56 利益選択
よくよく考えてみれば、
世界の殆どのことは、だいたいが単純の繰り返しで出来ている。
世界の殆どは、劇的ではない、品の良い質素さでできている。
質素であることが品の良さを表現しているのであって、それ以外の部分で世界が品が良いかどうかは疑問であるが。
箱馬車が二人の盗賊ギルド幹部を乗せて走っていた。
盗賊ギルドの構成員であるディガンは、
世界の殆ど、今までの人生の殆どが、全てと言っていいほど実は単純な物事でできていたのに、それでも今聞いた事が理解できなかった。
単純だから理解できるわけでもないということか。単純でも納得の行かないことならそれこそ腐るほど見てきたから、それに異議を唱えるつもりはない。
「殺し屋の標的は、魔物じゃない?」
ディガンが箱馬車の対面に座るゴンズレイに聞き返す。
「最近、貧民街の方で意気がっている寄食どもの始末に長が駆り出したのだ」
小柄な老人は、いつもの愛想のよい笑顔ではない、皮肉めいた笑みを浮かべていた。
考えてみれば当然のことだ。
貧民街の南部地区に魔物が現れたと知ったのは、今から一時間ほど前。
長が殺し屋を放つ命令を下したとしても、それをゴンズレイが聞きつけ、ジガに交渉を持ちかけるというのは、時間がなさすぎる。
となれば、殺氏家結末の連中は、それよりも、魔物が発生する以前に解き放たれていたということだ。
「どうしてそんな嘘を」
ゴンズレイの狙いは分からない。
「商機があれば乗るのが商売人というものだろう?」
果たして、娼館経営が商人といえるのかどうかは知らないが、ゴンズレイの次の言葉を待つ。
「魔物の発生による混乱。殺し屋の標的とエドとかいう小僧が関係があること。この二つが重なった幸運を逃すわけにはいくまい?」
「わかりませんね? いったい何が狙いなんです? アーガンソン商会の逆鱗に触れればどうなるか、知らないわけじゃないでしょう」
ディガンの言っているのは十五年前のことだ。
先代の盗賊ギルド長が殺され、現在の長に変わったことを言っているのだ。
「ふん。だからこそ、だよ」
ゴンズレイはそれ以上言わなかった。しかしディガンは理由を推測するにはそれほど時間を要しなかった。
現在の盗賊ギルド長は 十五年前にアーガンソン商会が当時のギルド長を暗殺し後釜に据えた男だ。ただし、何かその男に適正があったとかではない。いなくなった地位に上手く、偶然に、座ったのが現在のギルド長だった。
アーガンソン商会がこの街にやってきた日、彼らはあっと言う間に盗賊ギルド長とその他の構成員をほぼ区別なく目につく限り暗殺して力の差を見せつけた。
にもかかわらず貧民街に手をだしてこなかったのは、単純にその場所に興味がなかったためである。アーガンソン商会が欲しかったのは市街地での商売と、港湾地域と鉱山の支配権のみだった。当時のギルド長がもう少し賢く交渉できる人間だったのなら殺されることもなかっただろう。彼らアーガンソン商会にとっては盗賊ギルドや貧民街の住民など人としてみなしていないのだ。もっとも別の意味でアーガンソン商会の連中だって人外なのだが。
だから、現在の盗賊ギルド長が、これまで三百年の歴代の長達とは違い、正当性があってなれた者ではない。非合法組織に正当性を求めることに違和感を思えるというのなら、それは組織統治というものを知らない人間だろう。その正当性に基づかない無い者がこれだけの大組織の頂点にいて良いはずはない。その正当性とは、アーガンソン商会がこの街の支配者の一人になってからは『金勘定』の能力があるかどうかだ。少なくともゴンズレイはそう思っているのは日々の言葉からわかっていた。
つまり、ゴンズレイはギルド長を認めていないのだ。偶然、偶々、運良く目の前に空いている椅子を発見しただけの男であると思っている。
この貧しい街で一番金を稼いでいる『事業』を行っているのがゴンズレイだ。だが、ゴンズレイの力の源泉である娼館は貧民街とは河の向岸にある。それだけに組織内での力がなかなか伸びない。金の力は偉大だが、何かきっかけが必要だった。
「小僧がソルヴにとってどの程度重要なのかはわからん。十五年前と同じことが『もう一度』起こってくれればいいんだが。もちろん危険もあるさ。まあ『ご注進』しておいたから、こちらには失敗しても危害は及ばないだろう」
「そりゃ、わかりますが、ならどうして嘘を言ったんです。正直に言えばいいでしょう」
「馬鹿な。それじゃ、儂らもアーガンソン商会からすれば同罪だ。本当にあの狂った殺人鬼どもが小僧を手にかけては困る。あくまでも危険であったという可能性があった程度でないとな。それこそ『もう一度』の中に儂らまで巻き込まれかねん」
「仰りたいことはわかりますが」
つまり、ゴンズレイの目的は現盗賊ギルド長一派とアーガンソン商会の潰し合いではなく、商会に恩を売ることが目的だということだ。その際に、十五年前の粛清が再び行われ、その後の後釜にゴンズレイが座るというのが一番良い結果なのだろうが。しかし、今回の事でそこまで上手くいくとは思ってはいないから、今後のために布石を打っておく、というわけだ。
「しかし、それなら貧民街に入っているという小僧が本当に殺されでもしたら不味いんじゃないですか?」
「だからそのための『ご注進』だし、この騒動だ。忘れているかもしれんが、娼館が河の此方側にあるということが大きな意味を持っている」
それに、とゴンズレイは続ける。
「まさか、小僧が殺し屋と鉢合わせするなんてことは可能性としてそうあることではないが、万が一を考えて、標的の寄食の人間には何人か金を握らしているし、娼館の人間もエドという小僧がいれば匿うように放ってある。そうなれば万々歳なんだがな。アーガンソン商会がギルド長とどうこうならずとも、大きな恩を売れる」
ディガンは、娼館の人間を動かしていることを娼館の現場責任者であるにもかかわらず知らなかった。だがそのことを特段不満にも思わないし、不思議なことではない。時系列的に思いついてからすぐに行動したのだし、目的が目的だけにおいそれと話を広めるわけにもいかない。結果を受け入れるのはディガンも含まれることを考えれば知っておきたかったが、それを期待するほど甘ちゃんでもない。事前に知っていれば、巻き込まれないように手をうっただろうから、ゴンズレイの判断は間違ってはいないだろう。盗賊ギルド構成員同士の信頼関係なんてあってないようなものだ。
「娼館が貧民街と河を挟んでいることに何の意味が?」
忘れていると言われたが、ディガンはまったく知らないことを言われているような感覚しか無い。
「三年前の事件を思い出せ」
ゴンズレイの言葉に、思い浮かべたのは『魔病の流行』だった。三年前の事件という言い方からしてそれしかないだろう。
「あの疫病がなにか?」
「おそらくこの街のもう一つの支配者が、ここで出てくる」
「オブリガン公爵家ですか? しかし、基本的に貴族は貧民街のことには非干渉でしょう」
そもそも貴族の連中の人数は盗賊ギルドの構成員と比べても極めて少ない。干渉しようにもその力は無いはずだ。彼らが担うのは表の統治機構のみ。もちろん戦時徴兵でも行えば街にいる男達を兵士として動員はできる。しかし、それを盗賊ギルドとの『戦争』に使うのはあまりにも非現実的だ。
「そうだ。それが儂らが河の向こう側で起こったことと無関係だという証明になる。そうはいってもあの連中にはそんなことは言い訳にならんかもしれん。だからこそワザワザ『ご注進』に行ったんだが」
「かもしれません」
アーガンソン商会も人数は少ないが此方は人外の連中だ。しかし彼らは先程の通り興味が無い。
これは、いいこともあれば、悪いこともある。アーガンソン商会にとって、貧民街のことなどどうでもいいことに違いない。ワザワザ誰がどういう関係にあるかなど気にしないだろう。その逆鱗に触れれば、片っ端から皆殺しという事もありえる。ならば物理的に貧民街とは一線を画している娼館の位置取りは有利に働くかもしれない。
十五年前の粛清にしても、その後の事も、誰だったからどうという区別をしたわけではない。生き残った人間がアーガンソン商会に頭を垂れ、彼らの市街地での商行為を邪魔をしなかったから今も盗賊ギルドは続いている。そして頭を垂れる人間になるまで、殺し続けた結果が今の盗賊ギルド長だ。
このことは、ゴンズレイの小細工が何の意味も持たないかもしれないということだが、逆に今、ゴンズレイが盗賊ギルド内でどういう立ち位置にいるかどうか関係なく、次の長にしてもらえる可能性があるということだ。
しかしまずは当面の疑問について確かめなければならない。
「オブリガン公爵家がいったい何をするのですか?」
いくら思い出そうとしても、今回の件にどうオヴリガン公爵家が絡んでくるのか分からず素直に尋ねる。
ゴンズレイは、フンと小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。ディガンとしてはやはりそれをイチイチ気にしたりはしない。いや、別の意味で気にしていた。この老人は建前を曰いながら人を地獄に貶すことができるのが強みだ。そうやってのし上がってきたのである。だが、この魔物騒ぎが起こってから本音が垣間見えるようになってきた。
それは付き従う(という形になる)ディガンとしては、気がかりなところだった。泥船に変わり始めたのではないかと心の片隅で思う。もちろん気にし過ぎなのだろう。そしてそれが大した問題では無いだろうが、現在のギルド長をどれだけ気に入らないか、そしてこれまでの邪魔者と同じように引きずり落とすチャンスだと、この老人が考えているかという証明であることは間違いない。
「三年前、魔病が起こったのは市民街だった。そしてその後帝国政府とオヴリガン公爵家によって行われたのが、自由移動の制限だ」
「自由移動?」
「ギルベナ地方から他地方への通行が禁止された。オヴリガン公爵家によってサウスギルベナと村々への移動が禁止された」
そして、とゴンズレイは歳に似合わない、そしてこの老人には珍しい脂ぎった野獣のような欲を露わにした顔をした。
「サウスギルベナ内では外出禁止令が出された。そもそも発生源は市民街の飯屋からだったがその後に行われたのは貧民街の封鎖だ。正確には娼館沿いに流れている用水路から市民街に貧民街の住民が入り込んでくるのを実力で阻止したんだがな」
それがゴンズレイがジガに話した、『こちら側』と『あちら側』という意味だった。
「娼館が『こちら側』にあるかぎり、貧民街で起こったことからはある程度儂らは無関係だったという言い訳になる」
それはそうだろうなと、ディガンも同意する。それ故に娼館経営者であるゴンズレイは盗賊ギルド一番の『商人』でありながら、ギルド内で今ひとつ力を持てないというデメリットを負っているのだ。それが今回はメリットに働くというだけの話だ。ただ、そのメリットがどの程度効果があるのか疑問なところだが。
ディガンの沈黙でソレが伝わったのか、ゴンズレイは枯れた喉を一息入れて湿らせると、補足を続ける。
「もちろん、あのエドとかいう小僧に何かあれば、その後の『粛清』がどこまで広がるかは儂にもわからない。だから、少なくともあの小僧の現在地は補足して危険から遠ざける必要はある。そのための対処はさっき言ったな」
その方法とは、街に放った娼館の手のものや、金を握らせている貧民街の『寄食』の連中のことだろう。
「しかし、その連中が見つけたとして魔物があふれている貧民街から助け出せますか? 市民街への道はオヴリガン公爵家に封鎖されているんでしょう?」
そして街の外までは、距離的に遠い上に、魔物がいる危険な地域だ。
恐らく貧民街の連中や娼館の者を動かしているのは、金で釣っているのだろう。それは危険な仕事をさせる動機にはなるが、逆に連携がとれなくなる。個々の実力で魔物から身を守ることのできる人間などほぼいないはずだ。
「ククク」
ゴンズレイは愉しそうに嗤った。まるで悪戯が成功した時のように。それはこの老人にはとても珍しい。やはりかなり興奮しているようだ。
「連中には小僧を見つけた時には、貧民街の倉庫へ連れてくるように言っている」
「倉庫? ああ、そういうことですか」
娼館と用水路を挟んだ貧民街の中に、距離的にはそれほど離れていない場所に、備品などと備蓄する倉庫を持っている。
貧民街の土地は都市内でありながら正式には誰の土地でもない。誰の土地でもないということは税を納める必要もない。だからゴンズレイは貧民街の中に貯蔵用の倉庫を持っているのである。治安の悪い貧民街だが、盗賊ギルドの所有物に手を出す馬鹿はいない。もちろん全くいないわけではないが。
その倉庫から、用水路の下を通って、娼館の地下へ続いている秘密の通路があるのだ。
知っているのは娼館関係者でもディガンとゴンズレイなど数人のみ。作ったのは随分前の娼館の経営者らしいが。これは娼館の経営者にのみ伝えられている非常時の脱出通路で、おそらく現在の盗賊ギルド長も知らないだろう。
「そこから小僧を逃がせるように手配はしている。だがまぁ、そんなことにはならんだろう。すでにアーガンソン商会へは『ご注進』したからな。あの連中にとってエドが価値のある存在だったならどんな手段を使っても探しだすだろう。だからこのことはあまり気に留める必要もない。どうしようもない部分もあるからな。だが儂らに最も利益をもたらすのは、やはり儂らが『こちら側』にいて、ギルド長達が『あちら側』の、しかも魔物の発生地にいることだ。そしてオヴリガン公爵家はその貧民街に蓋をして、そして事態の収拾のためにやはりアーガンソン商会の、あの人外連中に助力を依頼するだろうさ」
この街の支配者である三つの勢力。
オヴリガン公爵家、アーガンソン商会、盗賊ギルド。
その三者は互いの『領域』には無関心無関係な態度をとっている。
盗賊ギルドは貧民街の『治外法権』を認めてもらう代わりに、都市経済に必要不可欠な人的資源を安価に供給している。
オヴリガン公爵家は貧民街に盗賊ギルドがなければこの街の統治ができないことも分かっている。
だから、市民街に害を及ぼさない限り、貧民街のことは『見えていない』ことになっている。
アーガンソン商会はもっと単純に貧民街になど興味が無い。そんな場所と命などあろうがなかろうがどうでもいい。
おそらく、ほぼ確信的に、エドという僅か六歳の少年と貧民街の千人以上の命を天秤に乗せても、秤はピクリとも動かないはずだ。どちらに動かないかは言うまでもない。
そしてオヴリガン公爵家から事態の収拾の依頼を受け、エドという少年が貧民街にいるという情報を掴んだアーガンソン商会がどういう態度に出るかは、想像に難くない。
草むらに落ちた宝石を探すのに彼らがとういう手段に出るのか。
草むらに発生した鼠の大群がどういう行動に出るのか。
ゴンズレイたち『こちら側』の人間は、結果が出るまで楽しんで待てばいいというわけだ。
もしかしたら、明日にはこの街から三百年の歴史を持つ盗賊ギルドという組織は綺麗さっぱりなくなっているかもしれない。
その結果によっては、ぽっかりと『あちら側』に空白地ができるかもしれない。
その場所に誰が立つことになるのかは、それはもうゴンズレイにとっては言う必要もないことだと思っていた。
ゴンズレイはそれ以上話すこともないのか、黙った。ディガンも口を開かない。
だが、どちらかと言えば、ディガンは質問したいことが無いわけではない。
それよりも自身の中で考える必要があったからだ。
ゴンズレイを、いつ『裏切るか』ということについてだ。
ディガンは悪い人間ではないと自分のことを思っている。
もちろん盗賊ギルドの幹部にしてはだが、もっとも大きい理由は、自身がそれほど欲が強い人間ではないと自覚していることだ。
盗賊ギルドの構成員になったのは、それ以外に生きる術がなかったからだ。
欲が深くはないからこそ、ゴンズレイのような男に重用され、それほど大きな望みなど持たずに裏方の仕事をこなしてこれた。
別にディガンはそんな自分のことをサウスギルベナの盗賊ギルドの中で珍しい存在だとは思わない。
ここは帝国で最も低い位置にある街だ。
望まずに非合法組織で生きることになった者など、自分以外にもたくさんいるだろう。
慈愛と自愛のどちらが大きいかについては疑問の余地もないが。
そもそも前者に満ち溢れた、善人などこの場所で生きているわけがないのだからしょうがない。
そこそこでいいのだ。
ディガンはそこそこ金を稼いで、そこそこ汚れ、そこそこの人生を歩めればいいと思っていた。
それだって、この場所ではかなり幸運なのだろうが、こんな場所に貶された不幸を考えればそれくらいが過不足ない望みだと思っている。
だから、
ディガンはゴンズレイの目論見が、上手くいこうがいこまいが、そろそろ見切りをつける頃合いだと思った。そんなに上手くいくものでもないという思いもある。
もちろん『裏切る』といっても、ディガンはゴンズレイを何か貶めようという気はない。
そんな危険を犯す気などない。
ゴンズレイがどんな酷い人間かも、自分にとっては無関心な事柄だった。生理的な嫌悪感もない。自分に不幸さえもってこなければそれでいい。
そんな人間だからこそ、ゴンズレイは自分を片腕にしているのだろう。
自然とこの場から無関係な場に逃げられる方法はないだろうか。
ディガンは考える。
どのような逃げ道を探るにしても、盗賊ギルド以外の人間が必要だと。