57 混沌無形 開死
貧民街の通りで行われた三人の殺人鬼との殺し合い。
それは殺し合いにさえならずに終わろうとしていた。
絶対的魔力耐性値を誇るエドが昏倒した。
前代未聞の魔力耐性値。
それが彼にとっては致命的能力であったとしても、それによる恩恵もまた計り知れない。
ヨランダなる屍喰人ごときの状態異常攻撃など、この少年の魔力耐性値、つまり魔法効果を無効化する抵抗値を突き破ることなど、万に一つの可能性もないはずだった。
にもかかわらず。
初の実戦において、エドは屍喰人の『咆哮』を耳に叩きこまれた瞬間に意識を失って、汚れた地面に顔から倒れた。
呪歌、という魔術がある。
それは原始の魔術の一つだ。
おそらく、人が行使する魔術の中では最も古い魔術である。
魔術とは、魔力を利用行使するための技術。
その為に魔導師は設計図を描き、魔力を注入して思う通りの現象を起こそうとする。
その設計図に当たるのが、儀式であり、印であり、そして声だ。
意味ある言葉を紡ぐことで、意味ある形を成す。
神聖魔法を発現させるための祝詞も、
黒魔術を具現化するための呪詞も、
積道を用いて忌みを引き出す咒詞も、
呼び名は変われど為すことは同じ。
そしてこれらの詞は、たぶん儀式も、印も、すべての起源は歌うという行為に辿り着く。
歌つまり呪歌と呼ばれたリズムがメロディーになり、ハーモニーになり、それが更に発展して各魔術の詞となった。おそらくそうだろう。
つまり、呪歌は最初の力ある言葉だった。呪歌とさえ呼ばれていなかった時代もあるだろう。
それほど古い魔術だ。
始まりの魔術であるということは、当然洗練されていないということ、無駄の多いあやふやな技術であるといえる。現在使い手がほとんど存在しないのも、そのためだ。
しかし、逆に、そのあやふやな境界が、音と魔力のいいかげんな混濁が、効果を及ぼすことがある。
それが今目の前で起こっていることだった。
エドの異常とも言える魔力耐性値の壁の隙間を見つけて、肉体に影響を及ぼすには、呪歌のいい加減な性質は大いに役立った。もちろん、これは現在のエドにのみ有効な手段であって、今後成長して、異常な魔力耐性値がさらに異常値を示すことになれば、それすらも無効になってしまうのだろうが。とりあえず今は、その効果を思う存分に発揮して、エドの意識を奪うことに成功した。
ヨランダと呼ばれる異形の人間がそれを狙ってやったわけでもなく、結局この時点において、エドにとって最悪の結果に当てはまっただけのことだ。
だが、それを目にしたナイジェルには知識の欠如によって理解ができていなかった。
ただ、殺し屋の女が放った奇声を耳にしたエドがいきなり倒れ、恐らく意識を失ったことだけはわかった。
ナイジェルの魔術師としての知識は決して低いものではないが、呪歌についての知識はそこに含まれていないという単なる確率の話。開発と研究を行う魔導師でもない彼が知らなかったとしてもそれを落度とはいえない。賭けてあるものが自分たちの命であったのだから、冷たく言えばそれは自己責任だと言えるのだろうけれど。
とにかく知識がなかった彼は、なぜエドが倒れたのかは分からなかった。
呪歌という精神的物理的境界線のあやふやな魔法。その中でもさらに呪歌というにはかなり原始的な屍喰人の『絶叫』。それは本来は狩りではなく自己防衛用の特殊能力だった。
理解できなくともナイジェルは直ぐ様ステップバックした。
生殺与奪の権利を殺し屋に委ねるという行為は、それはエドのことを見捨てたとも言えるが、ナイジェル自身はそんなことは露とも考えていなかった。自身の命を軽んじる英雄性など持っていないし、望んでもいないが、幼い子供を見捨てるほどの冷徹さと合理性を持っているわけではない。どの命も生き延びる道を探した時の、そのための行動をとっただけだ。
今、後方に下がったナイジェルと、突然遭遇した盗賊ギルドの殺し屋達との距離は、最も近い二人の男達でおよそ七mほどだ。ナイジェルの得物を考えるとかなり近い。エドまでの距離で五mほど。もし先にエドに手をかけようとしたなら、それこそ狙い撃ちできる。もちろん三対一という状況はどこまでいっても絶望的な確率をはじきだすのは変わらない。
フッ、フゥ!
短く息を数回鋭く吐いて、ようやくナイジェルの混乱は治まってきた。
「クソッタレ、ようやく見えてきたぜ」
素早く弓に新しい矢を番える。矢の数は一本のみ。そこに再び発射速度強化の灰魔術『飛矢』をかける。しかし、先ほどのことを踏まえ、状況に応じて目標を定められるように命中率補正は施さない。
エドに近づいてきたのは、道化の化粧をした肥満の大男だ。
ナイジェルは弦をさらに引き絞る。犬面の男がそれに反応したようにナイジェルと肥満の道化男の間に身体を入れてきた。
だが、肥満の道化は、犬面男の姿で隠せるほど小さくはない。十分に頭部が狙える。この距離なら絶対に外さないという自信がナイジェルにあった。
犬面男の行動にも注意を向けながら、しかし標的を肥満の道化の頭部に定める。
だが、
「グルーエフ! ソイツはダメだ!」
声をかけ、肥満の道化の行動を止めたのは、あの、一番異常なはずの女だった。
女は口元を幼い少女の血で真っ赤に染めながら、はっきりと理性的な声で静止して、ゆっくりと二人の後ろからその場に近づいてきた。
「なんだ?」
ナイジェルは用心深くエドに近寄る女を観察する。しかし、少し空気が変わったのを感じて静観もする。
女は二人の男を突き飛ばすように華奢な両手を使ってエドから遠ざける。
「コイツはダメだ! コイツを殺したら私達が破滅する。コイツの血は絶怨の血だ!」
女がわけのわからないことを喚き始めた。二人の男たちは抗議する様に女に向かって唸り声を上げるが女は強硬に腕を突っ張って二人をエドに近づけない。
「ダメだ! コイツはダメだ! コイツは私達に滅びをもたらす!」
「何でだヨランダ!」
殺し屋たちが、突然揉め始めた様子に、ナイジェルは折角正常に動き始めた思考がまた混乱し始めたのを感じた。
その時、
三人の遥か後方で、ナイジェルの遥か前方の空で、巨大な爆炎が立ち上るのが見えた。
最初に気がついたのは、爆炎に対して、正対していたナイジェルだ。
いや、爆炎という表現すら生温い。
火山が噴火したかのような赤い噴煙。
天変地異だ。
「は?」
間の抜けた声。
遠くはなれているからこそ、その巨大さが分かる。まるで国興しの巨人のような禍々しく、神々しい巨大な炎。
それから間を置いて、街全体が、振動して、言い争っていた三人の殺し屋達の視界をブレさせた。
それが、三人の諍いを強制的に中断させた。ナイジェルという存在に背を向けさせた。
ナイジェルもその隙に攻撃しようなどと思いもしなかった。前を向いていたとか、後ろを向いていたとか関係なく、何が起こったのか理解ができず、行動ができなかった。
「どひー。ギニーさん激おこプンプン丸って感じですねぇ」
混乱し始めた状況にさらに混乱させるような場にそぐわない呑気な声がすぐ側で聞こえた。
翻るように脇を見る。
メイドが立っていた。
黒い髪を三つ編みにして、丸眼鏡を掛けた野暮ったい容姿の、ソバカスの残るまだ十代半ばに見えるメイド姿の少女が、のほほんと爆炎から巨大な煙に変わった様子を眺めている。
ナイジェルには見覚えがあった。
「お、お前!?」
二の句がつげないナイジェルにメイドはニパリと阿呆みたいな笑みを浮かべた。
「ども、おつかれさまですぅ。アンジェですよぉ」
そう名乗った通りアーガンソン商会のメイド、アンジェだった。
「なん、なん、……なん」
なぜここにいるのかと聞きたいが、上手く言葉が出てこない。
「まぁまぁ、あとあとぉですよぉ。とりあえず片して助けてそれからですねぇ」
「た、助ける?」
ナイジェルの言葉を無視してアンジェがスタスタと前に出る。
「無能でゴミなナイジェルさんは邪魔にならないようにスッコンでおいてくださいぃ~。後はちゃんとワタシ達でやっておきますからぁ」
「私達?」
その疑問がナイジェルの口を出た瞬間、先程まで、アンジェが出てきたことにも気づかず言い争っていた殺し屋達三人が飛ぶようにその場から三方に散った。
「!!」
殺し屋達のうち道化の肥満男がその場から逃れるか、どうかというタイミングで紫色の霧がその場の視界を遮るほど発生した。
「アンジェ。気取られるようなことを言うな」
冷めた声が、ナイジェルとアンジェのもとに届く。
「いやだなぁジャック先輩。避けられたのはジャック先輩の魔法がヘナチョコだからですよう」
「……」
路地から、陰気な表情の青年が姿を現した。
こちらも見覚えがある。アンジェが言ったようにジャックと言う名のアーガンソン商会の商人で、黒魔術師だった。確かナイジェルがアーガンソン商会に来るまでは、この男がエドに商人として、魔術師としての手ほどきをしていたと聞いた。
アンジェの言葉から察するにあの紫の煙はこの青年の魔術なのだろう。
しかしナイジェルは詳しくジャックを観察する前に、目の前で起こったことに慌てふためく。
「おい! 誤爆してんじゃねぇか!」
ジャックに詰め寄る。ナイジェルの言った通り、ジャックの放った魔術の煙はそこで倒れているエドまで巻き込んでいた。いや、避けられたので、エドしか効果範囲内にいない。
ジャックは陰気な表情を少しも慌てふためかすことなく答える。
「心配するな。あれは只の麻痺の霧だ」
「ただのってなぁ……」
ジャックの言葉に更に言い募ろうとして思いとどまる。ジャックの魔術がエドの魔力耐性値を考えて放たれたのだろうと思い至ったからだ。状態異常系の黒魔術であれば現在のエドの魔力耐性値であれば普通の空気と変わらないだろう。
「それに、あれなら連中もエドに手出しはできまい」
ジャックの言うとおり、どの程度の威力があるかはわからないが、今エドに近づこうとすれば麻痺の霧にやられてしまう。少なくとも無理に手は出してこないはずだ。
「さっきアンジェは引っ込んでいろと言ったが、できれば手伝ってくれ。遠距離攻撃もできる灰魔術師がいてくれると助かる」
「元からそのつもりだよ。一応これでもアンタたちと同じアーガンソン商会の雇われ人だからな」
「ええ! 大丈夫なんですかぁ? 邪魔はしないでくださいよナイジェルさん~」
不満気な口調のアンジェを無視して、ナイジェルはジャックの方に尋ねる。
「これで三対三だが、あっちにはまだ盗賊ギルドの連中がいるぜ?」
ナイジェルはエドを挟んで反対側の通りにいる盗賊ギルドたちをさして言った。
「あっちはアヴリルがいるから大丈夫だ。俺達は話が上手く纏まるまであの殺し屋たちを牽制していればいい」
「アヴリル?」
ナイジェルの疑問には、ジャックは黙って通りの反対側を指さした。
そこにいる盗賊ギルドの五人の男達は焦っていた。
突然邪魔をする人間がまた二人増えたからだ。しかし、ここまでなら殺氏家結末の三人に任せておけば良い話だった。
しかし、彼らが焦っているのは、そこに更にまた新たな登場人物が現れたからだ。
しかも自分たちの目の前に。
男が三人と、女が一人。
共通点は全員が革と布を組み合わせた黒い服装に身を包んでいること。剣を持っているが、鎧はつけていない。
男たちは三人共、盗賊ギルド構成員の五人に背を向けて、まるで殺し屋達との間を遮る壁を作るように並んでいる。
全身黒ずくめだというだけではない、異様な雰囲気があった。鋼鉄のような職業人としての意思が立っているだけで感じられる。
そのうち女だけが、彼ら五人の方に向いていた。
その女も同じように黒い衣装を身につけているが、此方は黒いコートを着込んでいた。武器は持っているようにはみえない。
黒い長髪。黒い瞳。年の頃は少女時代をようやく終えて、女になったばかりに見える。痩せ過ぎで眼つきが悪く、鴉のような女。
「オイ」
女が盗賊ギルド構成員五人のうち、真ん中に立っていた男に声をかけてきた。その口調はとても友好的な物でもないし、か弱き女性が五人の非合法組織の人間にかける言葉でもない。
言われた男は周りの仲間達の顔を見やった。誰もが戸惑っている。突然現れたことも、何故か黒服の男達は自分たちに背を向けていることも、女がまったく恐れていないことも。まるで自分たちが決定的な間違いか常識はずれなことを気付かずにやっていたかのように。
「な、なんだよ?」
男は戸惑いながらも、いつものように反射的に高圧的な言葉を使おうとした。とても高圧的とは呼べないが、なんとか口にした。
とたんに女の蹴りが飛んできた。
「あだっ!」
それは痛みというより、いきなり太ももを蹴りつけられたことによるショックの方がダメージとしては大きかった。
「お前、誰に口聞いてんだよ」
女が凄む。とてもじゃないが、五人の中に「誰だよ」などと言うものはいなかった。
「あ、え?」
男は女の態度に、必死に頭を働かせて考える。
彼ら、盗賊ギルドの人間に、このような態度をとれる人間は一種類しかいない。
「も、もしかして、アーガンソン商か……」
「わかってんじゃねぇか!」
男が言い切る前にかぶせるように蹴りと女の罵声が飛んできた。『わかってた』訳では当然ないのだが、そんなことを言える人間もやっぱりいない。
「だったら、なんでお前らウチの人間に手ぇ出してんだよ」
女が後ろを顎でシャクった。
罵声を浴びせられている男だけではなく、後ろにいる仲間たちも、その女の言葉に青ざめる。
「ま、まさか、あのガキどもはアーガンソン商会の?」
男は体温が低くなっていくのを感じながら、どうか自分の予想が外れているようにと願い、視線を血溜まりの中に倒れている子どもたちの方に向けた。
「はぁ!? 寝ぼけてんのか、テメェはよぉ!」
的外れな不正解への罰として、また蹴りが飛んできた。同じ所にだ。細い女の脚に蹴られても物理的な衝撃はないが、これはそういう目的のものではない。
「は? え? あ! あ、っち!?」
男がホッとしたような、それでいて焦ったように紫の霧に覆われている場所を見た。
後から現れた白髮の子どもと、汚い金髪の痩せた男を思い出す。
そして、さらに新たに向こうに現れた二人組もアーガンソン商会の人間なのだろう。
つまり、ここにいるのは、殺された少女とその連れで気を失って倒れている二人の子供以外は、盗賊ギルドとアーガンソン商会のどちらかの陣営に所属している人間しかいないというわけだ。
「そうだよ! 見てっわかんねぇのかよ!! やんのかコラ!!!」
女の声のボリュームがどんどん大きくなっていく。だが後ろに控えている黒服たちは背を向けたままピクリとも動かない。
「やりません!」
男は必死に、涙声になりながら、女に釈明する。もはや虚勢をはる気もなかった。
このサウスギルベナにおける絶対的狂者。物理的な強者。
盗賊ギルドが十五年前に掲げた新しい掟。新しい生存の術。
それは『アーガンソン商会の人間には手を出すな』というシンプルなもの。
補足するなら、絶対にという文言か、どんな理由があろうとも、ということぐらいだ。
女が目を向いて、男を下から覗き込むように睨む。いわゆる『ガンつけ』だ。
「だったらなんでアイツラはウチの人間襲ってんだよ?、な? おい?」
「と、止めます! すぐに止めます! おい! お前ら行くぞ!」
「行け! グズ共! タラタラしてるとぶっ殺すゾ!!」
女がトドメとばかりに男のケツを蹴っ飛ばした。
盗賊ギルドの構成員たちが全員、転げるように前に走って行く。
焦っていると碌な事にはならない。
ご多分に漏れず、この場合もそうだった。
盗賊ギルドの長は三人の殺人鬼を、殺し屋として飼っていた。
そしてこの五人の盗賊ギルドの人間は、長の命令で彼ら三人の管理を任されている。
だからゴンズレイやディガンのように、娼館勤めのエドやナイジェルの人相を知っていたわけではない。
これは間違いではあるが、致命的ではないし、致し方ない部分もある。同じ組織内であろうと情報の共有がすべて行われているわけではない。非合法組織なら尚更だ。
けれど、彼らが不用意に、三人の殺人鬼、殺氏家結末の背後から駆け寄ったのは、今までこの殺人鬼たちを管理してきた者として、致し方無いとはいえないし、致命的間違いだった。
彼らは殺人鬼であって、職業的な殺人者である殺し屋と呼び名を変えても本質が変わるわけではない。
三人は眼前に現れた、本能的に感じる強力な敵を目の前にして、その性質が、己の射程距離に背後から不用意に駆けて来た人間をどうするかなど、自明すぎる。
三人の殺人鬼は近づいてきた五人を、三方でそれぞれ、意識もせず、つまり当然呵責もせず、過不足なく、つまり楽しみもせず、喰いもせず、犯しもせず、バラバラにもせず、首を刎ねた。
それぞれ三人が、それぞれ違う得物を使い。同じように首を狩る。
ボトボトと腐り堕ちるように、地面に落ちた五個の首に意識を向けずに、殺し屋三人は、三方それぞれに新たに現れた敵に目を向ける。
グルーエフとゼフ、二人の殺人鬼は、三人の敵に向かい合った。
ヨランダは後ろを振り返り、四人の黒服の敵に向かい合った。
それまであった黒い衝動は消え去り、使命感に似た気体が体中を満たしている。
欲望による殺人ではなく、生存を賭けた殺し合い。
結果は同じでも、やることは殺害と生存。
だから、殺人鬼としての無造作になんでもないことのように殺す、という行為を真逆に変える。
人数では圧倒的に殺し屋、いまとなっては殺人鬼に戻った三人に不利な状況に変わった。
個々の実力においても、優っているかどうかの確証は持てない。
どうって殺すか、ということだけではなく、どうやって逃げるかということも考える必要があった。
「なーにしてんですかぁ。アヴリルさぁん」
交渉は決裂というより、決裂する交渉もない状態となった五人分の血溜まりを見て、アンジェが道の反対側に間の抜けた声を放り投げる。
返ってきたのは、
「うるせぇ! なんでアタイのせいになってんだよ!」
罵声だった。
「どーしますぅ、ジャック先輩?」
アンジェはお手上げとばかりに隣の若き黒魔術師に大げさに呆れてみせた。
「エドが倒れたのはあの女のせいで間違いないな?」
ジャックはナイジェルに確認する。ナイジェルはそれに頷いた。
「ああ、見てなかったのか?」
「ちょうどエドが倒れたところからだ。何をされた」
「女が……叫び声を上げて……それだけだ。それだけだと思う」
その答えにジャックは考えこむ間もなく、答えをだした。
「屍喰鬼の固有能力『絶叫』だな。ならエドの方は放っておいても生命に問題はない。アヴリル!」
ジャックは珍しく声を大きくして呼びかける。
「おうよ!」
「その女の叫び声には対象を恐怖によって麻痺させる効果がある! ただし、対象は一回につき一人。正面に立たなければ身体阻害を軽減できる」
それからアンジェに黙って、道化の肥満男、グルーエフを指さした。
つまり『アンジェの相手はあれだ』という意味だ。
「うぇ、本気ですかぁ?」
アンジェが嫌そうな声を上げたが、ジャックは無視してナイジェルに耳打ちする。
「俺達はあの犬面だ。道化の男から引き離すようにやる。無理はする必要はない」
「あのデブを、嬢ちゃん一人で大丈夫なのかよ?」
言いながらもナイジェル自身があまり心配はしていなかった。ジャックもそれには答えない。
このアンジェという少女メイドも、十分に人外の一人だったからだ。
灰魔術師の『目』を持つナイジェルが見て、気がつくほどには。
「なぁんかブヨブヨのキモ男で触りたくありませんねぇ」
言いながらもアンジェは無造作に近寄っていく。
グルーエフのほうでも鉈を持ち直して、近づいてくる少女を見定める。
「あんたは、巻き込まれない位置から援護を頼む」
ジャックは犬面の男に標的を絞りながら、距離を詰めようとはしなかった。
「こちらの人数が多いんだ。時間を掛けて削っていけばいい。捕らえる必要もないし無理をする必要もない」
その言葉に頷いて、ナイジェルは更に距離をあける。黒魔術師の若者と弓使いの灰魔術師の二人だ。近距離戦に旨味はない。
ジャックは懐からナイフを取り出す。刃渡りは二十センチほどだが、酷く必要以上に湾曲しているので拳より大きいくらいにしか見えない。それを構えもせずに力を抜いた感じで手に持って下げた。
対面する犬面の男、ゼフはそのナイフに一瞬目をやった。
そして自分の持っている粗末な錆のあるブロードソードを半円を描くように一度素振りした。
鍛錬なのか、異形の風貌の現す種族的な特徴なのか、鋼のように密度の高い筋肉がさらに硬化する。
アーガンソン商会の黒服の男達は、ジリジリと目の前の女、黒目の怪物に距離を詰めていく。
三人の男達が持つのは刃渡り五十センチほど、少し厚みのある剣。姿も装備も同じなせいか、顔立ちまで似て見える。それとも鍛錬した結果似たような雰囲気を醸しているのか。
三人も当然、ジャックがアヴリルに助言した言葉を聞いていた。
屍喰鬼の持つ麻痺効果のある咆哮をまともに食わぬように、重心を高めに持って、回避に重きを置いている。
後ろにいるアヴリルを前線に出す気はない。しかし、捨身で守るなどということもない。
おかしな話だが、自分たちの生命よりも後ろにいるアヴリルの生命は価値があるが、アヴリルの生命は目の前の標的の生命よりも価値があるわけではない。生かすか殺すかの違いがもちろんそこにあるのだが。
黒目の化け物、屍喰人のヨランダは姿勢を極端に低くして、もう少しで四つん這いになりそうな姿勢を保ち、ゆらゆらと身体を揺らして、黒服達を睨みつけている。
黒コート姿のアヴリルはポケットに両腕を突っ張るように突っ込んだまま顔を前に突き出して、三人の男を挟んで、そのヨランダを睨みつけていた。
ここにきて、ようやく状況は整いつつあった。
エドという六歳の少年の存在は、魔術の霧に包まれている通り、姿とともにここにいる大人たちの意識からも消え始めていた。血溜まりで気を失っているイザベラのことも、妹の首なし死体を目には映っても、理解はできず、呆けたようにへたり込んでいるアレルも、同様に彼らの意識からは消えつつあった。
無力な存在、瑣末な問題を排除して、単純化して事にあたるのは大人の知恵だ。
アーガンソン商会の連中は三人の殺人鬼をできれば殺す、できなければ追い払う。
殺氏家結末の連中は七人の敵をできれば殺す、できなければ逃げる。
目的ははっきりしてきた。
だけれども、事態はそんなことを許さなかった。単純化など許さなかった。
混沌はさらに混沌と進む。
その原因は誰にあったのか。
もしかして、霧の中で眠る少年の仕業だったのか?
屍喰人ヨランダが言うように、この少年は破滅をもたらす者だったのか。
それは彼らにはわからない。エドにだってもちろん知ったことでもない。
神様にしかわからない。