして、ソバカスのある顔に眼鏡をかけている。あまり洗練されているようにはみえず、おっとりしている。
ハイツは、少女の言葉に顔を上げた。
どうしてこうなった?
グルバが言い争っている時、ハイツは上手くグルバ達を誘導できたと思っていたのだ。
エドゥアルドの安全が最優先だったが、クレオリアも救うように、というのが『上』からの指示だった。
ある程度時間を稼いだ後に、隙を付いてグルバ達を眠らせて捕らえる。実行犯達が倉庫に集まっていた状況は好都合で、後は指示が来るのを待つだけだったのだ。
「おい! ハイツ、答えろ!」
考えに耽っていたハイツにグルバが苛立った声を上げた。ハイツは手元にあった香炉をグルバの這いつくばっているところに放り投げた。中から焦げた香が飛び出して床に撒き散る。
「バービトレートの香が使われたらしい」
ハイツがグルバ達を眠らせるために使おうと取っておいた眠りの香。だが、まさかそれを他の者に、しかも自分も巻き込まれた形で使われるとは思わなかった。
「女も、赤ん坊達も俺たちが眠っている間に姿を消したよ」
「倉庫から女の人が走っていくのを見ましたぁ」
「そんなこたぁ聞いてねぇ! 何で俺たちが縛られてるんだ! その女は何モンだ!」
「アンジェと言いますぅ」
グルバの怒鳴り声に、少女がペコリと頭を下げた。
「先輩達が眠っていたので、その間に縛らせて貰いましたぁ」
グルバは少女の場違いにのんびりとした態度に唖然としていたが、代わりに黙っていた神殿騎士のリガリオが反応した。
「そういうことか。貴様らはアーガンソン商会の人間だな」
「アーガンソン商会!? ハイツ、どういうことだよ!」
「大したことじゃない。お前達は余所者なら俺達にバレないとでも考えていたのかもしれないがな。そっちの神殿騎士が実行犯を物色している時から捕捉されてたのさ」
「なら、なぜ泳がせておいた。なぜアーガンソン商会は間者など潜り込ませておいたんだ」
リガリオは歯軋りをして言った。まさか自分たちの動きがそんな段階から捉えられていたとは思わなかった。しかし、それならアーガンソン商会の目的も分からない。少なくとも彼らは今回の誘拐事件を事前に防げた筈なのだ。
「アンジェ。なんで黙って女を逃がしたんだ」
ハイツはリガリオの問いを無視して、少女の方に顔を向ける。静かな声で問われたアンジェはキョトンとした顔で答える。
「だってぇ、わたしの任務は先輩のお手伝いですからぁ。先輩が合図してくれるまでちゃんと動かずに待ってたんですからぁ」
「じゃあ、なんで倉庫の中に入って来たんだ」
「それはぁ、あんまり遅かったからどうしたんだろうなぁって思ったから、覗いてみたんですぅ。ほら、先輩達にいつも、臨機応変に動けるようになりなさいって言われているのでぇ」
「そうか」
「あれぇ? 駄目ですかぁ?」
「……いや、お前にしてはよくやったよ」
ハイツはこめかみを押さえながらガックリと頭を垂れた。アンジェはどう解釈したのか「エヘヘ」と照れ笑いを浮かべている。
「アンジェ。すぐにジガ様に連絡をとって、子供達の捕捉と保護、それからこの倉庫の後始末を要請しろ」
「はーい」
パタパタとアンジェが倉庫の外に走っていく。
取り合えず、赤ん坊達を取り返すことが第一だ。
赤ん坊達、正確にはエドゥアルドには捕捉の魔術が掛けられている。エドゥアルド自身には魔術が何故かかけられないので、身につけている物の幾つかには追跡できるように魔術的に細工がしてある。
それがばれていない限りは、すぐに居場所を特定できるだろう。あのエミリ、と名乗っていた産婦職員。たしか本当の名前はシリィとか言ったか。彼女が単独でやっていたのなら、彼女を捕らえればそれで済む。しかしそれはない。あの時、シリィはハイツのかけた眠りの魔法で意識を失っていたからだ。
ということは少なくとももう一人、別の誰かが倉庫の中にいたことになる。
しかも、その人物はアンジェにばれないように倉庫の中に入り、ハイツに気取られないようにハートビレートの香を使ったことになる。どうやったのか。なぜ、そんな面倒なことをしたのか。
疑問は多々あるが、少なくとも只者ではないのは分かる。
ハイツは赤ん坊達が眠っていた籠が置かれていたテーブルに手をかざした。
『魔力感知』の魔術だ。
微かだが、魔術行使の痕があった。
「これは、灰魔術。……召喚術か?」
分かったのはそれだけだ。残滓から読み取れる質は滑らか。やはり相当のてだれか。
「灰魔術師ということは、オヴリガン家の縁ある者か?」
しかし、魔道士ギルドの網では、これほどの腕を持った灰魔術師はサウスギルベナにいなかったはずだ。ハイツたちに気づかれずに近づいてきた腕前を考えれば、情報網に引っかからなかったとしても不思議はないのかもしれないが。
「敵か味方かは分からないが、俺も追った方がいいか……」
ようやく、ハイツはグルバ達のほうに注意を向けた。
「さて、どうやらお前達に構っている時間はなさそうだ」
「待ってくれ! 私はアーガンソン商会と揉め事を起こす気はなかったんだ! この、コイツらが勝手にあの赤ん坊まで誘拐したのはお前だって知っているだろう!」
近づいてくるハイツにリガリオが叫ぶように言った。それを合図に盗賊達も口々に助命を乞い始める。ハイツはリガリオたちの言葉に何の興味を示さなかったが、一人黙っているグルバに興味を覚えたのか目を向けた。
「随分、落ち着いているな」
ハイツの言葉にグルバが苦笑する。
「疲れちまっただけさ」
その言葉は本当だった。例え戒めを解かれたとしても立ち上がる元気さえなかった。リガリオ達を上手く利用していたと思ったが、結局、グルバはアーガンソン商会の掌で踊っていたことになる。
「何が間違ってたんだろうな?」
グルバの問いにハイツは肩を竦めた。
「さあな、それほど不味い手際でもなかったよ。単純な話、運が悪かったんじゃないか?」
ハイツの言葉に、グルバは喉の奥で笑った。
「クック。なるほど、運が悪かった、か」
グルバはハイツから視線を外すと天井を見上げた。
「で、俺たちはどうなるんだ?」
「取り合えずまた眠って貰う。後は上の人間が決めることだが、眠っている間に全て終わっているさ。恐らく、もう会うこともあるまい」
「上の人間が決める」と言ったが、二人ともこれからグルバ達がどういう運命を辿るかはおおよそ分かっていた。それ以外の部分に関してはその通りだろう。
「眠っているうちに……か。思っていたより随分マシな終わりだな。よし」
グルバはそう言うと、目を閉じた。
リガリオ達の騒ぐ声に混じって、ハイツの謡う様な呪文詠唱が聞こえた。
微風に撫でられた様な感触の後に、急激に眠気が襲ってきた。
グルバはまったく抵抗することなく、その眠気に身を委ねる。
ああ、やっと終わった。
グルバの意識は闇の中へと沈んでいった。