69 朱は来ませり
「どうするんです?」
何気ないことが人生を変えることがある。というよりも、それが積み重なって変わっていくのが人生というものだ。
ディガンがベックという小僧を連れて部屋を出て行った後、残っている護衛の男がそう尋ねた。
その言葉は何気なく言ったものだが、それを向けられたゴンズレイは先程まで有頂天だった笑みを消して考えこんでしまった。
どう、というのは部屋の隅で寝かされている少年の処遇のことだ。
護衛の男たちは詳しいことは聞かされていない。側近のディガンでさえ今日まで知らされていなかったのだ。
男たちは何もゴンズレイに忠誠を誓っているわけではない。盗賊ギルドの長と大幹部のゴンズレイが諍い事を起こしていたなら、それは美味い汁を吸える方に味方をするつもりだ。ディガンでさえそうだろう。それが盗賊ギルドというものだ。
だから、ゴンズレイも詳しいことを相談したりはしない。仕事をするのに必要な情報だけを必要最小限与える。
だが、護衛の男達もベックの報告は聞いていた。その報告がゴンズレイの予想よりも悪い物だったなら、それは護衛達の裏切りを招いたかもしれない。だが、ゴンズレイはアーガンソン商会という免罪符が効力を発揮することを予想していたし、結果は逆に予想以上だった。
まさか盗賊ギルドの長、その子飼いである殺し屋たちが、この街の絶対的狂者であるアーガンソン商会の総帥。つまりこの街の絶対的強者であるソルヴの隠し子と噂さされるエドゥアルドを殺そうとしたとは。そしてその危機をゴンズレイが救った。
これを幸運と言わずしてなんというのか。
護衛の男達にもその報告を聞かせたことは意味があった。なぜなら盗賊ギルドの長は有無も言わさず言い訳のしようもないほど、明らかにアーガンソン商会と敵対することになる。そしてそれを殆ど知る者もいない第一報を護衛の男達は聞いたからだ。
もちろん、エドという少年がソルヴの隠し子であるという話は噂でしかない。だが、それでもこの少年がアーガンソン商会の一員であり、丁稚として幼少から将来の幹部として育てられている紛れも無いあの人外達の仲間であることには違いがない。
その仲間が、毛ほども価値も興味もない存在に殺されようとしたとしたら、獅子の子が鼠に噛みつかれようとしたのだと知ったなら、親獅子はどうするだろうか? その推測は先例を参考にするのが最もあり得ることだと誰でも分かる。
これからアーガンソン商会による盗賊ギルドに対する粛清が始まるだろう。
それは十五年前にあったあの時のように。いや、今度はこの街で三百年間続いた組織が綺麗さっぱり消えることになるかもしれない。前回はウロチョロと目障りな鼠をその強大な前足で押さえつけただけだった。今度それが行われるとしたら、そこには明確な意思が牙に宿る。
しかし、その中にゴンズレイは含まれていない。含まれるはずがない。
そうなれば、アーガンソン商会にとってはゴミ山でしかない貧民街、しかしゴンズレイにとっては宝の山である貧民街、そこにポッカリと空白地が生まれるのだ。
なら、男達がどっちを選ぶのかは明らかすぎて議論にもならない。
この部屋の中に、二人の男達がいた。部屋の外には扉の前にもう一人立っている。
少なくともそのうち部屋の中でこの話を聞くことのできた二人は、意思の疎通など必要もなく同じ選択をしていた。
だから「どうします?」と、少しでも情報が欲しかった。この場に居合わせた幸運を確実に自分のものにして、それをさらに大きい黄金に変えるには、もっともっと知る必要があると思っていたからだ。
だから、護衛の男はゴンズレイに発言を促した。
しかし、その一言が運命を変えることがある。
この物語の結末の中で、後始末の中で、エピローグの中で、手に入ってもいない行く末や金貨を夢見て、足を踏み外した者がいる。
彼らもそうだった。彼ら、というのはここにいる全員だ。
目の前のことに対処していたクレアはこの時三階から店の外に飛び出していったために除かれる。休業して徴用されて、ゴンズレイによって余計な者達は追い出されていたことも、その者達にとっては行幸だったろう。
この街最大の『店』である娼館を経営するゴンズレイに従い、この場に居合わせた幸運に感謝した十人足らずの盗賊ギルド構成員達。そして連れて来られた六歳の少年。
それがこの時、この店の中にいた全ての人間で、この一言で足を踏み外した全ての人間だ。
それを踏み外したというのか、それを踏み出したというのかは、受け取る読み手の考え方によるものだが。
「確か、男娼専門の調教師がいたな?」
ゴンズレイの沈黙からの一言目はそんな意外な一言だった。
「? ええ、呼べばいますが」
「すぐに呼べるか?」
「いえ、貧民街の方へ行ってます。時間とあの通路があれば呼べやすが」
「チッ」
上機嫌だったゴンズレイはそこで初めて不快に顔を歪めた。そうそうスムーズに思いつきが運ぶわけではないのでしょうがないが。
「いきなりどうしたんです?」
「ふん」
ゴンズレイは護衛の男の問には答えなかった。だが、男の方は自分で答えに行き着いたようだ。
視線を意識を失っている白髪の少年に向ける。
女であろうが、男であろうが、人が人を支配する時に使われる代表的な方法にはその『性』を使うことはままある。性別のことではなく、快楽行為としての性のことだ。この場所のことを考えれば一番ありふれた方法でもある。
サウスギルベナの娼館には男娼が数名だがいる。ただしそれは男色趣味のある男に提供される商品としてだ。ある程度特殊な商品なのでそれ専用の調教師を雇っていた。
護衛の男が予測したゴンズレイの考えは凡そ正解だった。
ゴンズレイもまた小さな成功の兆しに、より大きな黄金を求めた男だったのだ。
つまり、エドの身柄を抑えて、それをアーガンソン商会へ差し出すだけでは満足できなくなったのだ。
何とかこのエドという少年を支配して、アーガンソン商会からより多くの富を得られないのか。その考えは盗賊ギルドの一員としては真っ当だと言えなくもない。
「男娼調教師じゃなく、女を使えば……そりゃまだ無理か」
男の言うとおり、女を抱かせるといった快楽による支配はまだ到底できる年齢ではない。そうなると精神的外傷を与えて、それを利用して支配するほうがまだ小さな子供だけにうまくいくだろう。
薬を使うという方法もあるが、それだとアーガンソン商会の連中にバレる危険がある。この場所には売春行為を楽しむために、快感を引き出すための薬も揃っている。だが、それらも表面上に変化が現れるという点では身体的拷問と変わりはない。さすがにそれをやってしまったら本末転倒だ。
見た目には分からない。しかし、確実に深く鋭く人の臓腑を抉る闇が性の調教だ。それは幼ければ幼いほど効果がある。反吐が出るような行為であるが、それは彼らにとって、そしてここではそれほど珍しいことでもない。それをエドに適用しても別になにがいけないのだと彼らの、もしあるとしたら倫理観は、告げていた。
もちろん、それは護衛の男が発した何気ない一言から、ゴンズレイが何気なく思いつきで発した言葉にすぎない。別にそこまでしなくとも、今のままでも十分に望むものが手に入る。
だが、その「どうするのか?」と護衛の男が尋ねて、「エドを支配できないか?」と思いつきを口にしたことが、彼らとエドの足を踏み外させることになった。
その何気ない言葉が、逆鱗に触れたからだ。
誰の? と聞かれれば、彼女のと答える。
彼女とは誰だ? と聞かれれば、その部屋の中に立っていた一人の少女だと答える。
そう、少女が立っていた。いつのまにか。
「……」
ゴンズレイも、護衛の男達も部屋の隅で寝かされているエドの直ぐ側に、壁に背をあずけて立っている少女の姿は見えていた。
だが、暫く何の反応もしなかった。
少女が何も喋らず、腕を組んだまま動かなかったということもある。あまりに突然にいつのまにか現れたから見えてはいても、認識できなかったということもある。
灰魔術師としての『目』でも持っていたら、エドの体から漏れていた魔素の黒い霧が発生しておりその前兆に気がついていただろう。しかし、この場には灰魔術師どころか、いかなる魔術の素養を持った者もいなかった。
少女は身長が百五十センチに満たない程。十代半ばで、長く白い髪と、赤い瞳を持っていた。どことなく、目の前で横たわっている少年の面影があった。ただし、少年の少しタレ目のノンビリとした顔立ちではなく、鋭い三白眼の一重。小顔で細い顎をした美しい少女だが、体の作りから推測できる年齢よりもその顔立ちには随分幼い雰囲気が、ない。そして何より、その赤い瞳孔は縦に長かった。人の形をしながら人ではないことを思わせる。人に近いだけ不気味さがあった。
「誰だ!」
当然の疑問をようやく叫び、腰のナイフを抜き取ったのは、護衛の男達だった。
すぐに扉の外にいた男がその扉を開けて中の様子を見て入ってくる。
「誰だ?」
黙っていた少女がようやく口を開いた。
「お主らはおかしな事を聞くのだな」
古めかしい口調で十代にしか見えない女が言う。
「お主らは殺虫剤を撒いてムシケラを殺すのに、ワザワザ我が誰か名乗ると思っているのか」
訳の分からない言葉。だがそこに含む意味を護衛の男達はしっかりと捉えていた。
護衛の男達三人は、ジリジリと距離を詰める。
少女は何の武器を持っているようにも見えない。服装は全身をピッタリと覆うような黒いタイツのようなものを身につけているだけだ。それは見たこともない素材だったが、少女の体の曲線はおろかか筋肉の筋まで見えるほど密着しており、武器らしいものは一切持っていないのがわかった。
それでも三人が突如現れた侵入者に襲いかからないのは、ランプに照らされた縦割れの赤い瞳だけでなく、何か尋常ならざるものを感じていたからだ。
それは三人の後ろにいて、先程まで座っていたゴンズレイも同じだ。老人は不気味な少女にできるだけ距離を取るようにその背を背後の書架に押し付けていた。
「折角三年ぶりの現し世じゃ。できれば行幸を心ゆくまで楽しみたいが、この幸運は兄者の憂いを払うために使うこととしようかの」
そう言って少女は壁から背を離し、ゆっくりとした足取りで男達に近づく。
「この姿では長くは居れんからな。チャッチャと済ますぞ」
やはり意味の分からないことを言ったが、少女の存在に比べれば瑣末なことだ。
だが、時間がないと言いながら少女は立ち止まった。まだ男達の持つナイフでも届かない距離。少女の素手の腕では尚更に離れていた。
スイッとその細い腕を天井へと伸ばした。まるで何かを掴むように。
「え?」
男が少女の上に挙げた手を見つめる視線を更に上にむけた。
掴むような仕草をしていたその掌の中に、いつのまにか何かを握っていたからだ。
少女が現れた時と同様に、何の音も前触れも彼らには確認できなかった。
その掴んだものの正体を見極めるために男達は全員が視線を更に上へ伸ばした。
「え?」
それはどこからどう見ても、天井に届くほどの大きな鎌だった。
物語の死神が持つ黒と銀の鈍い色だけの、大型の収穫鎌。刃の大きさに比べると、細すぎるように見える黒い柄の端を持って少女の手は静止している。
そして命令を下した。到底受け入れることはできないが、受け入れるしか無い命令を。
「動くなよ」
当然の口調で呟いた。