71 殺生禁断
僕は倒れている。
人が死んでいる。
炎の灯りが赤く染める。
僕は目を覚ました。少女のキスで目を覚ました。
僕は王子様でもないが、あっちは元女王様みたいなものだから、それはそれで正しい有り様だったのかもしれない。どうでもいいけどね。
少女の姿はもうない。
彼女は僕に口づけをしたまま、そのまま赤黒い霧になって消えた。消えたというか戻った。
最初からいなかったかのように、跡形もなく消えたが、彼女のやったことは消えない。
部屋には何人もの死体が散乱していた。乱暴に切断したせいでそれが正確に何人なのかもわからなくなっていた。別にそれはそれで構わない。何人バラバラにしたら何点というゲームをしているわけでもない。
ただ、部屋中の調度品まで切断したのは不味かった。お陰でランプが火元で、火災が起こっている。本棚が燃えて結構な火力に見えるが、入り口までは塞がっていないから焼け死ぬことはなさそうだ。ただ誰も消火する人間はいないので、このままだと職場が焼け落ちそうだ。自分が巻き込まれなければ別にそれでやっぱり構わないが。
うーん、と僕は伸びをした。
あの化け物女の叫び声のお陰で、意識を失っていた体を解す。
まさか、自分の魔法耐性値を破って効果を及ぼすことができるとは魔導の世界は奥が深い。油断大敵とは思わないけど。あの時の僕は油断なんてこれっぽっちもしていなかったのだし。単純にどうすることもできなかったということだ。物語の主人公でもないのでそう都合よく格上の敵を倒せるなんてことはない。
さてさて、と。僕は部屋の中を見渡した。
この部屋には何人かわからないほどバラバラになった人間もいるが、何人か生きている人間もいる。
死にかけ一人。重傷一人。お漏らし一人。
死にかけているのがゴンズレイとかいう爺さんだ。この娼館の経営者で盗賊ギルドの幹部だったかな。
重傷なのがディガンさんだ。背中を切りつけられて入口の側で倒れている。
重傷と死にかけの違いだが、重傷はあくまで大怪我であって、手当さえすれば死ぬことはないということだ。死にかけの方も手当すれば助かるかもしれないが、手当しなければいいので、死にかけでいいだろう。
そのゴンズレイは右の手足が無くなっているし出血も酷いから手当しても助からないかもしれないね。神聖魔法とやらを使えば助かるかもしれないが、ここには使い手はいそうにない。
お漏らし一人というのは、ベックという仕事場の同僚だ。たしか十歳ちょっとくらいのDQNだ。
ベックは目の前の光景にへたり込んでいる。アバアバ意味不明の呟きを漏らしながら、股間からは臭いたくもない液体を漏らしている。
あまりコイツにはいい感情をもっていないのでお漏らしなどと不名誉な表現をしてしまったが、しょうがないといえばしょうがない。僕だって殺されそうになった時はちょっとチビッた。誰にも言わないつもりだが。あんな化け物を目の前にしてビビるなという方が無体な話だ。
さて、僕はゴンズレイ爺さんの前に散乱しているウッドデスクだった物の傍にしゃがみ込んだ。
「た、助け……」
爺さんが息も絶え絶えに訴えかけてくるが、それが傷の手当をして欲しいのか、殺さないでと言っているのかは判断がつかない。ちょっと炎が燃え移っているから助け出してという意味かもしれない。
とりあえず無視して、残骸の中から小さな布袋を引っ張りだして、中を確認する。
幾つか宝石が入っている。宝石鑑定士のスキルなんてないので判断できないが、少なくともこれだけあればこの街で何年か暮らせそうだ。
僕はその布巾着をクルクルと回しながら、今度はディガンさんに近づく。
「ディガンさん傷を見せてください」
そう言って彼をうつ伏せにする。
「い、一体何が」
彼が尋ねてきたが、「見てたでしょ」としか答えることはできない。それ以上の説明を求めるならその先は全部嘘になるが、嘘は良くないのでそう答えるしか無い。
僕は傷の具合を見て、命に別条はないと判断した。
苺姫も巧いことやるもんだと変なところで感心する。あんな死神の大鎌みたいなものをこんな狭い部屋で振り回して、僕の指示通り死なないように加減したんだから。ゴンズレイの爺さんが生きているからただの偶然だろう。たぶん部屋に飛び込んできたディガンさんは半殺し、ベックは廊下でそれを見てへたり込んだから無傷なんだろう。いい加減な奴だがそれが好い加減になっていると上手いこと言っておく。
僕は今度はベックの目の前にしゃがみ込んだ。
「おい」
と少し強めの声で意識をこっちに向けさせる。年上だけどもう先輩でもなくなるだろうし別にいいだろう。
「ナイフ持ってる?」
「へ?」
阿呆みたいな顔をこちらに向けてきたので、ビンタしてやった。別に気に入らないからではない。まだ呆然としていたからだ。決して本当に前に殴られたお返しとかではない。
「ナイフだよ。出せ」
「な、なんで?」
いっちょ前に疑問を口にしてきたのでもう一発張ってやろうかと思ったが、それをすると本当に怒りに任せてやったことになるので、やらない。
「ディガンさんの傷の治療をするから、服を切れるもの持ってるかって言ってんの」
「あ、あ」
ベックは腰に隠し持っていた小さなナイフを取り出した。刃は短いが僕の持っていた刃渡り十五センチほどの突小剣よりはいいものだ。良い物に見えるだけで、実際はどうかしらん。
僕はそれをベックの手から奪うと、代わりに持っていた巾着をベックのお腹に投げた。
「?」
「すぐに誰か呼んできて、それは駄賃だから受け取っておきなよ」
そう言って僕はバラバラになった血の海の方に向かう。
バラバラになり過ぎて傷の手当に使えそうなほどの大きさで残っているものは殆ど無い。ディガンさんが助かったのはやっぱり偶然みたいだ。
ベックがまだへたり込んでいたので、怒鳴りつけると転びそうになりながら出て行った。
さて、火の勢いも収まることはないだろうし、さっさと済ませるか。
バラバラ死体を漁って、なんとかベルトと布切れを集める。
それを持ってディガンさんの傍にしゃがんだ。
「傷を縛りますよ。薬はありませんから、できるだけ急いでちゃんとした手当をしてもらってください」
「一体、これは、なんだ」
また同じことを聞いてきた。ちゃんと意識があるのか心配になるが、何が起こったのか気になっているようなので、早速嘘を提案してみることにした。
「ゴンズレイさん達は殺されたんですよ。誰に殺されたかは知りません。ディガンさんや僕以外の誰かです」
腰をベルトで縛って、傷の止血を追えると仰向けにした。今度は脇から手を入れて部屋から引きずり出す。六歳の僕ではとても一人で運べなかっただろうが、本人の意識があるのでなんとか廊下まで連れ出せた。
「あ、そうか」
と、僕は背中の傷に当てていた布を剥がす。そしてその分緩くなったベルトを締め直した。
まぁ死にはしまい。無免許医師以下の存在なので何とも言えないが、知らないよそんなこと。
僕は血に染まった布を部屋の炎に投げ入れる。
背中の傷なのに布を当ててたら、誰かいたことがバレてしまう。胴体のベルトくらいなら自分でやったことにできるだろうけど。危ない危ない。下手な仏心が仇になるところだった。違うか?
「ゴンズレイさんは何者かに殺された。ディガンさんは何とか生き残った唯一の目撃者です。後は自分の心地いい感じに話を考えてください」
ここまであからさまに言う必要はないかもしれないが、今は意識が綾ふやだろうし。
「どういうつもりだ」
とディガンさんが聞いてきた。あら、どうやら意識ははっきりしているらしい。
「僕とあなたにとって都合のいい話をしておいてください。貴方はゴンズレイさんの後釜に座ればいいだろうし、僕はこの一件と関わりがなかったということで。僕からの要望はここに僕はいなかったってことにしてくれれば、他に何もいりません」
そして僕は、「ああ」とわざとらしく付け加える。
「それからゴンズレイさんのトドメをさしたのはこの小さなナイフで、ゴンズレイさんの持っていた貴金属がなくなっていたという『事実』も忘れないでくださいよ」
ディガンさんが目を見開いて僕の顔を見つめる。
男に見つめられても嬉しくないし、化け物を見るような目つきで見られるのも嬉しくない。
反対意見も出ないようだったので、僕はその場を後にした。
どのみち、僕がこの場にいたことは、こうなった以上ディガンさんも公言しないだろう。
だから僕がこの一件と無関係であることを望めばこんな真似をするまでもなく、ディガンさんは納得していたはずだ。それはゴンズレイが僕の身柄を抑えた理由がそのまま当てはまる。
ベックは口を封じてもよかったが、というより、後々のことを考えればそうするべきだが、僕は鬼ではないので逃してしまった。でもナイフと宝石の件があるから、同じことだろうけど、自戒すべきことなんだろう。やるならきっちりと杓子定規に容赦なく。それが平凡な僕には必要だ。
これからすることは、この先の『事業計画』の種まきだ。
あとは野となれ山となれ。あ、種まきなら野となっても山となっても困るので花を咲かしてもらわないといけないのだけどね。
僕は、部屋に戻る。
だいぶ火が回っていた。
ゴンズレイの残った左足が火の中でブスブスと焦げていた。肉の焼ける臭いだが、香ばしさより不快感のほうが大きい種類のものだ。
僕は倒れているゴンズレイの目の前に膝をついて、視線を合わせる。
「た、助け…」
また同じことを呟いていた。もしかしたら僕の顔も認識できていないのかもしれない。
さて、
人を殺してはいけません。
ということをここで考えてみよう。そんなこと考える暇があるなら助けろよ、というかもしれないが、もとより助ける気はないので、今しばらくお待ちください。
人を殺してはいけません。その理由を答えなさい。
日本人であるときはその理由を中々答えることはできなかった。
そんなことに理由があるのかとも思う。『ならぬものはなりませぬ』で済む話のような気がする。
結局のところ、理由なんて無い。
だから人を殺していけないこともない。
だけど人を殺さなきゃいけない理由もない。
だったらやっぱり殺さないでいい。
日本人であった時ならそれで済む問題なのだ。
では、人を殺す理由があれば、人を殺していいのだろうか?
解答としては、
殺していいのだ。
良いということではないが、悪いことでもないからだ。気分は悪いが。
なぜなら人は人を殺せるからだ。
ロボット三原則だっけ?
人の作ったロボットには、人を殺すどころか、傷つけることさえ禁止する法律を埋め込むことができるらしい。
もし人が人を殺すことが駄目なことなら、そりゃ作った神様の製造責任という奴である。
たぶん、神様はそんな細かいことまで知らねぇよとかいいそうだけど。
それにもちろんスカイネットみたいに創造主の思惑の外に出る存在もいるみたいだけど。
つまり全部架空の話しだ。確かめたことのある人いないんだから。
結果残った真実は、人は人を殺すことができる。他の生物よりも簡単に。
殺れるし、犯れるし、盗れる。十戒だって、二十回だって。
結局、人間は、喜ばしいことに、自由なわけだ。実現できるかできないか、気分が良いか悪いか、いいことか悪いことかは別として。
なんでこんなことを考えたかというと、
僕はベックからもらったナイフをゴンズレイに見せる。目の前にチラつかせるようにして。
うーん。と、少しだけ悩んだ。きっとそれは目の前の小川をジャンプして向こうに跳ぶ感じ。
その溝の幅がどれくらいかイマイチ分からないが。
「や、やめ……」
ゴンズレイが弱々しく残った腕をこちらに突き出してきた。
それで、そんな言葉で、僕は決心した。いや決心はしていないが、反射した。これはいつやるかという話なだけだ。どうあれこうあれ結果は変わらないのだからということを納得しただけ。
何も考えず、ナイフの切っ先をゴンズレイの腹の上に引っ付けるように刃の腹を押し付けた。
なんで、人を殺していいか悪いかなどということを考えたのかと言うと、いわゆる割礼の儀式を前にして僕はそんなことでそんなことをする僕が、あいも変わらずなことに、最期の一線を超える前に、なにか間違ってないか少し考えた。そういうわけだ。いまさらでしょ?
押し付けていた刃を少し角度を高くする。
そしてその上から体全体を使って覆いかぶさるようにのしかかった。
あっと言う間に、ズルリと刃が老人の贅沢で付いた肉に食い込んだ。
ゴンズレイの体が一瞬暴れた、六歳の小さな体では抗しきれず浮き上がったが、それは重力に従って、再び腰だめに持ったナイフが更に体に吸い込まれるだけだった。
「ゲフっ!」
ゴンズレイが血を吐いたので、後ろに飛び退いた。単純に血で汚れるのが嫌だったからだ。
少しの間、バタバタと死に抵抗しようとした老人は、そのまますぐにピクリとも動かなくなった。
ふむ。と少し予定より早まった死を向かえた老人を眺める。まるで作った模型を眺めるように腰に手を当てて眺める。
人を殺した感想は? と自分に聞いてみた。
存外悪い気分ではない。いい気分でもない。残念な気分ではある。
思ったより、何もおこらないんだな。と思う。
人を殺してしまった、というのに比べれば、人を殺した、というのはそれほど大した問題ではないらしかった。
好きな人を殺したわけでも、罪のない人を殺したわけでもないし、それらの人でないと僕が確信している人を殺したわけで、何も変わったことをしたわけでも、起こったわけでもない。
予定通りに事が進んで、驚く人間がいないように驚きはなかった。
ただ、もっとこう、予想できない衝撃を受けることを、心の何処かで期待していた。希望していた。
やってしまったことだから、考えても仕方はない。
どうせこれから最大二百人を殺すのだ。
こんなところで、精神に変調がきたしてもらっても困る。
しかし、殺人という非日常は、なるほど予想外の要因の発見でもあった。
殺すという行為と、殺されるという行為。そのどちらの心の動きも味わってみた。
少なくとも僕という人間にとって、殺すことの倫理観よりも殺されることの恐怖のほうが、オシッコチビるくらいには変化があることだった。
殺すことより、殺されることに衝撃を受けるのは、なんだか小物の証明のようである。そうあることに失望してもしょうがない。この先のことを、この先やろうとしていることを考えれば、いい結果なんだろう。と前向きに考えた。
二百人の殺害。
考えるに大変そうだ。殺すのは二百回刺すか、二百回毒でも飲ませればいいだけなので問題はない。問題は殺される可能性も二百倍だ。可能性がコンビネーションであるなら約三万から二十五万通り以上の選択肢となるだろうか。色とりどりの未来だとは言えないけど。
それは受け入れなきゃいけないだろうな、とは思う。別に受け入れるとか受け入れないとかは結果に影響はないんだけど。それでも傑作なことに二百人殺そうとする僕は、誰かに殺されても誰かを恨むこともなさそうだ。二百人も殺したら、少なくとも殺人未遂を起こしたら、そりゃ殺されたってなんもいえねーである。
実際のところ、殺される可能性と殺されないで逃げ切る可能性、つまり残りの人生の時間を比較して、意外にいけんじゃねぇかなという、小物らしい目算というか自暴自棄な思いがあるんだが。もちろん二百人殺す前にタイムリミットがくる可能性も実は低くない。そうなったら笑っちゃうね。
それはつまり、人を殺さないで平和的な方法をとる時間はそれほどないということでもある。僕はもちろん、この街も、時間はないし、そんな悠長なことで変わるとは思わない。
実際にレアナという妹は殺され、アレルという兄は生き残った。
この先、アレルという五歳の少年は、妹を殺されたという不幸を背負って生きる。
僕の姉と同じようにまだ四歳のレアナに死ぬほどの罪なんてあるわけないし。
僕の兄とは違って生き残ったアレルだけれど、妹の食い殺される場面を見せられる必要もない。
あの二人は何の責任も必要性もない不幸に見舞われた。
だったら、どっちが死ぬか、殺されるか、生き残るかは、はっきりしてる。
それにおおよそ二百人だ。
別に、二百人きっちりまたはそれ以上殺すわけではない。
もっちろんこれは概念的な話であって二百人が三百人にならないかというと自信はないのだが。その時はテヘペロで済ますつもりだ。
今日はドサクサに紛れて、幹部の一人を殺したが、彼は殺害リストの上位に入るのは間違いないので問題ない。それによる状況変化も予想はつく。
だが、悲しいかな、僕には予想はできても人手が足りていない。
それ故に、ゴンズレイを殺したのに、ディガンを生かした。とか言ってみる。
ベイトマン父娘は裏の仕事には使えないのは明らかだ。ナイジェルもしかり。
理由は特に無い。明らかなのだが、特に無い。
無理やり言うなら、オレンジ色のポップな絵を書いているところに、そっと内緒で黒の絵の具を混ぜるみたいな真似はするべきではない。人には役割も、住むべき場所もある。
その点で言えば、ディガンと、黒目女たちと、アレルは実に使い勝手がいい。
ディガンは欲のために、ハーフグーラー達はその習性のために、アレルは復讐のために、裏の仕事にはぴったりだった。
アレルは前者二人とは違い、まだ、ベイトマン達の世界で生きられるかもしれない。
けれど、アレルは妹想いであったために、まだ五歳であるがゆえに、もうダークサイドに堕ちるしかないだろう。かの暗黒卿ほど才能があるわけでも、欲深くなくとも、きっと足を踏み外すだろう。
もしかしたら、僕の予想が外れるかもしれない。別に人生経験豊かな人間ではないのだ。五歳の少年の行末なんてわからない。
だから、他の二人と違い、引きずり込むような真似はすまい。彼の判断に任せるだけだ。もし影に足を踏み入れてきたならば、遠慮はしないけれど。そしてそうやってやるのが夢見がちでもないユトリな僕としては彼にとって最上のやってあげられることだ。
そうでなければいいと素直に思ってはいる。
レアナとアレルの二人に、今はいない二人の兄姉の面影を見ているのは正直に認めよう。そのために少し判断を狂わせたってしょうがないと思っている。なにせ僕だから。
だから本当に、彼がそうならなければいいと、もう一度言うが本当に思ってはいる。
人を殺してはいけない理由はない。
けれど、その時点で、人に殺される動機にはなる。
そういう人間はなんで殺すんだなんて言ってはいけないだろう。
実際はそう言うだろうし、当人たちには瑣末な問題に思えるだろうが。
つまり、僕も殺される可能性は格段に増した訳だ。
つまり、アレルが復讐をしたらその時点でただの被害者じゃないわけだ。
そうならないで欲しいと僕は希望する。彼にとってはどちらも地獄のような余生でしかないだろうけど。
「……面倒な話だよ」
誰に言うともなく、目の前の老人はすでに聞いていないが、呟いた。
さて、そろそろ行くか。つまり逃げるか。
ナイフを腹に縦向きに立てたまま、その場を離れる。
指紋を拭き取る必要がないのが、この世界では便利だな。
とか不届きなことを思って外にでる。
廊下に出ると、ディガンさんが荒い息で、やっぱり化け物を見るような目でこっちを見てきた。
失礼な話だが、致し方ないので文句は言わない。
「じゃあ宜しくお願いしますね」
と言い残してサッサとこの建物から出ることにする。
建物にはもう人がいないので、人目を気にする必要もない。とは言えそろそろ誰か煙を見てやってきそうだが。まったくあの妹はやることがいちいちガサツだ。
表から出るわけには行かないので、従業員用の通路を使って裏口へ出る。
そっと扉から顔を覗かせると、何やら大人たちが大勢いるのが見えた。武装しているところを見るとこの街の兵士みたいだ。きっと魔物騒ぎのために動員されたんだろう。
見つからないように路地から路地へ通って、何とかアーガンソン商会の邸宅、つまり家に向かって歩く。そう言えば、いまさらながら思い出したが、ナイジェルさんやベイトマンさん達はどうなったんだろう。大人なので自分で何とかしてもらうしかないけど。
兵士たちは貧民街の方へ注意が向いているらしく、娼館から離れて行けば行くほど人の姿は見えなくなっていた。
路地ということもあるだろうが、住民達の姿も見えないから、もしかしたら避難させられているのかもしれない。
これは路地から大通りに出ても人に見つかる心配はないかもな。
その途端。その途端だ。
まるでその考えがフラグだったかのように、突然それはやってきた。
路地の壁が吹き飛んで、土煙の向こうからやってきたのだから、突然としか言い様がない。
六年間の準備期間があったって、それは突然だった。
心の準備とか、決心とか、なんかそんな感じのものができていない僕にとっては、路地の壁を吹き飛ばして現れなくたって、それはいつでも突然だったろうけど。
突然女が二人現れた。
そのうち一人は、六年ぶりでも、六年プラス幾日前と声も姿も、人種も年齢も身分も何もかもがまさに遺伝子レベルで違っていた。
なのにそれは紛れも無くひと目で誰かが分かる。
僕のクラスメイトで、僕と同じ大学に通うことになっていた上郡美姫という女子高生でありながら、
僕と同じ時に生まれ、僕と同じ日本人の記憶を持つ、クレオリア・オヴリガンという公爵令嬢。
それはもう、六年とか関係なくわかった。
もちろん六年ぶりの再会なのに彼女が怒っているのもひと目で分かった。