72 再会
「なにを……」
再会の言葉は、
「何をしてるのよ!」
怒りの言葉だった。
貧民街をうろつき周り、死体の山を築いて、六年たっても会いにも来ない。
「なんで、なんで……」
あまりの怒りに言葉が出ない。
エドがあの貧民街で何をやっているかなんてどうでもいい。
エドがあの娼館に火をつけたのも、男たちの死体の山を作ったとしても、そんなことはどうでもいい。
「私を、私は! 君にとって!」
そんなどうでもいいことのために後回しにされるような存在だったのか。
「どうでもいいような約束だったって言うの!」
嫉妬で、怒りで、前に飛び出そうとした私をオルガが抑えこむ。
「待て待て、妹。ちょっと話しくらい聞いてやれよ」
「うるさい! 離せバカ!」
暴れまわったが、オルガの馬鹿力で私は足をバタつかせるだけだ。
「答えなさいよ!」
私はせめて言葉だけでもエドを傷付けられるように、叫んだ。
エドは俯いて答えない。
何も答えない、こちらに目を向けもしない彼の様子に私の目に涙が滲んだ。そのまま泣いてしまえば何かに負けそうで、涙を堪えるためにまた叫んだ。答えろと何度も叫んだ。なぜ会いに来なかったのか、なぜ無駄なことに時間を使っているのか、何故と答えを求めた。
私は君にとってどういう存在なのかを問うた。
嫉妬にかられて叫んだ。
私のことを愛せと言っているわけでもない。私のことを好きになれと言っているのではない。
ただ私がエドにとって、エドが私にとってそうであるように、無価値のように、忘れていたように扱われることが、その場所に置かれていたことが堪らなく頭にきて、燃えて、掻きむしりたいほど、侮辱された気分だった。
「おい」
それまで私を押さえつけていたオルガが私の体を持ち上げて、ヒョイと自分の背中に抱える。私とエドとの間に壁を作るように。そして初めてエドに呼びかけた。私は何とか前に出ようとするがやっぱりどうにもならない。
「おい」
それまで口を出さなかった女が前に出てきた。
上郡さん、いや、クレオリアの前に出て僕から彼女を隠すように立って、僕を見下ろし睨む。
僕はまさに断罪される罪人のように、被告席の加害者のように、項垂れて彼女たちの顔を見ることができなかった。
人を殺しても、湧き上がることのなかった罪悪感が自分ではどうしようもなく僕を臆病にさせた。
それは予測できた結末で、それは予測できた原因で、なにからなにまで改善回避可能だった選択肢を僕は選んで、いや選ばずに、予測通り失敗した。
踏ん切りが付かないでウジウジとしているうちにあった筈の選択肢さえ失ってしまう。
僕は日本人だった頃から、転生したって変わらずそうだった。
僕は人間関係という面倒事から逃げたせいで、彼女に話すどんな言葉も怠惰の言い訳に過ぎなくなってしまった。
本当は話さなきゃならない理由もあったのに、それを話す資格はもう僕にはない。
実は僕がもう君と一緒に日本には帰れなくて、それは僕がそれほど長くは生きられないという理由からだと憐れみを誘って納得してもらう機会はもうないのだ。すべてが嘘になってしまった。僕にはお似合いの結末だけど、惨めで逃げ出したいくらいだった。いや、逃げていたのに追いつかれてしまった。
「おい」
もう一度女が言った声で漸く僕は顔を上げた。いや、上げさせられた。
「なんでって聞いてるんだぜ、答えてやれよ」
僕はビクッと体を震えさせた。
その言葉は僕がとうとう、どうにもこうにもタイムリミットの端の端に追い詰められたことを知った。
それで僕が正直に何もかも話す決心がついたのかというと、そんなことで決心できるほど僕の勇気はサイズが大きくなかった。
それどころか、彼女の詰問と、見たこともない女の眼力に僕は思考する力さえ失っていた。
口から出た言葉は、
「六年も前に、勝手に、一方的に言ったことを何真に受けてんのさ」
でまかせだった。
「僕に君との約束を守る義理なんてないでしょうよ」
それは僕がちっぽけなプライドを守るために、彼女を騙すために考えていた嘘を一切合切すっ飛ばして、酷い形に継ぎ接ぎ合わせたでまかせだった。
「君にとってこの世界はいるべき世界じゃないんだろうけどさ。僕はこの世界じゃお金持ちの家に勤めていて将来も明るい。おまけに稀代の天才魔術師の後継者だぜ。日本に帰る理由なんてないよ、悪いんだけどさ」
声が震えていないのが自分でも不思議なくらい、自分がとんでもない間違った言葉を選択していることには気がついていた。でもそれを「なーんちゃって」なんて言えるほどの度胸なんてなかった。あったらこんなことになってない。
「僕のことは気にせず、帰りたければ一人で帰ればいいんじゃない」
言ってしまった。最後まで言葉を吐き出してしまった。それはもう嘘でしたでは済まない言葉を出してしまった。
その場の空気が、凍りついていくのが分かる。
顔面の筋肉が引きつって、ヘラヘラとしたクズみたいな楽しくもない笑いしか浮かべられない。
「オルガ、離して」
クレオリアのゾッとするほど冷たい声がした。オルガとかいう女はしかし、その手を離さない。
どちらかと言えば、彼女を自由にしてほしい。彼女の声色は完全に僕を軽蔑していたから、この後はきっと何も言わずに立ち去って終わりだ。
このいたたまれない状況が終わってくれるならそのほうがありがたく感じるわけで。
「おい、弟ちゃんよ」
オルガとやらが、後ろ手にクレオリアを押さえつけたまま僕を見下ろしている。
「はい」
なんで弟なのかは知らないが、明らかに僕のことなので返事する。ていうかホント誰? さっさと一緒にどっかに行ってほしい。
「俺は妹とお前の間に何があったのか。約束が何なのか何て知らねぇ。それを問い詰める気もねぇ」
言う気もないですけど?
「家族同士なら尚更言いにくいこともあるわな。しかしな弟ちゃんよ。オメェより長生きしてきた姉として助言しておくが、言い難いことは言っておかねぇと大抵は後悔する結果になるぜ」
何を言ってんだこの女は。
僕と彼女はもちろん、言っているこの女も家族じゃないし、だからこそ僕は僕の余生について彼女に迷惑をかける気もない。
「だから言ったでしょ。僕は彼女のことなんて忘れてたんだから」
粋がって軽口風に言い返す。
どうしようもない、僕のあとそれほど長くない人生のことで、彼女が思い煩うこともない。
僕は僕の残りの人生を、気休めの革命と、自己満足の足長おじさんとして、この街を引っ掻き回して、彼女を陰ながら日本に帰す助力をして、それで僕をお終いにしよう。それが僕のような人間としては精一杯の価値だと思う。
「はいはい」
オルガがあしらうように僕の言葉を打ち消す。それが胸を突き飛ばされたくらいにはショックを僕に与えた。
「よし、クレオリあン」
オルガはクレオリアの首根っこを掴んで自分の前に出した。
「殴れ」
「は?」
彼女はオルガの言葉が分からなかったのか振り返る。
僕にも分からなかったが、不穏な感じはする。
「約束破られたんだろ? ボコボコにしちまえ。気が済むまでな」
そう言ってクレオリアを僕の方に押し出してきた。
クレオリアはあまり気が乗らないようだったが、それでもジッとこちらに視線を向けてきた。僕はその視線を受け止められる筈もなく、下を向いた。そんな僕の様子に彼女は舌打ちを鳴らす。それはもう親愛の情のかけらも残っていないのが分かった。
「そうね。そうやって今日でキレイサッパリコイツのことを忘れることにするわ」
君からコイツに変わった。なるほどそれはこちらとしても望むべきところだ。そうでもないが、それが一番お互いにとっていいと言う意味で、望むところだ。
何発か殴られてそれで気が済むなら安いものだ。
金髪の幼女が拳を構え、腰を落とす。それは意外なほど様になっていた。前世でも、今世でも、そんなことを学ぶ要素などなかったろうに。
何発かで済みそうにない。できれば命だけは助かれば儲けものだと、僕はギュッと目を閉じて体を固くした。
「おい」
いつ拳が飛んでくるかと身構えてきた僕に飛んできたは、オルガの声だった。
「何してんだよ?」
どっちに言っているのかは知らないが、いつまでも拳が飛んでこないので僕は一旦目を開けた。クレオリアは相変わらず腰を落として、左半身を前にしている。なるほどいきなり右ストレートを食らわそうってわけだ。
「何してんだよ?」
もう一度、金髪赤目女がそう言った。この人、さも当然のように場を仕切っているが、もう一度言うが、誰なんだ。
「お前もやるんだよ」
「は?」
その言葉は僕に向けられていたらしい。
「お前も殴り返すんだよ」
「な、なんで?」
「はぁ? 馬鹿かお前」
バカって言われた。
「どうでもいい約束で殴り飛ばそうって言ってんだ。お前も抵抗しろ」
強烈な嫌味に聞こえた。事情を知らないのだから、そういう意図はないのだろうけど。
「そうね」
オルガの言葉になぜだかクレオリアが同意する。何かこの二人仲いいな。本当に姉妹かもしれない。少なくとも僕を面通しで性犯罪者を見るような目と比べりゃ随分愛情が含まれている。
僕は「はぁ」とため息を吐いたけれど、僕を弟と呼ぶ頭のおかしそうな女の提案を、考えてみればそう悪い考えではないかもしれないと受け入れた。
クレオリアは六年間の約束を破った糞男を思う存分殴れるのだし、僕は自業自得な格好悪さを有耶無耶にキレイサッパリ終わりにできそうだ。
これで僕は、彼女にとってのエドという異世界人も、日本人も、キレイサッパリ出番終了だ。
今日から僕たちは、別々の道を歩く。この六年間今日までそうだったように。
僕は彼女と同じように、腰を下げて、拳を握った。