55 小さな一歩
「貧民街で騒ぎ?」
クレオリア・オヴリガンはナタリーの家、つまりアーガンソン商会総帥ソルヴ・アーガンソンの邸宅でその知らせを聞いた。邸宅内の工房から戻ると、騒がしい屋内に怪訝に思ったクレオリアとナタリー達。理由を尋ねに行った侍女のミラはすぐに帰ってきて、貧民街で騒ぎが起こったためだと告げた。
「それはどこの情報。確かなの?」
クレオリアが尋ね返すと、ミラは首を傾げている。
「確かなのかどうかは分かりませんが、私達にも外出しないように通達がありましたし、警備部の人間も戒厳令へ備えて準備しているようです」
「外出禁止? 戒厳令?」
ずいぶん物騒な単語が出てきた。
「市街地の様子は? 安全なの?」
矢継ぎ早に尋ねるが、どれも満足のいく答えはえられなかった。
「誰ならわかるの?」
「ええっと」
ミラが言い淀んでいると、執事の様な格好をした男がやってきた。
「ああ、チャーベリンさん」
ミラがほっとした顔を見せる。
チャーベリンと呼ばれたのは加齢による白髪をオールバックにした背の高い男だった。
古式礼服を着ているし、その背筋の無駄に良い所と家の規模を考えると家令の類だろう。
クレオリアの家にもゲコウという執事がいる。あれも同じような雰囲気があるが、あちらは同音異義のバトラーというか正真正銘の守護者だ。
まるでレールがあるように滑らかに寄ってきて、ピタリと止まる。軽くだが、きっちりと折り目よく頭を下げると、すぐにクレオリアの元に片膝をついて、視線を合わせてきた。
「クレオリア様。当家の執事、チャーベリンでございます」
「うん。訊きたいことはわかっていますね?」
六歳児の少女は自分の何倍も生きているだろう男に臆することなく、また礼賛のやりとりも求めずにすぐに自分の知りたいことをしっかりとした口調で尋ねた。
自分の家であり、もちろんチャーベリンのことをよく知っているナタリーはそのことに気がついていないが、後ろに下がったミラは目を剥いていた。
領主オヴリガン家は公爵家ではあるが、実質は辺境の街にいる貧乏貴族だ。おそらく豊かさだはミラの家、つまり使用人であるウォルコット家とそうかわりはないはずである。
にもかかわらず貴族というものは、こんな小さい頃から、上に立つ人間としての態度をとれるものなのだろうか? それともこれも神童たる所以なのか。
尋ねられたチャーベリンのほうはそんな幼女の態度に顔色一つ変えるでもなく、しっかりと頷いてみせた。
「はい。ただいまオヴリガン公爵家より都市緊急事態宣言の発令がありました。それによる都市住民の移動などあらゆる面での制限が行われることになります。、それに伴う人的、物的資源の徴用する旨が当家に御座いました。少し難しい言葉ですが、どういう意味かと申しますと……」
六歳児にもわかるように、言い直そうとした家令の言葉をクレオリアは小さな手を上げるだけで黙らせる。
「騒ぎというのは?」
「……貧民街の奥で魔物が発生したようです。詳しい規模は分かっていません。ですが戒厳令がでたといってもここは心配ないでしょう。公爵家、実際は補佐官殿ですが、貧民街との境にある用水路にて防衛線を引くことになるらしいので、魔物も人もそこで食い止めることができます」
位置的なことで言うと、アーガンソン邸はサウスギルベナの西部地区の最西端の山手にあり、貧民街は北東部から中東部に斜めに細くある地区だ。街の中では一番安全だろう。逆にオヴリガン邸は市街地中央地区の南にあり、貧民街に比較的近い。実際今回の魔物の発生源は貧民街の南地区であり、ここから斜めに南下すればオヴリガン公爵邸がある。クレオリアと家族ぐるみの付き合いのある鍛冶師、シクロップ家は娼館のある場所、つまり貧民街と市街地の境界線のある河川からそれほど離れていない。
「ご家族の皆様のことでしたら、公爵家には当然情報が一番早く行っているでしょう。安全なところに逃げる時間は十分にあるはずです」
チャーベリンが安心させるように柔らかい言葉で言ったが、クレオリアは興味を示さなかった。
実家に関しては心配はしていなかったからだ。
オヴリガン公爵家の邸宅は、三百年前にセドリックが強力な結界を張っている。騒動が魔物の類なら家にいる限り安全だろう。
シクロップ家にしても、あの家族はヘタな軍人よりも強いし、しぶとい。
それよりも、だ。
「エドゥアルド・ウォルコットは最近貧民街に出入りしていると聞きました」
「……?」
いきなり出てきた名前にさすがのチャーベリンも怪訝な顔をする。
「この家の使用人である、エドゥアルドの身の安全は確認できているのですかと、聞いているのです」
「エドゥアルド、ですか? 姫様に心配していただくことはございません。あれには師弟関係にあるものがついておりますから、適切な行動をとっているでしょう」
「師弟関係?」
「私もよくは存じていませんが、エドゥアルドは魔術師の修行をしていたはずです」
「フゥン」
すぐに興味を失ったように、クレオリアは考えこんでいる。
「いかがなさいましたか」
チャーベリンの問や、ナタリーの心配そうな顔には目を向けずに、じっと自分の内側にある違和感に目を向ける。
なんだこれは?
そう思えるくらいに、クレオリアは具現化した『異湧感』に戸惑いを覚える。
きっかけは貧民街での騒動を聞いて、そこにエドがいるかもしれないという可能性に思い至ったことだった。
少し前、あの工房で、ドワーフを見かけた時の感じに近いが、それとは近いだけで圧倒的に違う。
あのドワーフから感じたものが靄のような霧のようなものだとすれば、こっちは異物感だ。
エドの意識して、貧民街にいるかもしれないと思った途端に感じた違和感。
いや、確信。
エドはいる。貧民街に。貧民街にいるかどうかは知らない。エドのいる場所が、なんとなく、距離感のようなものが感じ取れる。なんとなくいる方角がわかる。
魔法的なものだろうか?
気のせいということはない。それほどこの違和感は存在感がある。
発動条件はなんだ?
クレオリア発信で、エドを意識したことというなら、この六年間のもっと前にあってもいいはずの感覚だ。
誰かが、六年前にセドリックがエドに術をかけたように、遠隔地からの魔術か?
しかし、かけられた覚えもないし、効果の意味もわからない。
そもそも魔術的なものではない気がする。
もっとカンのような、感覚的なもののような。しかしそれにしては確信に近く、物理的な存在に思えるほど確かな違和感。
「まったく煩わしいことね」
考えてもこれ以上は分からないし、感覚が具体的になることもなさそうだ。
「家に帰ります」
きっぱりとした言葉に、チャーベリンはそれを契機に立ち上がった。
「この屋敷にいて動かないほうがよいかと思いますが」
「結構よ。家にはそれなりの備えがあるから心配はいらないわ。それより母を心配させないためにも帰ります」
「……かしこまりました。すぐに馬車の用意をいたします。公爵邸までの道順は丘裾に沿って南港への道を通り、そこから東に向かう迂回路を通るように申し付けておきます。ただし異変が確認された場合はすぐにその場で馬車を当家まで戻すことをご了承ください」
「ええ。ありがとう」
クレオリアは執事から顔を、ナタリーへと向け、その手を両手で握った。
「ナタリー今日はとても有意義な時間を過ごさせてもらったわ。こんな風に急いで帰ることになってしまって申し訳ないけれど、また機会を設けて、次は約束通り私の屋敷に招待するわね」
今まで会話の蚊帳の外に置かれていたナタリーは突然美少女に手を握られたことと招待されたことに顔を赤らめながら頷いている。
クレオリアはナタリーの気分がそれほど害していないことに安心して、頭の中で冷静に計画を練る。油断できないチャーベリンが馬車の手配に立ち去ったのを確認してから、ミラの方に向いた。
「ちょっといい?」
ナタリーの手を抱えたまま声をかける。それは「はい!」と驚いた、というより怖がっているかのように返事に聞こえた。ミラからすれば、六歳児にしては『しっかり』しすぎなクレオリアに不気味なものを感じていた。弟達二人も頭はいいが、これほどの威圧感はない。そもそも六歳児から威圧感など感じることは無いはずなのだ。
「出発前に、そうね、食堂に案内してくれる?」
「し、食堂ですか?」
これまた意外な申し出に聞き返すが、クレオリアはもうミラの方を向いてはいなかった。
「少し、出発までの間にお水でもいただこうかとおもったの」
「ノドがかわいたのですか?」
キョトンとしてナタリーが見上げてくる。クレオリアはにっこりとナタリーに笑顔で返事をする。
「えぇ?」
その笑顔にナタリーは魅了の魔術でもかけられたようになって、それ以上問う言葉を失っていた。
「喉が渇いたのでしたら、ここまでお持ちしますが」
さすがに訓練を受け、少し大人で、少し離れているミラは、内心歓心してその美貌を見ていたが、表面上にはそれを出さずに言葉を挟む。クレオリアはナタリーに笑顔を相変わらずむけたまま答える。
「いえ、少し食堂に興味があったから、帰る前に覗かせてもらえないかしら」
「ちゅう房にはプラムがいます」
勢い込んで教えてくれるナタリーに、クレオリアは整った眉をクイッと動かして頷く。
「なら尚更、帰る前に挨拶しなきゃね」
公爵令嬢はこの後、アーガンソン邸を後にした。言った通り食堂と厨房を見学してから。
ナタリーにとっては、街で起こっている大問題のことなど理解できるはずもなく、彼女は夢の様な時間を過ごした。
とどこおりなく、問題なく、大成功に、『お友達』をおもてなしできたと満足していた。
美しい公爵令嬢が、まるでというよりそのものというような、神々しいまでの笑顔をしてくれたのを見て、そこに疑いももたなかった。
異変を、というより、その事象に気がついたのは、公爵令嬢と最後に出会い、少しだけ言葉を交わした少女だった。八歳の、厨房見習いの、オレンジのような茶色い髪をボブにした、少女だ。
「あれ?」
という言葉にもわかるように、それは異変というより、間違い探しほどの小さな違いだった。
「……」
厨房の責任者、上司で無口な料理人、ドラミニクがそれに気がついて、黙って少女の方を見る。
プラムはもう一度、確かめるように、厨房の、金属製の調理台の上に置かれていた、洗浄済みの食器入れを覗き込み、数を数えた。
ない。
やっぱり、たしかに、少し前まであったはずの、ナイフとフォークが一組、なくなっていた。
無いはずが無いのなら、それはどこかにあるはずだ。
魔術的なことで次元を飛んでその場から消えても、物理的な化学反応によって姿を変えても、その存在がなくなることはない。
そして、この世の、現実のほとんどのことは、そんな小難しいことを考えなくたって、小さく単純なことが積み重なってできているのだ。
つまり、人は腹が減ったら、食べるのだし、薪は寒いから燃やすのだが、そのために目の前にあったものを食べるだろう。目の前の暖炉を使うだろう。一番簡単で、一番しんどくなくて、めんどくさくない方法をとるだろう。
厨房にあったナイフとフォークが無くなったのなら、それは誰かが持っていったのだ。
持ちだしたのは単純にプラムが洗って置いた後から、無くなったことに気がつくまでの間にその場にいた者だ。
単純にズボンの腰に挟んで持ちだしたのだし、誰も気が付かなかったのは単純に誰の目も盗んで、誰にも断らずに持ちだしたからだ。
そうでなければ、他の可能性があったとしても、それは単純にプラムの勘違いだろう。
そういう単純なものだ。卑金属製のナイフとフォークにまつわる物語なんてそれで十分だ。
「さてと」
クレオリアは箱馬車の中から、座席に座ったまま、御者台の方を見上げる。
箱馬車の中は朱色の布で覆われており、進行方向側には覗き窓がついている。そこからは二人の男が御者台に座っているのが見えた。
クレオリアは男たちの様子を見てから、それに向かって声をかける。男の一人、手綱を握っていない方の男が首を曲げて視線を向けてきた。
「屋敷に着くまでは寝ているので、着いたら起こしてください」
男が返事をすると、クレオリアは覗き窓についている、これまた朱色のカーテンを閉じた。
これで屋敷に馬車が着くまでは、声をかけられることもないし、覗かれることもないだろう。
男が二人いるのはネックだが、街の状態を考えれば、御者一人だけというわけにもいかないのだろう。
やはり出来る執事というのも、時には問題ね。
クレオリアは自分の家にいる、この六年間外出をさせなかった執事のことと合わせて呟いた。
すぐに、そんなことはともかくと、行動にとりかかる。
あまりグズグズしていると、南に行き過ぎることになって面倒だ。
クレオリアが行ったことのある、オヴリガン邸の外で、位置が掴めているのはお勉強教室が開かれている教会の分所とシクロップ家のみ。
まずは教会の分所を目指して西に向かい、そこから少し斜めに上がっていけばシクロップ家だ。そこまでいけば貧民街まではすぐそこである。
確かタンガンおじ様が近くに娼館があるって言ってたわね。
以前に聞いた、シクロップ家の当主の言葉を思い出して貧民街までのルートを定める。
貧民街は最東端に位置しているので、西の端であるここからなら、東に進めばいいだけだ。しかしクレオリアの中にある『異湧感』の位置、現実的な尺度など無いはずの距離感からすると、あまり南に行き過ぎると離れてしまう。この感覚に従えば、アーガンソン邸の正門からまっすぐ西に進むのが一番近かったはずだ。
ということは、一刻も早く行動しなければ、どんどん離れていく。オブリガン公爵邸まで行けば直線距離としては違わないのだろうが、いったんオブリガン公爵邸の中に入ってしまえば、公爵家の執事ゲコウの監視下に入ってしまう。そうなると出歩くなんて不可能だ。
クレオリアは服の裾をまくり上げた。
白い綺麗な肌と臍が見えて、同時にズボンの腰紐に挟んであったナイフとフォークが姿を現す。
クレオリアは箱馬車の扉に身体を寄せると、隙間を覗く。
そして、ナイフだけを取り出した。
箱馬車は安全のために内側からは開けられないように鈎がかけてある。
鈎と言っても、錠前の類などではなく、引っ掛けてあるだけのものだし、乱暴にすればフックを壊して開けることもできるが、当然そんなことをすれば御者台の男たちに気が付かれるだろう。
クレオリアはそっとナイフを隙間に差し込むと、鈎のフックを持ち上げて外す。その際に風や振動で扉が開かないように押さえておくのも忘れなかった。
そして、そのままゆっくりと扉を開いてゆき、そして外の光を見て、ニヤリと笑った。
さすがアーガンソン家。
扉は軋みもしなかったし、飛び降りられるくらいにはゆっくりと進んでくれていた。
「……返したほうがいいか」
ナイフを腰紐に再び挟もうとしてから少し考え、フォークも一緒に馬車のシートに置いてゆく。
そうするとフォークは持ってくる必要なんてなかったのだが、なんとなく掴んで持ってきてしまった。
そのナイフとフォークを音が鳴らないようにクッションの間に挟んでおいた。
こんなものでも持っていけば何か役に立つかもしれないが、腰紐に挟んだままではこれからの行動を考えると邪魔になるだけだ。
それからすぐにクレオリアは身体を滑り込ませるように、可能な限り細く扉を開けて、そこに自分の体を通して外に出た。
車体の出っ張りに足と指を引っ掛けて、馬車に捕まる。片手を離すとそっと外した鈎のフックを戻して元通り扉を閉じた。
チラリと御者台の方を見たが、死角になっていて、見えない。
この世界の馬車には車と違ってバックミラーもサイドミラーもない。音だけに気をつけて箱馬車の後ろにゆっくりと移動した。
箱馬車の後部に捕まってタイミングを計る。
そこから少しだけ顔を覗かせて、進行方向に目を向けた。
二頭立ての箱馬車、それをひく馬の姿が見える。
引っ張る馬は当然、箱馬車よりも前に位置している。
だから、馬を見ていれば、クレオリアに進む道順を教えてくれた。
馬が角を曲がる。
クレオリアはそれを確認して顔を引っ込めた。
箱馬車の車体が遅れて曲がり角に差し掛かる。
クレオリアは一度だけ大きく息を吸った。そして躊躇することなく飛び降りた。
地面を転がるように前転して手と足と肩を使って音を立てないように受け身をとる。
そんなことをしなくても静かに降りる方法を彼女は持っていたが、その時は体を上手く操ることで同様の結果を得た。その方法を使えば、砂埃で汚れる必要もなかったが、彼女は気にしなかったし、その方法を使えることを忘れていた。大体音や気配のことを考えるとこれがベストの選択だろう。
それに舗装されておらず、速度もそれほど早足ではなかったために痛くはなかった。
クレオリアはすぐに立ち上がると、まわりの状況を確認すると歩き出した。
身体の中にある『異湧感』に従って。
クレオリア・オブリガンはこうして、生まれて初めて、六年の月日を経て、ようやく、本当の意味で外の世界に、異世界へと足を踏み出したのである。