60 睨権の川
「弓を持った者は階段を狙える位置に!」
布鎧に身を固め、帯剣しているクレアが大声を張り上げていた。
喉を確実に痛めているのだろうが、喧騒に負けないようにするにはしょうがなかった。
非常設の兵員最大まで召集した二百名に加え、民間からの徴用兵が百名ほど。
市民人口千人弱のサウスギルベナでは、動員できる最大の兵員である。
それほどの大人数を指揮する立場にあるのだ。喉の痛みくらいは我慢しなくてはいけないだろう。
その三百名の兵士。兵装はかなりマチマチで、農具などで武装したものが大半だ。他国や異民族との戦争ではとても兵とは呼べない人員である。その三百人が貧民街と市街地を隔てる用水路沿いに並んでいた。
「堤防にあがる階段に五名ずつ、それ以外は等間隔! 班長は調整して異変があったら知らせをよこしなさい!」
同じ言葉を叫びながら、クレアは堤防沿いに馬を走らせていく。
こんなところで、士官科で習ったことが生きるとは今日まで思っていなかった。
役に立っているのは乗馬の技術だけではない。三百人の兵士、しかも玉石混交というにはあまりにも石の数が多い軍勢だ。アーガンソン商会に借りた人員はさすがに飛び抜けて優秀で、その面々をどのように他の兵士たちの補助にあてるかは集団軍事行動の知識が必要だった。
しかし、悪いことばかりではない。
軍の構成において、重要な要素をこの三百人は完璧に満たしていた。
戦争における重要な士気という要素だけを見れば、この三百人は帝国騎士団にだって負けていない。
士気が高い原因は、自分たちが瘴気汚染によって発生した魔物に対処するためだということを知らされたからだ。三年前に起こった魔病によってこの街は老人や子供を多数失った。
二度とあんな目には出会いたくないというのが、共通の認識、恐怖としてある。
指揮する立場のクレアとしては、この士気の高さは大きな武器でもあるが、逆に暴徒と化すリスクでもあった。
今回の用兵の目的は、表向きは魔物、鼠の大群とのことらしい数万単位のそれを市街地に侵入するのを防ぐこと。
下手をすれば三百人程度の兵士、しかも貧民街を縦に隔てる用水路に等間隔に配備している隊列の厚さでは防ぎきれない可能性もある。
その場合にの対処として発生源である南地区には兵を多めに配置して、さらにアーガンソン商会の面々が貧民街に入ることを許可した。彼らに貧民街での鼠の『駆除』を依頼している。
この三百の兵の一番の目的は、実のところ鼠の対処ではない。貧民街の住民が市街地へ流入する、または暴徒と化した場合の対処のためだ。軍隊鼠(MGR)がどんな魔物であるかは詳しくは知らないが、鼠であるというなら伝染病の危険がある。感染した貧民街の住民が市街地に入ってはそれこそ三年前の悲劇が繰り返されることになる。
「油の使用は私の許可があるまでは絶対に行わないこと! 違反した者は処刑します!」
軍隊鼠(MGR)の弱点は火であるらしいから、油を撒いて火計を仕掛けるのは有効な手段だが、いかんせん貧しいサウスギルベナでは十分な量を確保できなかった。
本当なら用水路に油を流して、火をつけ、炎の壁でも作れれば、これで防衛に関しては十分な対処になりそうだ。しかし聞いたところ、用意した油では水に混ざってしまうと着火することはできないらしい。量も足りない。川はすでに堰き止めてあるが、まだ水は残っているし、全体に流して使う量もない。
おそらく用水路の長さを考えると火計が使えるのはギリギリ一度。適時適量を考えなければ切り札が無駄になってしまう。
「貧民街の住民が堤防を越えようとした場合は、警告無く矢を放ちなさい!」
これに関しては、もはや兵士たちに注意を換気するまでもない。逆にやり過ぎないかという心配があるくらいだ。しかし、クレアは治副司である。都市の治安維持に責任はあるが、そこに貧民街の住民は含まれていない。
堤防の壁は垂直で高いところで五メートル、低いところでも三メートルもある。
壁が高いわけではなく、用水路が土地をえぐって低く掘られているためだ。
貧民街の住民が来るとすれば、堤防に作ってある石階段のあるところだ。その箇所はそれほど多くはない。
それらのことを考えると、なぜこのような堤防が作られているのかは明白だ。
大して水量もない用水路に過剰な高さの、降りるための階段の少ない堤防の目的とは、そう、このような時のためだ。
間に合った。
クレアは馬を並足に進ませながら、堤防に並ぶ兵達の姿を見て、とりあえずの対処として間に合ったことに安堵した。
とりあえず、娼館に戻ろうか。
と、馬を進ませていたところだ。偶然にも休みだった娼館を、対策本部として使っていたのだ。なにか事があるまで一旦休憩でも取っていたほうがいいかと考えていた。
クレアがここに拠点を敷いたのは、何も閉店中だったからではない。この娼館はちょうど縦長の貧民街の中央に位置し、横の位置では市街地の端、用水路の傍にあった。
堤防の高さに加えて、娼館の建物自体がサウスギルベナでは珍しく三階建て。そのバルコニーからは貧民街のかなりの部分が見渡せた。だから、閉店中であろうがなかろうが、徴用することになったのだろうが、無用な労力を減らせたことは、事態が事態だけに大きい。
だが、あと少しで娼館に辿り着くというところで、クレアは休憩を取ることができなかった。
運がいいのか、悪いのか。
運が悪かったというのは、休憩が取れなかったことと、騒ぎが起こったこと。しかしどちらにしても大した問題でもない。騒ぎはいつか起こることだ。
運が良かったのは、騒ぎが起こったのはちょうどすぐそばまで来ていた娼館近くの堤防階段だったからだ。
馬に鞭を入れて、現場に急ぐ。
「そこをどけ!!」
男の雷鳴のような声がここまで聞こえる。
近づくにつれて、騒ぎの原因がすぐに分かった。
いや、事情はまったくわからないのだが、騒いでいる原因の声はまだ離れているにもかかわらず耳に入った。
「補佐官様」
蹄の音に振り返った男たちが、ほっとした表情を浮かべる。
「どうしました」
クレアは馬を預けて堤防まで駆け寄ると、男たちの間を縫って、階段の傍まで寄った。
「儂らを通せと言っているだけだろう!!」
耳に叩き込まれるような怒号が階段の下から飛んできて、クレアは顔をしかめた。
明らかに巨人族らしい男が、足元で騒いでいる。何かの魔法効果でもあるのかと思うほどの大声だ。身長に見合うだけの巨大な矛を手に持っている。
男の身長は三メートルほどもあり、おそらく手を伸ばしてジャンプすれば階段を使わずとも堤防に手が届くのではないか。
「なんです? これ」
クレアは顔をしかめたまま、隣にいた男に尋ねる。男の方もよく事情はわかっていないようだが、それでも事実をそのまま伝えてくれた。
どうやらこの巨人族は堤防の階段から市街地に入ろうとしたらしい。男の後ろには貧民街の住民たちが数十人いた。彼らを上にあげて、市街地に避難させろと言っているらしい。
「この男は何者です」
続けて尋ねたクレアの言葉に、隣の男が知らないと答える前に、それが聞こえたのだろう男の怒声がクレアの声を掻き消すように飛んできた。
「儂の名はダニエル・ベイトマン。帝都山帝門の守壁士長を長年担い、悪党どもから悪鬼と恐れられた忠節の騎士!!」
悪鬼というより、吠える樋熊だな。
と、耳を両手で抑えながらベイトマンという騎士を見る。いや自称騎士を見る。
大体、帝都の守備隊に所属する騎士がなぜこんな辺境の都市にいる理由があるのか。
「ベイトマン殿。私はこのギルベナ地方の領主、オヴリガン公爵閣下の治副司を務めているクレア・ホーキンスです。貴殿は何故このようなところにいるのか!」
一応、騎士と名乗っているので丁寧に尋ねたが、クレアの問に口ごもっているところをみて、事情はなんとなくわかった。
それでもさらに一応として
「何かご自身の身分を証明できる術をお持ちか!」
あるわけない。実際、ベイトマンは「今はない!!」と何故か自信満々に答えてきた。
没落貴族の類か。
ここは帝国領土最南端の地。流刑地ギルベナだ。
こういった、何かしらの理由があって流れてくる連中は多い。
そして貴族の中にはその地位を失っても、プライドからそれを認めることが出来ないものも珍しくはない。
この男もそういう連中の一人だろう。
おそらく嘘は言っていないだろう。本当に帝都の守備隊の騎士、だったのだろう。
そういう自分の立場を認められない連中は、この地方にきて数日もすれば死ぬかプライドなどゴミとなるかのどちらかなのだ。
見る限り、そんな繊細な感じは全くなかったが……それはまあいい。
「できないのなら、貴殿を市街地へ入れるわけにもいきません。また後ろにいる連中はあなたが例え帝都の騎士であろうと入れるわけにはいきません」
「なぜだ!?」
男が一層大きな声を上げた。それは先程までの地声としての大声ではなく、本当に信じられない言葉を耳にした驚きを含んでいた。
「なぜ為政者であるお主が、帝国国民であるこの者たちを救わぬなどというのか!!」
「その者達は帝国の民ではない!」
クレアはベイトマンの大声に被せるように、それはもちろん声の大きさではなくタイミングで、声を張り上げた。
「皇帝陛下の威光によりその庇護を受けられる者は、国民としての義務を果たし、帝国に忠誠を誓う者のみである!」
クレアが大声を出したのは何もベイトマンの言葉に逆上したわけではない。それどころかどんどん頭は冷たいくらいになっていた。
「私は帝国に忠誠を誓い、民を守ると誓い、公爵閣下の補佐としてこの都市の民を守る責務がある! その者達を市街地に入れることは、その民を危険に晒すことになるのだ。そのようなことは断じて許しません!」
クレアの言葉に、堤防の上に立った者達から「そうだ!」という声が上がり始める。それは怒声であり、三年前自分たちの親や子供を失ったという恐怖からくる。
怒声はベイトマンの後ろに控えていた貧民街の住民たちを震え上がらせるには十分だった。混じりけのない強大な感情の塊を向けられて動じない人間はそうはいない。
だが、そうはいないが、ここには少なくとも一人はいた。
巨人族の自称騎士は、その怒号を暫くジッと聞いていたが、やがてその手にした矛の石付きでドンと地面を打った。足を開き、空いた手の拳を握り、視線を上げて睨みつける。
それだけで、怒声は止んでいた。
「お主らは、この者たちを、帝国の民ではないというのか?」
先ほどまでの怒声より抑えた、しかし響き渡る声を発する。
「この者達は、自業にせよ、不運にせよ、この街に生き、この帝国に生きる同じ民ではないというのか?」
男の髭面にドカリと付いている眼がギリギリと引き絞られていく。
「暗闇に落ちた民をその威光によって照らすのが為政者ではないのか? 弱き者を助け立たせ歩かせるのが為政者ではないのか? 人が人らしく豊かに暮らせるように、人が人ということ以外に差別されぬように政を為すのが、神のごとく人の上に立つ者の責務ではないのか」
「なのに貴様らは!」
「この者たちを、同じ人ではないというのか!!」
怒声が堤防の上に立つ者達を撃ちぬいた。
兵士たちは毒気を抜かれたように巨人の男を見ている。
それは道理で説得されたのではなく、単にベイトマンの気迫に押されただけだ。
ただし、ベイトマンのその気迫は、魔法のような効果をもたらした。だが少なくともクレアを除いてだ。
別にクレアはベイトマンの言ったことを綺麗事だと馬鹿にする気はない。騎士だったというから、それがほんとうなら、騎士としては全うで尊敬するべき考え方だとは思う。
これが平素であったなら。
今は違う。
だから、その言葉はクレアには何も響かなかった。
馬鹿にすることも、その世迷い言に騙されて己の本分を見失うこともなかった。
幸か不幸かクレアは騎士にはなれず、この街の為政者の一人なのだから。
男の怒気を見て、クレアは冷静に命令を下す。
「それ以上近づいてくるなら、矢を撃ちかけますよ」
右腕を上げて兵士たちに弓矢の準備をさせるように合図を送る。
だが、隣にいた男から忠告の声がした。
「補佐官様。あの大男に弓矢は通じませんぜ」
「?」
「最初に上がってこようとした時に試しましたから」
「ああ、なるほど」
男の忠告に初めて、クレアはベイトマンの足元に転がっている弓矢に気がついた。
兵士たちはクレアが当初申し付けていたとおり、堤防に上がろうとした人間には警告無く矢を射掛けていたというわけだ。そして、おそらくあの巨大な矛で防がれたのだろう。
見た感じ、いかにも只者でなさそうだからそれくらいはできても不思議はない。
だが、それなら、別の方法をとればいい。ベイトマンが強引にでも上がってこないことを見れば巨人族の騎士もその可能性に気がついており、クレアもその方法はすぐに思いついた。
「弓を構えなさい!」
宣言するようにクレアは声を上げた。
隣の、助言をくれた男が怪訝そうにクレアの顔色を伺う。
まさか、自分の言ったことを理解していないわけではないだろう。そう思っているに違いない。
まさにまさか、そんなことは思ってもいない。あの大男には素人同然の兵士が放った弓などいくら試しても同じだろう。
だからクレアは命じた。
「狙いは後方にいる貧民街住民!」