017 夢見る人々1
スコット・オヴリガンが、ギルベナの領主に就いた時も、この地方は貧しかった。
オヴリガン家の興りは、300年前。皇帝の座を争い、負けてしまったご先祖様が、臣籍降下され、与えられた地がこのギルベナだ。
以来オヴリガン家はこの最南端の辺境の地の開拓に心血を注ぎ、いくらかは文化的な生活ができるようになったのは100年前。
さらに10年前にアーガンソン商会が帝都から最も離れている街。サウスギルベナに港を整備して、王国との貿易を始めた。
ゆっくりと、流刑地ギルベナも変わって行ってはいるが、この300年の間、帝都の政治とは無縁の貴族であり続けた。初代皇帝と英雄である流刑皇子オヴリガンの血脈であるオヴリガン公爵家という血筋であったなら、帝都の政争に加わることもできたであろうし、事実そういう流れに晒されることもあったが、歴代のオヴリガン家当主はガンとしてこの地から出ようとはしなかった。
この地を開拓し、この地を育てよ。
初代当主のこの言葉は、スコットの代にまで受け継がれているが、その言葉のせいで歴代党首達がこの地にとどまり続けたのでもあるまい。少なくともスコットはそうだ。
スコットは若い頃、帝都の学院で教育を受けた。そこで帝都の社交界や政界の一端を垣間見て、自分の生きる場所はないとはっきりと自覚した。きっと歴代のご先祖様たちもそうだったのではないだろうか。少なくとも100年前。開拓の目処がたち、ギルベナという地方が確立してからは、オヴリガン家の男達にとって、こここそが自分達の故郷だという想いがある。
ギルベナは貧しく、治安が悪い。
ギルベナでは日常的に奪い、奪われ、殺し、殺される。
比較的豊かなサウスギルベナの街でさえ、貧民街が大きな面積を占めている。
しかしそれは、貧しいからこそ奪い、生きるために殺すのだ。
そんな土地の生まれであるスコットに、帝都の面妖で、不可解な街で得るものは一つもなかった。
たった一つ。
スコットが帝都で心から渇望し、自らの心血を捧げたもの。
それが現公爵夫人であって、当時の帝都社交界の華と言われた婦人である。
彼女が望んだなら、きっと自分は帝都の政界で足掻く事も受け入れただろう。
黒くなれと言われれば、迷うことなくその身を染めただろう。
しかし、彼女は何も言わずにこの土地にやってきた。
公爵ながら、流刑地ギルベナの田舎領主に嫁入りするのだ。もちろん彼女の家は猛反対したし、その結果彼女は生家との縁を棄てなければならなかった。
その決断をした時の彼女の表情。
紅い髪をして、整った顔立ちに、陽の輝きのように笑顔を浮かべる。
スコットが心惹かれ、求めたのはそんな女性だったからだ。
以来、彼女はオヴリガン家の太陽となった。
スコットと二人の息子にとって太陽となった。
陽の光がそれだけで、温もりを与えてくれるように。
スコットは幸せだと思ったのだ。貧しくとも彼女という太陽と、彼女との間に生まれた命がオヴリガン家の300年の流れをまた、一つ先へと伝えられることに。
そして、クレオリアが生まれた。
初めての女の子だ。
美しく気高い。親の贔屓目であったとしても構わない。スコットは見たこともないほど神々しい女の子だと思った。
きっと妻の血を濃く引いたのだろう。毛だけがスコットと同じく金であったから、スコットは一安心した。自分のように太った不細工な顔立ちに生まれたならば、クレオリアに申し訳なかった。
どんな子供に育てよう。
初めての女の子だ。
色んなことを考えた。
どうすれば彼女の人生がバラ色で、ふわふわで、妻のように笑ってくれるかを考えて。
そのクレオリアが日に日に弱っていく。
神々しい雰囲気は失っていないが、徐々に生気が失われていくのが分かった。
原因は分からなかった。
大地母神教団の医師達が体中を検査したが、身体器官に異常もない。病気でも、魔法や、呪いの類でもなかった。
原因は分からず、ただ、日々、クレオリアの生命力は消えていく。
まるで、その神秘的な雰囲気と合わせる様に、生まれたことが幻であったかの様に。
大地母神教団でも原因が分からないとなって、
スコットはギルベナの魔術師ギルドの長であるジガに助言を求めた。
しかし、彼女にも原因は分からなかった。
ただ、症状が呪いによる衰弱と似ているが、呪いをかけられた痕跡は微塵もないと言われた。
スコットは毎日彼女の元に訪れ、彼女に笑いかけ、彼女の弱っていく姿を眺めていた。
帝都での若き日に、妻以外望まなかった男が初めて力を欲した。
自分が皇帝であったなら、
自分がソルヴであったなら、
自分が初代オヴリガン公爵であったなら、
この子を救う術があったのでないか。
その時、スコットはある考えにたどり着いた。
何の確証もない話であったが、スコットには白魔法でも、黒魔法でも分からない、呪いの様な症状。それに心当たりがあったのだ。
初代オヴリガン公爵。流刑皇子オヴリガン。英雄オヴリガン。
そう呼ばれるご先祖様が、この地にやってきた時、付き従った臣下が僅かながらいた。
一人は『工人十二家』が一つ、シクロップ家。
帝国が市場を通さずに生産品を流通させることを許可した称号『無審査』。
その称号を家として代々受け継ぐ者を、『工人十二家』と呼ぶ。
そして、この帝国で最も歴史のある『無審査』刀鍛冶『だった』のがシクロップ家だ。
初代皇帝の『三種の武具』を作ったシクロップ家だが、三代皇帝の時代に没落してからは不遇の時代を過ごし、そのシクロップ家が御家の興隆のために付き従ったのが、当時皇帝の後継者争いをしていたオヴリガン皇子である。結局オヴリガンはその争いに敗れ、流刑地ギルベナに封じられることになるのだが、シクロップ家はオヴリガンが政争に敗れた後も彼に付き従って、この地に根を下ろした。
シクロップ家は今でも、オヴリガン家と繋がりが深く、当代の当主はスコットと筒井の仲でもある。
そして、もう一人。
初代オヴリガン公爵に付き従って、このギルベナまでやって来た人物がいる。
セドリック・アルベルド。
現代において、灰魔術と呼ばれる新しい魔術を開発したと伝えられる、稀代の魔術師。
元は敵国である王国において召喚された異世界人であったと言われる人物。
彼が残したといわれる暦法は現代の暦の参考ともなったと言われているし、現帝都の区画整理も彼の監督によって整備されたものらしい。時の皇帝の信任も厚かったと言われる人物だ。
彼は、オヴリガン皇子が歴史に名を表した時からその側に立ち、オヴリガンが公爵となってこのギルベナで没するまで付き従った人物だ。
魔術師としての腕だけでなく、政治家としても優秀な人物だったようで、おそらくオヴリガン皇子が政争を勝ち抜き、皇帝の座に座っていたならば、宰相となっていただろう。
とは言え、スコットが彼にある程度詳しいというのも、公爵家に残されていた書物の中に彼について書かれていた本があったためで、何分300年前の人物であり、その書物もオヴリガン家としての立場から書かれていたということは、政治家としての彼が本当に優れた人物だったかはわからない。
実際、スコットが学生時代、帝都の学園で、帝国の歴史を学んでいた時には書物の片隅にも名前のでなかった人物だ。彼の名前を見かけたのは『近代都市計画』の書物の中に一度か二度ほど見たことがあるのみ。それもスコットがオヴリガン家の人間でなかったなら気が付かなかっただろう。
しかし、灰魔術の実力者であったことは間違いない。
学生時代スコットが調べてみた時には、彼が灰魔術の開祖であったかどうか確たる証拠はないというのが実際のところであったが、偶々知遇を得ることとなった、学園の魔術科在籍の灰魔術師によると、セドリック・アルベルドという人物は、「歴代の灰魔術士達の中で最も優れているのは誰か?」という問いで、一番名前の挙がる人物であるほどには、実力のある人だったようだ。
スコットはクレオリアの衰弱の原因を灰魔術なら解き明かし、解決してくれるのではないかと考えた。先ほども言ったとおり、彼に確証はない。白魔術でも、黒魔術でも分からなかったのなら、残る可能性を求めただけだ。
サウスギルベナに灰魔術師はいなかった。彼らの総本山とでも言うべき、積道宗家があるのはここから何ヶ月もかかる遠方の地。灰魔術師が所属する一番近い魔術師ギルドも荒野を越えるか、航路を通って別の領主が治める地までいかなければならない。しかもそこにいるのは灰魔術師というだけの魔術師。
しかし、オヴリガン家は灰魔術師と少なからぬ縁を持つ家だ。サウスギルベナから馬で三日ほど西の大山脈の奥地に、セドリック・アルベルドが晩年を過ごした庵があり、灰魔術士達にとって聖地となっている場所があるらしい。そのことをスコットはオヴリガン家の所蔵する灰魔術に関する書物の閲覧に訪れた灰魔術の魔道士から聞いていた。
もしかしたら、そこにならクレオリアを救ってくれる魔術師か、なにか秘薬の様な物があるかもしれない。
スコットは早速旅支度を整えた。
シクロップ家の幼馴染からは反対された。何の確証もなく西の大山脈に行ってどうするのかと。しかも魔獣の棲家となっている帝国最大の秘境の一つ。巨竜が住み、よほどの冒険者であっても生きて帰ってくるのが難しいとされている場所に、スコットのようなただの一般人が行ける筈もない。何しろスコットは馬にさえ乗れないのである。冒険者としての経験も、軍人としての経験も皆無だった。
それでも行くと言うスコットに、シクロップ家の幼馴染は自分もついていくという条件で同意した。
シクロップ家の当主である彼としては、スコットが大山脈の麓まで行けば、その灰魔術師達の聖地とやらまで辿り付く事は到底不可能だと分かると思ったのだろう。それまで自分は幼馴染の身の安全を確保して、家族の元に無事戻してやればいい。そういう考えだったに違いない。
しかし、二人がサウスギルベナを旅立つことはなかった。
それはクレオリアが賊の手によって連れ去られてしまったからだ。
情けないことに、スコットはその一報を聞いて倒れてしまった。
そして、自分の無力さをまた呪った。
だからだろう。
その日そんな夢を見たのは。
暗闇の中に膝を付き、神に祈る自分がいた。
元々信心深い人間ではない。
何の神に祈っているのかは分からなかった。
だが、クレオリアを救ってくれるならば、それが邪教であったとしても信じただろう。
突然、暗闇を光が照らす。
眩い光がスコットの頭上を照らしていた。
目を開けていることが苦しいほどの光。
だが、スコットはその光から目が離せなかった。
やがて光の中から徐々に何かが降りて来るのが見えた。
クレオリアだ!
クレオリアが安らかに目を瞑り、体を丸めて眠っている。
そのクレオリアがゆっくりと宙の巨大な光から降りてくるのが見えた。
スコットは懸命に、ただ両手を宙へと伸ばし、掲げた。
そのスコットの両手を目指すように、クレオリアがゆっくりと落下してくる。
あともう少し、その手に収まる。
その瞬間、クレオリアの体が光の爆発に包まれた。
あまりの眩しさにスコットは目を開けていることができなかった。
ただ、懸命に、クレオリアを見失わぬよう、スコットは両手を伸ばし続けた。
光の渦の中で、スコットはクレオリアの産声を再び聞いた気がした。
そこで、目が覚めた。
起きてみると、スコットは自分が両手を伸ばしていたのには気が付いた。そこは暗闇に包まれた見慣れた自分の寝室。
妙に現実感のある夢だった。
しかし、当然クレオリアの姿はその手の中になかった。
「ワシはなんて無力なんだ……」
空っぽの両手を見つめて呟く。妻が産んでくれた命を守るのが自分の役割であったはずが、祈ることしかできない。
やがてスコットは今は一人寝のベッドを降りた。
そして灯りを灯すとスコットは寝間着を脱ぎ始めた。
「祈ることしかできないのであれば、祈ろうではないか」
クレオリアのためであれば、膝が破れ、その血が涸れるまで祈ることができる。そう思った。