74 決着
勝敗の、そこにそんなものが必要とするかは別にして、姉弟喧嘩とオルガの呼んだ取っ組み合いは、おおよその決着を見ていた。
決着という言葉を正確に捉えるならばそれはまだ先のことだったが、誰の目にも分かるほどに両者の間には差が生まれていた。
クレオリアが一方的にエドを殴り、エドを蹴りつけていた。
当初は組打ちであれば、エドの技術がいなしていた間合いであった場面でも、一方的にクレオリアが投げ、エドを地面に叩きつけていた。
もういつでも勝負を終わらせることはできただろう。
だが、美しい容貌を持った少女は、白い髪の少年が殴られて、蹴られて、投げ飛ばされて、その度に地面に這いつくばって無様な姿を晒しながらも再び立ち上がるまでの時間を少年に与えた。
それは時間がたつほどに、少女の体力を回復させて、少年のそれを消耗させているようだ。
にも関わらず、少女は殴る度に、蹴る度に、投げつける度に、気力を失い。少年は気力の有無とは関係なしに義務のように立ち上がって撃たれていた。
もう何度目か数えるのも正確な回数など誤差になるほどの繰り返された、少女が攻撃し、少年が倒れ、少女が待ち、少年が立ち上がる、という一連の動作が始まる。
白髪坊主頭の、鼻血を漏らし、顔が無様に腫れあがった少年はノロノロとした動きで、そこに理性など働いている様子もなく、機械的にクレオリアに拳を固めて殴りかかってきた。いや、もう随分前から殴りかかるとは呼べなくなっていた。
少女はそれを顔をそむけるような動作で避けた。それだけでエドはバランスを崩して顔から倒れこむ。クレオリアは思わず手を出そうとして、思いとどまった。端から見ればそれは攻撃を加えようとしたのか、助け起こそうとしたのか判断はつかなかった。
そして、その時、クレオリアが追撃を加えなくとも、助け起こさなかったせいか、エドはようやく立ち上がることを止めた。もちろん本人の意志は関係がないのだろうけど。
「気はすんだか?」
いつの間にかすぐ後ろにオルガが立っていた。
クレオリアは振り返らなかった。
「最低の気分」
あの殺人鬼の頭をかち割った時でさえ、バラバラの死体の山を見て派手に嘔吐した時でさえ、そういった今日の、今までの前世を含めた人生の中で、最悪の日の中で、それは疑うことなく最低の気分だった。
クレオリアは倒れている元クラスメイトを見た。
「でも、決心はついたわ」
そう言って、少年を背後にして、その場から立ち去ろうとした。
「おい、どこ行くんだよ」
「家よ」
クレオリアは簡潔に答えた。
「もうこの街にも用はないわね」
そしてこれからのことも考えた。
これから一人で生きていくなら、帝都にでも行ったほうが、日本への帰還の情報は手に入りそうだ。
セドリックにも会いに行かなかればならないが、その場所くらいはエドに聞かなくても、執事のゲコウにでも聞けば分かるだろう。少なくとも、もうエドの顔は見たくない。
「決断が早いのは結構だけどよ」
オルガがまたもやクレオリアの襟首を掴んで持ち上げた。今日何度目かの行為にウンザリしながらもクレオリアは抵抗しなかった。今度は釣り上げるのではなく、脇に抱えたが、どちらにせよクレオリアは慣れたとかいうのではなく、疲れて抵抗する気をなくしていた。
「話してやるって言ったろ」
そう言ったオルガに、
「家には呼ばないって言ったでしょ」
と返す。オルガは乾いた笑いを上げた。
「最悪な日が少しは救われるかも知れねぇぜ。余計救われないかもしれないけどよ」
「?」
意味の通らない言葉を告げて、オルガは魔女の方を向いた。
メイド姿の魔女はエドの傍にしゃがんで、膝の上に少年の頭を載せている。
「そんじゃあ、弟の方は任せたぜ」
そう、魔女に声をかける。
見上げる魔女の視線は、説明の足りない吸血鬼に対する非難の視線だったが、そんなことを気にする女王様でもなかった。
「詳しいことが知りたけりゃ、本人に聞きな」
そう言って、究血姫は妹を脇に抱えたまま立ち去った。魔女と弟を置いて。
残された魔女は、少年の白い頭を撫でていた。
しばらく、たっぷりと時間を置いて、呼びかける。
「行ったわよ、エド」
その声に、少年は腫れ上がった目をうっすらと開いた。
意識を失ったわけでもない。狸寝入りをして面倒事から逃げた。
いや、逃げたということもない。
最後までクレオリアの顔を見て、彼女の背中を見送る度胸がなかっただけだ。
終わった、終わった、と体を起こす。
全身に痛みが走った。体中の水分が無くなったようにカラカラで、酷くダルい。少しでも無理をしようなら魂自体が削れそうなほど疲れていた。でも自分の行動の対価とすれば安いものだと思う。
終わってみれば何も感慨もなかった。
こんなもんかと思う。こんなもんなら別の選択肢もあったのだろうが、今更だ。
手からこぼれ落ちたものの大きさからは目を背けることにする。それは自分の長所だと思った。
グウィネスも立ち上がるのを待って、先ほどクレオリアが立ち去っていった路地の先を指さす。
「僕達も帰りましょうか」
明日も変わらず仕事はある。いや、娼館が燃えて、経営者があんなことになったので仕事は変わってしまうだろうが、働かなきゃいけないことには変わりはない。
もう自分の行動力とコミュ力は底をついて、さらにその底も抜けてしまった。
「あーもう嫌だ。もう何にもしたくない」
痛む体を引きずってさっさと路地を出ることにする。グウィネスが一緒ならもう人目を気にすることもない。
「おぶってあげましょうか」
背後からずっと幼い頃から知っている女の声がした。言っていることはいつもどおりだが、後ろから漂う気配は随分と物騒な感じがする。それでもエドは無視して歩いた。
エドは自分を「ここで死ぬわけにはいかない」とか言う大層な人間だとは思っていない。どこで死んだって何にも変わらず世界は回転し続ける。世界どころか家族とかごく身近な人達にだって変化は訪れないだろう。それがこの世界で、この国で、この街で、普通の人にとって普通のことだった。それは堪らなく気に入らない。それに「死ぬわけにはいかない」わけじゃないが、もちろん「死にたい」わけではないし、もっと言えば「ゼッタイ死んでたまるかよ」とは思う。
けれど、平凡な自分に何ができるというのか。回避できるわけもなく、流れに身を任せるのが精一杯で、それすらも今日のように上手くいかない。
身に起こることを抵抗もなく受け入れるわけではないが、抵抗できずに受け入れることになるのだ。
だからエドは前を向いて歩く。
後ろから迫る気配を無視して。
ジガやソルヴがエドのことを疑っているのは気がついていた。異世界人だとはバレていなくても、転生者だということくらいには推測ができているかもしれない。そう思われることがどういう結果をもたらすかは知らない。
「ねぇ、エド。聞きたかった事があるのだけれど」
その先の質問はわかっているが、答えるわけにもいかないのもわかってほしい。
「貴方は、貴方達は何者なの?」
「俺達は、俺達っつーのはお前とエドも含むぜ」
オルガは脇に少女を抱えたまま話しだした。
「威血族っていう、まぁなんなんだろうな。結社というか家族の一員だ」
「入会した覚えなんてないわよっ」
クレオリアは両足を突っ張って穴から抜き出すようにオルガの腕から逃れようとするが、やっぱりビクともしない。
「家族姉妹はそうありたくて成れるもんじゃねぇ。おい、暴れんじゃないよ。イチャイチャさせてくれよ」
「イチャイチャって言わないわよ! 酔うのよ!」
脇に抱えられているので負担が思いっきり腹と頭にかかるのだ。
「そうか?」
クレオリアの言葉を真に受けて、すんなり体を離してくれた。クレオリアは地面に立つと髪を両手ですいて身なりを整え、ホッと息を吐いた。そして自分の脚で歩き出す。
「で?」
「あん? ああ、俺達が何者かっつー話だったな。妹に拒否権などないということも含めて話してやろう」
そう言いながらもしばらく、オルガは上を見て考えていた。何から話そうか悩んでいたからだ。
「うーん、まぁ、ぶっちゃけて言うと、お前はただの人間じゃねぇ」
その言葉を聞いても、クレオリアはそれはそうだろうとしか思わなかった。そんなこと言われなくともわかっている。この国では異世界人も、さらにそれが日本人で、転生者などという存在は自分を省いて他に一人しかいない。
「お前は人間の上級種、いわゆる神人類とかいう奴だ」
しかし、自称姉の続く言葉は予想外だった。
「ハイヒューマン?」
オルガの言葉にようやく興味を覚えた。一瞬だけだが。
「そ、お前は人から生まれながら人とは根本的に次元の違う存在なのさ」
「フーン」
「あれ? あんまり驚かねぇのな」
「驚いたわよ。でもだからって感じね、いまさらだわ」
人の上級種だろうが、異世界転生者であるクレオリアにとっては今更だ。もしかしたら異世界転生者はその神人類とやらになる条件を満たしているのかもしれない。どっちにしろ今更だ。
「他に人類種の中には異罪ってのがいる。これは俺達上級種みたいに根本的に次元から違いますって存在じゃねぇ。階級は変わらねぇが異能をもって生まれた存在のことさ。ほれ、さっきいた魔女みたいなやつな」
「魔女? いたかしら」
あまり他の人間を気にしていなかったから気が付かなかった。
その言葉にオルガは笑い声を上げる。
「まさにそれが神人類としての証明だよ」
「なにそれ」
「お前さ」
ここで吸血鬼は一拍置いた。
「実はワタシって冷たい人間なんじゃないかしらって思ったことねぇ?」
「思ったことないわよ、そんなこと」
ジト目で隣を歩く吸血鬼を睨んだ。何だそれはとクレオリアは憤慨する。そうでなくとも今日は無駄骨どころか、最低に頭の来る一日だった。今日だけはもうこれ以上余計なことで気を煩わせずにさっさとベッドに行きたかった。
「冷たいと感じないなら、疎外感とか、イマイチ家族に親近感わかねえな、とかよ」
「そりゃそうでしょうよ」
「そりゃそうなのか?」
そりゃそうなのだ。クレオリアにとって。日本人の記憶のつながりがタイムラグなしにある彼女にとってここは異世界以外の何物でもない。この世界の全ては何もかもが異物で違和感の塊だ。その中で唯一の存在とはエドで、彼だけがクレオリアと同じところの、同じものなのだ。
もちろん今日まではということで。そんな親近感は実は気のせいとか気の迷いとか。そういうものだったのだが。
「ふん」
嫌なことを思い出したと思ったが、つい最前のことなので致し方無い。
「神人類の幼生ってのは老成甚だしいな」
「で、結局、神人類とか威血族とかってのはなに」
「ああ、そんな話だったな。つまりこういうことだ。
威血族ってのは神人類や、森羅万象、闇王、究血姫。まぁ、つまりは上級種たちが作った家族ということだ。ちなみに入会資格は『なんとなく』で、拒否権はありません。拒否した奴もいないけど」
「拒否した奴はいない?」
それは意外だ。上級種というなら、まさに目の前の吸血鬼がそうだが、それこそ我儘自己中心天上天下唯我独尊な存在が、そんなオママゴトに参加しているのか。
オルガはクレオリアの考えていることがわかったのだろう。
「だから聞いたろ、寂しく思ったことはないかってな。寂しくない奴も『なんとなく』じゃないのも資格はねぇ」
「どういう……」
「おっと、着いたみたいだな」
オルガは一軒の邸宅の前で立ち止まった。
それはクレオリアもよく知っている家だ。そこを目指していたのだから当然なのだが。
「よくわかったわね」
ここが自分の家だとは吸血鬼には話していない。
「匂いというか、波長でな。ここも弟の一人が作ったねぐらだしよ」
「つまり、セドリック・アルベルトもその威血族の一員なわけね。彼から私のことをきいたの?」
クレオリアも威血族らしい人物から受ける『親近感』の正体に気がついていた。
アーガンソン商会の工房でドワーフを見た時の『違和感』こそ、この『親近感』だ。あの時は、何か分からなかったが、こうして三人目の威血族とやらに出会うとさすがに気がついた。あの時どこかで感じた『違和感』だというのは、クレオリアが『箱庭』で出会った転移者、セドリック・アルベルトと同じ『親近感』だったのだ。
「親父からの又聞きだけどな」
「父親までいるんだ」
「まぁ、最初の一人ってだけだけどよ、人間の間じゃハイエルフって言われてる。便宜上家族を作った張本人だから父親ってわけだ」
「ふーん」
クレオリアは入り口の前にくると、後ろを振り返った。
「ところで、まだ何かあるわけ?」
「家族との会話に終わりなんてねぇよ」
「もう帰って欲しいんだけど?」
「話すこと話したら帰るさ。ガキじゃねぇんだからよ。お前はまだガキだからお前の言うことなんて聞かないぜ。嫌って言ったらこの扉蹴っ飛ばして入る」
「何者? 何者、ねぇ」
エドは背後にグウィネスの気配を感じながら、意外にその言葉が自分の心を捉えて、考えさせる。
自分が何者か。
なんと哲学的な言葉じゃないか。
グウィネスの尋ねた言葉の意味は、自分が転生者であるとか、異世界人としての記憶を持っているだとか、そういうことが正解なのだろうが、それは話す訳にはいかないし、それよりそれ以外の答えをエドの方が必要としていた。
別に新たな嘘を吐くためでなく、それが見つかれば楽になれそうだった。でもその答えが見つかるまでが明らかにしんどそうなのでやはりこう言わざるをえない。
「しらんがな」
はぁーとため息を吐いた。
「何者だったらいいんですか」
尋ね返したら
「いい子でいて頂戴」
と、返ってきた。
いい子ねぇ。
「さっき、貴方の姉を名乗る吸血鬼がいたけれど、あれがなにか知っているの?」
なにか居ましたね。とエドは金髪の美女の顔を思い出す。
背後からの殺気が破裂寸前の風船のように膨れ上がっているが、エドはやっぱり無視した。それはやっぱりどうすることもできないので歩けるだけ前に歩くだけだという理由で。
あれがなにかと言われても初対面なのだが。しかしエドには何者かおおよそ予測はつく。
グウィネスの吸血鬼という言葉からもあれが只者でないのは分かる。灰魔術師の『目』から見ても只者ではない。只者の目から見てもあんな妖しい美女は只者ではない。
そして、弟と呼ばれたことにも、クレオリアのことを妹と言ったことも何となく分かる。
分かるというか、上手いこと言うなぁとエドは思う。
あんな感じの人間を他に二人、エドは知っている。つまり自分とクラスメイトを入れて五人は同じような『感覚』を受けた。
「ニュータイプってわけでもないだろうし」
「?」
「どんな存在、かぁ。どんな存在なんです?」
まさか同じ日本人というわけでもあるまい。少なくとも五人のうち三人は日本人だが、もう一人は日本人ではなく、ドワーフだ。もちろん自分たちと同じく『内部』はわからない。喋らないので聞いていない。喋らないのは他のことでもそうなのでおかしなところもない。
「アレは東方よりももっと東の闇都に住む吸血鬼の王様よ。すべての吸血鬼の始まりで唯一の完全なる吸血鬼。吸血鬼の最上級種なのよ」
「ははぁ」
アレとか言われてますけど、もしかしてあんまり仲が良くないのかな?
「会ったのは初めてですよ」
それは本当。
「『会ったのは』?」
細かいことに拘るお姉さんだなぁ。と感心する。
「会ったことは勿論、知ったことも今が初めてですよ。なるほど赤の他人には感じませんけど、まぁ、記憶に間違いなければ赤の他人です」
「姉弟、と言っていたわね」
「あんなのが僕の姉なわけないでしょ。僕の兄弟はこの世にただの四人。成りたくてなったわけでも望んでなったわけでもないですけど、その偶然を否定する気も増やす気もないんです、コレが」
そうクレオリアだって家族じゃない。家族だからってクレオリアより大切だとは限らない。限らないだけで大切じゃないとは言っていない。どちらを選べと言っても選べない。選べないけど、今日こういうことになった。
結果、もうエドには大切なモノはそれほど多く残らなかった。自業自得だ。
「うふふ」
殺気が消えた。
思わず振り返るとそこにいたのはいつもの柔らかい笑顔を浮かべる人気NO.1お姉さんの姿だった。
だったらさっきの殺気はなんだったのかしらと、エドは思う。思わせぶりなのがいい女の条件かもしれない。峰不○子的な?
「なんですか?」
美人に笑われると、微笑ているというよりも、嘲笑われているように感じるのはエドのような人種の宿命か。
「いい子で安心したわ」
何ださっきの殺気は、単純にオルガという女が気に入らないせいだったのか。
この人はもうエドが生まれて六年も知っているがエドにとって相変わらずよくわからん人だ。
グウィネスは隣に立って歩く。
「もう一つ、もう一つだけ聞いていいかしら」
身長差で、あまりに近くにいるからまた顔が見えなくなったが、その顔から笑顔が消えているのはわかった。グウィネスが笑いながら悲しんでいるのでなければそうなんだろうとエドは思う。そういう人がいるのかどうかわからないが、エドのはグウィネスの笑顔しか見たことがない。
「あなたの人生に先がない理由」
本当に、よくわからない人だ。とエドは思った。
家族でもない人間のことを聞くのに、こんなにも悲しそうな声をしていることが。