昨日と違う新宿
第三章 昨日と違う新宿
美代子が立っていたのを、石館義男はたしかに見た。
彼の家のリビング、少し暗がりになったすみに、さみしそうに彼女は一人で立っていたのである。
そして美代子は一言、「お父さん・・・」とつぶやいて消えてしまった。
義男は美代子の姿を見てから動けなくなってしまい、その場に固まってしまっていた。
あの子が、美代子が、今、死んだ。死んでしまった・・・。
その確信が心と体をつらぬき、義男は立ち尽くす以外になにもできなかったのである。
日曜日、学校は休み。
一人娘の美代子は、朝からやけにそわそわしているなと思っていたら、ふいっと出かけて行った。
彼女の背に「どこに行く?」と声をかけたら、「新宿!」という、少し怒ったような短い返事があった。
男ができたかな・・・。
軽いため息がでた。
あんなにおしゃれをしてまで会いたい相手というものを、父親として知っておきたいとも思った。
本当のところは、美代子は買ったばかりの服を着てただ街に出ようと思っただけで、その後に哲也たちと出逢ったのも偶然にすぎなかったが、年ごろの娘をもつ父親にそんな想像はできない。
義男の目から見える美代子は、美人で気立てのよい、非の打ちどころがない娘だ。親の欲目が入っていることは自覚していたが、それでも彼は美代子を誇りに思っていた。
妻を早くに亡くし、美代子を男手一つで育ててきた。彼女は母親のいないさみしさなど少しも見せず、いつも明るく笑っていてくれた。
まぁ、美代子はきょくたんな負けずぎらいで、その性格から、他人に対して芝居がかった態度をとってしまいがちなことは知ってはいた。しかしこれも、自分の弱さを人に気づかれまいとする、彼女の懸命さのあらわれにすぎない。
悪い男に引っかかりさえしなければ、あの子はいい嫁さんになれるだろう。
義男はそう自信をもっていた。
それだけに、彼女が汚い男の手に落ちるようなことはゆるせない。美代子の目を信用したいが、彼女もまだ若い。恋に盲目になってしまっているかもしれない。
やはりここは、自分がフォローすべきだ。
義男はそう考え、娘へ心でわびながら、美代子の部屋へはいった。
彼女が会いに行った男の名前と住所がわかれば、後でこっそり調べるつもりだった。
彼は自分の行動がおかしいとわかってはいた。
すでに大学生になっている娘の男友達の人物調査をしようとしているのである。人によっては義男の精神を疑うかもしれない。
しかし彼はもう、美代子の泣き顔を見たくはなかった。母親が病死した時の、幼かった彼女の顔が忘れられない。その時の声が忘れられないのだ。
そして彼はみた。美代子の机の上にあった哲也の写真を。
クラスメートなのか、数人の若い男女といっしょにうつった写真ではあったが、義男は父親の直感で、娘の意中の人がどれなのかすぐにわかった。
けっきょく、その場では顔しか知ることができなかったが、外見はなかなかの好青年風だったので、ひとまず安心したのである。
その、あの子が、新宿で、死んだ。
「お父さん」
美代子のさみしげな瞳と声が、義男の心によみがえる。
「しかたない子だな」
彼はずっと体を動かせないでいた。このまま娘の後を追おうとも思っていた。だが、どうせ死ぬのなら、せめて美代子の近くでと考え直した。
「一人ぼっちじゃ、わびしいってもんだよな。お互いにさ」
義男は顔を上げた。その表情は穏やかで、どこか修行をつんだ行者を思わせる。
そして数十分後、右手に猟銃をもち、背中に大きめのナップザックをかついで、彼は自宅からでてきた。
銃を見る。
義男は会社員のかたわら、ハンターライセンスをもつプロのハンターでもあった。
その銃は上下二連装式で、三十年近く前に製造されたものだ。型は古いが整備は良好で、散弾式の銃弾も八発見つけてある。
できれば、コイツをつかう場面には合いたくないものだ。
彼は思った。
だが、この先なにがあるがわからない。美代子のもとへたどり着く前に、自分が倒れてしまっては意味がない。やはり銃は必要だろう。
義男は歩き出した。
目指すは新宿である。
樹海の底と化し、光の届かなくなった地上に、どこからか木の倒れる音がひびく。昨日までなかったはずの巨木群には、表面にコケが生えているものまでいた。
まるで今までの日常など最初からなかったかのように、植物たちはそこに堂々と存在している。
義男はふり返った。
その先には、倒木が何重にもおりかさなって破壊された、彼の家がある。
不思議と彼のいたリビングだけは無事で、義男やそこの壁にかけてあった銃には傷一つなかったが、もはや家としての原型はとどめていなかった。
美代子が守ってくれたのだろう。
自然とそう思った。
「行くぞ、美代子。けっしてお前を一人にはさせん」
顔をもとに戻す。
彼の前には、すきまなく生えている木々によってズタズタにされた道と、気温も湿度も異常に高いという現状があった。
しかも、娘が眠るのは新宿のどこなのかも知らない。
それでも義男は、自分が美代子とであえると確信していた。いや、そういった疑いすらもっていなかった。
そんな疑問が入り込む余地が、今の彼にはなかったのである。
デパートを脱出した命と哲也の二人は、眼前の景色を見て、しばし呆然自失していた。
しかし、彼らは建物からはでることができたが、まだ五階分の高さの空中にいるし、背後の火災も鎮火したわけではない。その証拠に、彼らがでてきた壁のさけ目からは、熱風がふき出してきている。
まだ二人は危機の中にあった。のんきにぼ〜っとしていられるヒマなどない。
最初にそういう自分たちの立場に気づいたのは、やはり哲也であった。
まず彼は、自分が立っている場所について確認する。
そこは、デパートにむかって斜めに倒れた、巨大なイチョウの枝の上であった。
さっき彼らがのぼっていた部分も、この枝の一部にすぎなかった。その太さや大きさから木の幹とばかり思っていたが、そうではなかったのである。
上に目を向ければ、まるで動画の早回しのように、木々がみるみる成長していく姿がある。次に下を見ると、あたかもジャングルジムのごとく、複雑かつ立体的にからみ合った巨木の群れがあった。
そしてやけに暑い。
今の気温と湿度は、日本の常識では考えられないほどのものであった。
哲也は赤道直下の国々に行った経験などなかったが、このサウナのような空気は、そういう所にこそふさわしいように思える。
地震のようなゆれと、大きな倒壊音の正体もわかった。これらは木が倒れておこす振動と音だったのである。
今、こうして見ている間にも、二三の木々が倒れ、まわりの木や建物を破壊している。ただの倒木とは言っても、倒れるのが常識はずれな巨木ばかりなので、その破壊力は並大抵ではない。二人が立っているイチョウも、こうして倒れた一本だと思われた。
しかし倒木の波は、じょじょにゆるやかになってきている。
これは密生していく森に倒木がからめとられているからと、すでに倒れた木々がクッションがわりになってショックを吸収しているからなのであろう。
「つまり、まずは下におりるべき、なんだろうな・・・」
そこまで観察して、哲也はそう考えた。
「大里先輩」
命をよぶ。しかし返事はない。
彼女の方に目を向けると、焦点が合ってない瞳をさまよわせ、猫背でぼ〜っと立っているだけの姿が見えた。
どうやら完全な思考停止状態らしい。目の前で手をひらひらさせても反応がない。
あまりにも非日常な光景を見ちゃったからかな?
そう思った彼は、ここはショック療法が必要だと判断した。命の耳を軽くひっぱり、そこへむかって力いっぱい叫ぶ。
「お、お、さ、と、せ、ん、ぱああーいっ!」
「うひゃあうういっ!」
言葉にならない悲鳴を上げる命。やっと意識がこちらの世界にもどってきたようだ。
「な、なになになに! なんなのこれぇっ! きゃあ! 暑い暑い! 高い高い! こわいよヤバいよ! これってなんなのよう・・・。こわいよう・・・」
いまさらパニックになる。
これはもしかしたら、しばらく前から本能のみで動いていたのかもしれないな。
少し疲れを感じる哲也であった。
「大里先輩。まずはここをはなれましょう。後ろから炎もせまっています。
安全な所に避難してから、今後について考えた方がいいはずです」
なんとか命をなだめた哲也は、自分の考えを伝えていた。
「うん。でも安全な所ってどこ?」
「まあ、今は下としか言いようがないですね。あれだけ太い枝がからみ合っているんですから、おりることは可能でしょう」
「でもさ、もし途中で木が動きだしちゃったら?」
「大丈夫でしょう。ほら、あそこを見てください」
彼は太陽の方を指さした。
そこでは太陽光を浴びた木々がうごめいている。だが、そのすぐ下、成長した枝や幹によって光をさえぎられた部分は、動く気配もない。
「どういう理由かわかりませんが、太陽の光のとどかない場所では木が動かないんですよ。だから、気をつけるべき危険は倒木のみとなります」
「へえ、言われてみればホントだ。私はぜんぜん気づけなかったよ」
「それじゃ行きましょうか。ここはもう危ないですよ」
言いながら哲也は一歩をふみ出した。
その瞬間、右足首に強い痛みを感じてしまった彼は、思わずよろけてしまった。
「危ない!」
枝から落ちそうになった哲也を、命が抱きとめる。
「大丈夫か? どうしたんだ?」
顔にださない哲也だが、命が足にさわると、びくっと小さく痙攣した。
「どこかでひねってしまったようですね。今までは痛みに気づいていなかったのでしょう」
その口調は、まるで他人事のようである。
「そう言えば、走ってた時もつらそうだったな」
「あの時は、ちょっと変かなていどだったのですが、今は少し痛いですね」
二人がそんな会話をしている間にも、炎は彼らの足場となっているイチョウを伝って、すぐそばまで近づいてきていた。
「いけない! 火が!」
「神野くん! また私につかまれ!」
「えっ・・・し、しかし・・・」
「迷ってるヒマなんかねぇんだろ! ほら! 早く!」
彼女は言いながら、哲也に背をむけてしゃがみこむ。
「・・・わかりました」
命はふたたび哲也を背負った。
「よっしゃ、行くぞ〜」
走り出すと、大学生の男子を背負っているとは思えないスピードで、木々を伝って移動する。
あまりほめ言葉にはならないが、その姿はさながら類人猿のようであった。
突然、バキバキバキという音が、頭の後ろあたりからひびいてきた。
恐れていた音を聞いた哲也は、急いでふり返る。
「先輩! 後ろ!」
彼は命の背中でさけんだ。
二人の頭上から、巨大なヒロハカツラが円形の葉をまき散らしながら、倒れてきていたのである。
ヒロハカツラは、まわりの木々や、その枝をへし折りつつ迫ってきた。
猛然と走り出す命。地上にむかうのを一時あきらめ、ヒロハカツラの影響圏から逃れるために全力疾走する。
だが、それでも轟音は背後から追いすがってきた。
せっぱ詰まった命は、手近にあったイイギリの木をのぼり始めた。無数にたれさがる赤い球形の実が、二人の顔に次々と当たる。
「せ、先輩!」
哲也は命の行動が理解できなかった。ここでなぜ木をのぼるのか。まっすぐ逃げた方が、絶対に早いのである。
しかし、次の命の動きは、哲也の予想を完全に超えていた。
イイギリの中腹あたりから伸びていた太い枝まで走った彼女は、その先端から思い切りよくジャンプしたのである。
もちろん、彼女の首にしがみついている哲也もろともに。
「だあああああああああっ!」
「わあああああああああっ!」
二人の叫びがきっちりとハモッていた。
信じられないことに、彼らは無事に地上におり立った。
ジャンプした次は落ちると誰もが思う。哲也だってそうだ。しかし、そうはならなかったのである。
命は、空中で伸びあがって跳ね、イイギリの隣にあったヒトツバタコの枝に着地。次にその枝も全力で駆けぬけ、さらに隣の木へとジャンプしたのだ。
彼女はこれを繰り返し、ついにヒロハカツラから逃れたのであった。
まるで二段ジャンプみたいなことを当たり前にやれるとは・・・。
空中で伸びあがった時の、彼女の腹筋と背筋の動きを間近で見た哲也は、その恐るべき身体能力に舌を巻いていた。
ところが、それを支えているはずの頭脳はどうなっているのかと言うと、正直、かなり不安があった。
「大里先輩、なんで木をのぼったのですか?」
地上に立った直後、彼は命にそう聞いてみたのである。
しかし「なんとなく」というのが、彼女の答えのすべてであった。
なんとなくで、助かったのか・・・。
深く考えると怖くなってきてしまいそうであった。
地上は薄闇の世界だった。
コンクリートやアスファルトはほとんど見えず、巨木が林立し、その一本一本が縄文杉級の大きさをほこっている。そしてさらに、木々の間のわずかなすき間にも、ベニシダやオオバコたちが、これまたヒマワリ級の巨大さで占領してしまっていた。
これら植物群が太陽光をさえぎり、送電がストップしているのか人工光もないので、ここは暗いのである。
「ここってさ、ホントに地上なの? あっちには、まだ下があるんだけど」
コノテガシワから伸びた枝の先に立った命が、斜め下をすかし見つつ哲也に尋ねてきた。
二人は垂直な断崖の端にいた。
彼女の視線の先には、底の見えない闇の谷が口を開いており、命が立つコノテガシワもその奥から伸びてきているらしく、根元が見えない。
「ええ。まちがいありません。
先輩が見ているのは、地下鉄や地下街の坑道なのでしょう。だからこれ以上おりてしまうと地中になってしまいますよ。
ほら、これがその証拠です」
言いながら哲也は、足元に落ちていた白地に赤い字が印刷された紙片を示す。人間の手のひらほどの大きさのそれには、新築という漢字が見てとれた。
「それは?」
「この厚みと軽さは、捨て看板の一部ですよ。たぶん、このあたりの不動産屋のものなんでしょうね。まわりにも、たくさんこういうものが落ちているんですが、これがあるということはつまり、ここが地上だということですよ」
命が見回すと、たしかに似たような破片がそこここに落ちていた。その一つには、テナント募集中という文字が読めるものもある。
捨て看板とは、よく電信柱などにくくりつけられている、長方形をした簡単な作りの看板のことである。以前はマンガ喫茶などの宣伝によく使われていたが、街の美観などの問題で、近年は不動産業者くらいしか使わなくなってきたものだ。そんなものが、思わぬところで役に立った。
「ああ、そんなことより、ほんとうに気をつけるべきは匂いですよ。先輩」
捨て看板の破片をしげしげと眺めていた命に、哲也が言った。
「匂い? なんで?」
「こんな状況じゃ、都市ガスがどこで漏れ出しているかわかりません。中には有害なものもありますし、火がついたり、果ては爆発に巻き込まれてしまうことも考えられますから」
ほんとうにこわいものは無味無臭なんだけどね。
こちらは声に出さない哲也であった。
「あっ、そうなんだ! うん。わかった。気をつけるよ」
いったん素直にうなずきながら、そのあと命は、うつむいて黙り込んでしまった。
「どうしました?」
哲也が様子をうかがうと、真剣なまなざしで見つめ返してきた。
「ねえ・・・。匂いだとか、爆発だとかさ、現実なの? これ・・・。この木とかもさ」
哲也の言葉に納得はできた。だが、もちろんそれで頭に浮かぶ疑問のすべてがなくなったわけではない。
ひとまず目先の危機を乗り越えた安心感からか、とつぜん命はそれをガマンできなくなった。ムダと知りつつも自分の思いを哲也にぶつけてしまう。
彼なら、こんな自分をなんとかしてくれそうな、そんな気がするのだ。
「神野くん。なんでこんなジャングルに私たちはいるのさ? ここは新宿だろ? だって私たち、ふつうに買い物しようとしてただけじゃん! それが、なんで、なんでなんだよ!」
まるで哲也を責めているかのような口調になっていた。
話しながら自分が興奮していくのを止められない。火災の中でのできごとが、美代子の白い手が、心の中をぐるぐるまわって、自分をどうしようもなくなっていた。
命は哲也につめ寄りながら、必死に彼に助けを求めていたのである。
「ほらあ! なんでこんな木があるのぉ! 答えろよぉ!」
涙声になりながら、手近にあったイヌマキの木をなぐる。濃い緑色の線形の葉が、ざあっと音をたててゆれた。
叫び疲れた命はハアハアと肩で息をしながら返事を待つ。
だが哲也は、自分の言葉が相手によく通じるように、命が少し落ち着くまで口を開かなかった。無言でイヌマキを観察している。
「大里先輩、これは杖根です」
命の呼吸が穏やかになったあたりで、おもむろに話しかけてきた。
彼女が殴ったイヌマキは、地上に突き出たタコの足のような根が全体を支えていた。どうやら哲也は、この根の形を杖根と呼んでいるらしい。
「は?」
命には、彼が何を言いだしたのかわからない。だが、いったん聞く態勢になっていたので、まだ素直に耳をかたむけてはいる。それを確認しつつ、哲也は言葉をつづけた。
「それに、さっき先輩はジャングルって言ってましたけど、ジャングルとは本来、森の入り口をさす言葉だったんですよ。
つまり、人のエリアと森との境界線の、ヤブがしげっているような所。これがジャングルなんです。
そういった意味では、ここはジャングルではありませんよね。どっちかと言うと、熱帯雨林って感じです」
ニコニコとほほ笑みつつ、ウンチクを披露していく。
「熱帯雨林では、森の頂上を林冠、森の底を林床と呼んでいます。林冠と林床では、温度も湿度もまったく違う別世界なんですよ」
「は、はあ・・・」
ここまでですっかり気勢をそがれていた命は、生返事を返すだけになっていた。
「でも、僕のわかるのはここまでなんです。後は残念ながらなにがなんだか。
あのイヌマキだって、杖根を作る種だったなんて聞いたことがありませんし・・・」
ここで突然、哲也は深々と頭を下げた。
「ゴメンなさい! 僕は先輩の質問に答えることができません!」
「あっ、そんな。あやまるんじゃねぇよ。私が変なことを言っちゃっただけなんだしさ・・・。こっちこそゴメンな・・・」
命はあわてて哲也を制した。そして顔を上げた彼と目が合う。その瞳は笑っていた。
「あ・・・」
「先輩。少しは落ち着きましたか?」
今さらながら、彼のペースに巻き込まれて操られたことに気づく。
「ぷっ」
今度は笑いの衝動におそわれた。
「あははははっ! たしかにな! なんだか楽になった!」
うまく哲也にはぐらかされただけなのだが、命は彼の機転に感謝した。
「しかし、いつかは知らねばならないでしょうね」
哲也は真顔になってつづけた。
「え? なにを?」
「すべてを。なぜ、こんなことが起こってしまったのか。そのすべてを、いつかは知るべきです。たとえ我々の世代ではわからなかったとしても、いつかは」
彼の脳裏に美代子の白い手がよみがえっていた。
死んでしまった人たちの思いを無駄にしないためにも、いつか人類はこの謎と正面から対さないとならない。そしてもし許されるなら、自分がその先頭に立ちたい。
哲也の瞳に静かだか力強い光があった。彼が面をつけた時に見せる、闘志を秘めた目だ。
「うん。そうだね」
そんな哲也を、まぶしそうな目で見つめる命。
「よし、では、まずは目の前の現実に対処するとしますか」
「おう!」
二人は立ち上がった。
彼らは自分の携帯電話をとり出した。
とにもかくにも、まず家族に連絡してお互いの無事を確認したいというのが、二人の考えであった。
しかし電話はつながらなかった。
哲也のものも、命のものも、あれだけの大暴れをしたにしては機械自体に傷はなかったのだが、どちらもまったく作動しないのである。
バッテリーには余裕があったし、命が手近の木にのぼってみてもつながらなかったので、電波が遮断されたわけでもない。また、もし緊急回線を優先させているのならアナウンスがあるはずだが、それもない。
これでは、携帯というシステム自体が、機能不全におちいっていると考えるほかなかった。
「電話が通じないって不安だな」
命はつぶやいた。
哲也は携帯での連絡はあきらめ、そばの木の根をイスがわりにして座り、右足の様子を見た。
「足はどうだ?」
となりにかがんだ命も、心配そうにのぞき込む。
「ちょっと腫れるかもしれませんね。でも骨は大丈夫そうです」
「痛いか?」
「まぁ、少しだけ。湿布薬がほしいです」
「うん。でもなぁ・・・」
人外魔境のようなまわりを見回して顔をくもらせる命。
「大里先輩。ここは新宿ですよ。それも新宿通りです。薬局くらい、さがせばいくらでもありますよ」
「あっ、そっか」
彼女の表情はいっきに明るくなった。
「まあ、無事なお店なんてないかもしれませんが、目当てのものさえあれば、それでいいんですし」
「なるほど。そらそうだ」
「今、僕たちは新宿通りにいます。とりあえずこのまま道伝いに進みましょう。
新宿通りの地下には丸ノ内線が通っていたんです。だから、道筋はこの谷が教えてくれます。そうすれば駅にもつきますし、途中にマツキヨの一軒もあるかもしれません」
「よし、わかった。じゃ、行こう」
彼らは、数時間前までは歩道だったところを進んだ。
日本の歩行者用の道としては珍しく余裕のある幅を持っていたここだが、今では天をつく巨木に占領されてしまっていて、歩きやすい場所などない。
足を痛めている哲也は、倒木を越えなければならない所など、どうしても命の力に頼らざるをえない場合が多かった。
「大丈夫? またおぶってあげようか?」
横倒しになったユスラウメの上に哲也を引っぱり上げながら、命が言った。
「あ、いえ、そこまでは・・・」
彼は少し赤くなりながら断る。
やはり女性におぶさるというのは、ちょっと、いやかなり格好悪い。その上、汗だくの命に密着するというのも、だいぶまずい気がした。
と言うのも、今の命はほとんどハダカなのである。
さまざまなゴタゴタでカーディガンはなくしていたし、その下のビスチェやタイトスカートもボロボロ。しかも、もともとノーブラだった。無事なのはポニーテールにした髪型くらいだったのだ。
今時、若くて美人な白人女性のヌードなど、ネットでいくらでも見ることができる。だが、命が見せつけてくるカラダの魅力と迫力は、たかが画像とは比べものにならない。
冷静沈着な哲也だが、そこは健康で若い男の子なのだ。また、生命の危機は性欲を強くする。
さすがの彼も、ズボンの前がきつくなりっぱなしになってしまっていた。前かがみな姿勢にならないように、けなげな努力をつづけているのである。
しかし先のことを考えると、ここで彼女とまちがいを起こしていいとも思えない。
「神野くん、顔赤いよ。足が痛いのか? つらいならガマンしてねぇで言いなよ!」
哲也の顔色を見た命が、まったく見当ちがいな心配をしてのぞき込んでくる。
結果、その豊満な胸のすべてが丸見えになってしまった。
「だ、大丈夫ですよ。ほんとうに」
あわてて視線をそらす哲也。うれしいような、見てはいけないような、複雑な心境だ。
薬の次は服だ。服をさがすぞ。
そう心にちかった。
そんな純情な彼は、ほほを赤らめてそっと笑う命の表情に、ついに気づかなかった。
ダンドリオン。
それが彼の名前であった。
ダンドリオンは、この世に生を受けた時から今までずっと、檻の中だけでくらしてきた。
だが、その檻が突然、倒木によって破壊され、彼がはじめて外にでてみると、そこは緑の世界であった。
密生した樹木、粘りつく空気。
外とは、こういうものであったか。
外を見たダンドリオンは、そこが自分の想像とかなり違っていることに、少しとまどった。それでも、せまい檻の中にもどる気になどなれない。
なにしろ外には、この濃密な血の匂いがあるのだから。
ダンドリオンのまわりには、原形すらとどめていない人間の死体が、いくつも転がっている。すべて彼の爪と牙が引き裂いたものだ。その死体の一つ一つからわき上がるうるわしい香りが、ダンドリオンの心を踊らせる。
楽しかった。
爪が、牙が、やわらかい人間の肉に食い込むさまは、実に心地よく、魂をゆさぶられる行為であった。
はじめての外。はじめての殺戮。
「ダ…ダンドリオン、うう・・・」
かたわらに倒れていた両足のない男がうめいた。
ほう・・・こいつ、まだ生きていたか・・・。
ダンドリオンは、その男を踏みつぶした。男はグエッという声を上げ、すぐに動かなくなる。
他者の生命をわが手ににぎるというのは、なんとも言えない爽快さだな。
彼は、自分の体のどこか深いところから、野生の炎がよみがえるのを感じていた。
しかし、生まれてこの方、ずっと人間のペットをやっていたものの野生などは、どうしても醜くゆがんでしまっているのだが、こういうことは本人だけでは気づけない。
ダンドリオンは、その二百七十キロの巨体をふるわせて咆哮した。
この雄叫びこそは、百獣の王とも呼ばれるセネガルライオンのオスである彼の、人間の囲い者から野生の王者への復権を目指す、決意声明であった。
哲也と命は、実に多種多様な木々の生いしげる森を、四苦八苦しながら進んでいた。
つい半日前までは、ここは歩行者天国を楽しむ人々で、うめ尽くされていた場所であった。
だが今は、哲也の視線の先でラクウショウが細い線形の葉をゆらし、そのすぐ横でシキミが厚くてなめらかな葉を見せている。しかもそれらは皆、異常なほどの巨木なのである。
しかし木はあっても、動くものの姿は二人以外にない。人も動物も鳥も、昆虫ですらいなかった。
あんなにいた人々は、いったいどこに消えてしまったのか。
考えながら哲也は、足もとを見た。
彼らが進んでいる新宿通りの下には地下鉄が通っている。そのためここには、えんえんとつづく暗い谷が、大きな黒い大蛇のごとく横たわっていた。
その谷に目を向けていると、その見えない底から人々の苦悶の声が聞こえてくるような気がしてくる。喫茶店で見殺しにした他の客たちや、白い花のような美代子の手までもが、闇の中から浮かんできた。
あわてて頭をふる。
そうやっておそろしいビジョンを追い払うと、哲也を包む森は、ただ音もなくそこにたたずむのみであった。
音がないというだけでも、状況によっては拷問に等しくなるという事実を、彼はその身をもって知らされていた。
だが彼の前には、そんなことはまったく気にならないらしい命が、元気いっぱいに先行してくれている。そんな彼女の姿は、今の哲也にとって唯一の救いであった。
木々の根元に、派手な黄色い看板の破片が散らばっている。ドラッグストア マツモトキヨシのものであった。
その店は雑居ビルの一階にあった。
建物自体は、植物群にからめ捕られるかのように、うっそうとした葉と葉の間でかたむいていたが、なんとか一階だけは無事に見える。
「ラッキー」
命は一声叫び、勇んでビルの中へと草をかき分け入って行った。
「ほら、神野くんも早くこ〜い」
奥から哲也を呼ぶ。
中の危険とか、まったく確認してなかったな。大丈夫なのか?
彼は少し危ぶんだ。
だが、ここに来るまでの経過を思い出してみると、命という女性は、危険がせまっている時は必ずすばやく反応している。それはもはや超能力と呼びたくなるほどのカンのよさだった。その彼女が警戒しないということは、ここは安全と思っていいのかもしれない。
そう判断し、哲也は命の後を追った。
光のとどかない店内には、シダやセンリョウの巨大バージョンが?茂していた。
暗い上に、足もとが破片や植物でゴチャゴチャしていて歩きにくい。だが、むし暑い外に比べると少しだけヒンヤリしていて、それだけは気持ちよかった。
「神野くんはここで待ってなよ。湿布は私が探してきてあげるからさ」
命が、ガレキをよけて人一人が座れるスペースを作ってくれていた。
正直、体力の限界を感じていた哲也は、彼女の厚意に甘えることにする。
「すみません。それじゃ、あとテーピングテープなどもお願いします」
「うん。まかせろ」
声だけ残し、命は闇に消えた。
しばらくして、命は両手に大量の荷物を抱えて帰ってきた。
「はっはー。大漁、大量ォ。ほら見て見て」
上機嫌で獲物を自慢する。
そこには湿布薬やテーピングテープはもちろん、消毒液、絆創膏、そしてなぜか胃腸薬や頭痛薬まであった。
「すごいですね。こんな暗い所でよくこれだけ見つけられましたね」
素直に感心する哲也に、さらに得意げな顔になる命。
「ふふっふ〜ん。私って、じつは夜目がきく人だったんだよ〜。今まで自分でも知らんかったけどさ」
「ええ? じゃあ、今までそんな能力はなかったのですか?」
命の言葉に疑問を感じる哲也。
十九年も生きてきて、そんなことに気づかないなんてあるだろうか。
それに、ほんの数時間前、光の消えたデパートの中での彼女は、暗闇が見えていそうな感じなどなかった。
「う〜ん。なかったなんてことはないんだろうけどなぁ・・・。ふつうだったんじゃね。だってさ、都会暮らしをしていて夜目なんて必要ねぇだろ」
「それはそうですが・・・。なにかひっかかるんです」
ここまでで見た、命の異常な力が思い出される。
あれが火事場の馬鹿力というものなら、いまごろ彼女はすさまじい疲労におそわれているはずなのだ。
人間の筋肉には三種類あり、走ったり物を動かしたりといった運動をつかさどっているのは、骨格筋とよばれるものである。これは筋繊維の束によってつくられているが、ふだんの我々は、この筋肉の力をせいぜい二割程度しか使えていない。
なぜなら、この力を完全に開放しては体がもたないのである。強すぎる力は、その筋肉じたいの組織や繊維を破壊してしまうのだ。
だが緊急時にそんなことは言っていられない。それで人は、本能の命令でリミッターをはずす。これが火事場の馬鹿力の正体なのである。
しかし筋肉とは、本来とても疲れやすいものだ。そのため、この力はきわめて短時間しか使えず、その後はひどい筋肉痛と疲労がまっている。
平時、人が二割程度の力しか出せないのは、それが自分にとってもっとも安定しているということでもある。
ところが命は、デパートから脱出したり、倒れてきた巨木から逃れたり、この道なき道を踏み越えたりと、長時間にわたり力いっぱい活動していた。これはどうにも理屈にあわない。
「なにむずかしい顔してんだよ。便利なんだからいいじゃん。ほら、そんなことより足をだせ。湿布しねぇと」
哲也の疑問は、命のあっけらかんとした一言で終わらされてしまった。
いいのかな。そんなんで。
心配はなくならない。だが、なにかよい考えがあるわけでもない。とりあえず今は、彼の懸念は先送りするほかなかった。
その後、哲也の足の治療や、お互いのすり傷やきり傷の手当てをしたのだが、命は、痛いーだの、しみる―だのと、うるさいことこの上なかった。
この雑居ビルの一階の奥には、エスニックレストランも入っていた。
なにか役に立つものはないかとビルを探検していた命は、食糧ゲットのために、暗闇にも植物群にもくじけすに厨房を目指す。
「神野くん、こっちこっち」
「どうしました? いきなりひっぱって」
哲也は夜目がきかないため、二人は手をつない動いていた。
「レストランだよ。メシがありそうなんだ」
言われてみれば、そろそろ夕食の時間であるはずだった。
いろいろなことがありすぎたのと、光の少ない森の底にいるので、時間や空腹を忘れてしまっていた。
「でも、僕は料理できませんよ」
もし野菜や肉があっても、調理済みではないであろう。さすがに生では食べられない。
「あら、私、料理は得意だぞ。さがせばマッチかライターくらいあるだろうし、キッチンが動かなくてもなんとかなるさ」
哲也の心配にたいし、命がとても意外な返事をしてきた。
「え・・・りょ、料理が得意・・・?」
思わず耳を疑い、命の言葉をオウム返しにつぶやいてしまう。
「それと、裁縫とかもな」
哲也の言葉をしっかり聞き取っていた彼女の声は、少し重いものになっていた。
「信じられねぇんだろ?」
「あ・・・いや、そんなわけでは・・・」
否定しても、いつもの彼にはない狼狽ぶりが、その内心を雄弁に語ってしまっていた。
「まあ、いいよ。私はあまりにもデカいしね。誰もがさ、私がお料理したり、服をぬってたりしてると、ちょっと変な目で見やがるんだよ。もう慣れっこってもんさ」
その声には押し殺した怒りが感じられた。哲也の手をにぎっている命の右手にも、少しだけ力がこもる。
彼女が自分の体格にコンプレックスを持っていることに、今さら彼は気づいた。
二人の歩みがとまる
しばし無言の間があった。レストランを占領しているホウライチクの群れだけが、サワサワという葉擦れの音をたてていた。
「す、すみません。無神経でした。ほ、ほんとうにゴメンなさい」
ここはひたすらあやまるしかないと哲也はさとった。そうする他、言葉が出てこないとう事情もあった。
今までの彼は、他人に興味をもったことがなかった。
友達もクラスメートも剣道部の仲間も、ただ表面的なつき合いをしていただけだったのである。無口ではないが必要以上に話さないし、深く他人にかかわらないから人を傷つけることもなかった。
どうやら命が自分に好意をもっているらしいと知ってはいたが、それもそこからどう展開させるべきか迷い、けっきょく面倒くさくなってほうっておいたくらいなのである。
そんな哲也だから、こうした場面で、どう対応してよいかがわからない。
「ばかなことを言ってしまいました。でも誤解です。ぼくが驚いたのは・・・、大里先輩が言うような意味は・・・、え〜と、少しはあったんですけど、でも、でも、誤解なんです」
必死に言葉をつないだ。
今や命は、その存在が必要と思える、生まれてはじめての他人であった。彼女のもつ心と能力は、彼がこれからも生きていくという選択をするなら、なくてはならないものになっている。
彼女を怒らせて、哲也はそのことに気づかされていた。
一方、命もこんな彼の姿をはじめて見た。
彼女の知るかぎり、哲也はつねに冷静で、誰にたいしてもほほ笑みをたやさない人であった。早い話が鼻持ちならないイケメンだったわけだが、なぜかそこがどうしようもなく好きだったのである。
そんな哲也が、目を見開いて彼女を見上げつつ、懸命にあやまっている。言っていることも支離滅裂だ。
これって私しか見たことない表情なんだろうなぁ。たぶん、神野くんは家族にもこんな顔を見せないぞ。
なんだか気分がよくなった。今までもっていたイメージは崩れたが、いろいろな彼の表情を見られることが、すなおにうれしく思った。
「えへへえ、かわいいね。神野くんのその顔」
「は?」
怒っているはずの命の予想外な言葉に、哲也はまぬけな反応しかできなかった。見開かれていた瞳もドングリのようになる。
「わあ! またかわいい〜!」
今の今まで不機嫌だったのに、暗闇でもわかる満面の笑みをうかべている。
「もう怒ってなんかねぇよ。すぐにおいしいものを作ってやるからな」
「え、あ、はい・・・。どうぞよろしく・・・」
「まかせておけ!」
命はまた哲也の手をひっぱって、店の奥へ歩き出す。その歩みは軽やかだった。
なんなんだろう。この豹変ぶりは。
乙女心など知ろうともしなかった彼は、ただ彼女のなすがままにされていた。
とにかく、今後二度と、この話題を口にしてはいけない。
命の機嫌がなおったことにホッとしながら、そう心にちかう哲也であった。
レストランの奥には火災の後があった。
火は厨房から出たのであろう。だが今はその気配もない。哲也が調べたところ、鎮火させたのはホウライチクたちであるらしかった。火の回りよりも早く彼らが繁殖し、身中の水で消火したのだ。
組織的な消火活動ができない現在において、大規模な火災が起こらない理由を、これで彼は理解した。
デパートから外を見たとき、火災旋風が起きている様子はなかった。それも植物たちのおかげなのかな。
哲也の言う火災旋風とは、空気と温度と熱エネルギーが一定の条件を満たしたとき、炎が垂直の渦巻きとなって、旋風のように空にあがる現象のことである。高いビルの多い都市におきやすいとされ、災害において最悪最恐の一つとも言われている。
もしこれが起きていたなら、哲也たちの脱出行は、ほぼ不可能であったにちがいない。
ひどい状況だけど、まだ希望はあるってことか。
植物たちは、敵にもなるが同時に味方でもある。どんな状況であれ、視点を変えれば絶望のみではないと、彼は思った。
竹林をこえて調理場にたどりつくと、火事によってメチャクチャになっていたそこから、目ざとく命は冷蔵庫を見つけ出し、肉や野菜を手に入れた。
「へへぇ。あった、あったよ。神野くん」
「火でだめになってなかったんですね」
「これさ、業務用の頑丈な奴だからね。中身は無事だったよ」
その冷蔵庫は、今は電力がないので停止している。
「さあ、神野くん。次は鍋と皿とスプーンを見つけよう。それからできれば香辛料とかも。あ、それと焚き木を集めて火も起こさなきゃ。っていうことは、ライターとかもいるな」
命の口調はウキウキとしていた。完全にピクニック気分になっている。
哲也にしてみると、この暗がりの中で彼女が言うようなものを集めるのは至難の技だとしか思えなかったのだが。
案の定、その後は四苦八苦しての道具集めとなった。それでもなんとかできたのは、八割がた命の活躍によっての成果である。哲也は暗闇と格闘するのに精いっぱいで、それどころではなかったのだ。
「うまいか? ありあわせだったけど」
枯れ枝を組んだ即席コンロの向こうから、命がたずねてきた。太い木の枝で固定された大きい鍋の中には、彼女がつくってくれたハッシュドビーフがある。
「ええ。とても。先輩、料理上手ですね」
「あはは。だから得意だって言ったじゃんさ。これで証明できたろ」
「え、い、いや、そんな。最初から信じていましたよ」
「うふふ。どうだか」
命は楽しそうにほほ笑む。
コンロの火に下から照らされた彼女からは、どこか幻想的な美しさを感じられた。
なんだか頭がボーっとしてくる・・・。
命に見とれていたら、哲也は意識がもうろうとしてきていた。
しかし、この原因の半分は暑さのせいであった。なにしろ、むし暑い中でたき火にあたり、しかも熱い料理を食べているのである。ほとんどガマン大会なのだ。気を失いそうになるのもしかたない。
だがそれでも、命を美しく思う気持ちも本物だった。彼女の中に、哲也の母親を思い出させるなにかがある。
「これからどうしよっか?」
食事が終わると、命がたずねてきた。
「そうですね。今日はここで休むべきですね。もう日が暮れているでしょうし、少しでも体力を回復させないと」
「うんうん」
「そして明日になったら、二人でお互いの家へ帰りましょう」
「え! 神野くんが私の家に!」
うれしいような、おどろいたような声をあげる命。
「はい。なにしろ携帯は通じない。固定電話もこの有様ではダメでしょう。
ぼくは、植物たちが出現したのは新宿だけではないと思っているんです。そうなると家族が心配です。ですが連絡できない以上、直接帰るしか方法がありません」
「固定電話もダメなの?」
「これだけ街が破壊されていては通じないでしょうね。
さっきの冷蔵庫も完全に止まっていたじゃないですか。あれは火事のせいと言うより、送電線が断ち切られて電力がストップしたからなんでしょう。
そう考えると、昼間のデパートでセキュリティが動かなかった理由もわかります。電気も水道もガスも、ライフラインのすべてが止まってしまっているんですよ。ですから電話線も切れていると思ってよいでしょう」
「そうか。あ、でも、そうなると電車も動かないじゃん!」
「新宿通りの様子を見るかぎり、車もムリでしょうね」
「と、いうことは・・・」
「自分の足がすべてだってことですよ。大里先輩」
「なんてことなの。まさか東京の新宿でサバイバルをするハメになるなんてね。
あ、でもさ、なんで神野くんは、これが新宿だけで起こっているわけじゃないなんて思うの?」
「簡単ですよ。ほら、これが根拠です」
哲也は、焚き木の中から、灰褐色の枝を一本とり出して見せた。
「これはダケカンバだと思うんですけど、本来かなり高い所に生える木なんです。それがこんな所にあることから、そう考えたんですよ」
「そうか・・・。言われてみれば、こんなことがここだけで起こっているって方が変かもね・・・」
命の声が暗く沈んでいく。
「先輩。あせってはいけませんよ。まずは自分の足もとを固めて、それからまわりの人たちについての心配をしないと」
「うん。大丈夫。神野くんの言いたいことはわかるよ。
それにさ、私の家族って、みんな殺しても死にそうにない人たちばっかりなんだよ。だからきっと大丈夫」
かなり努力しての結果だが、命に笑顔がもどった。
殺しても死なない、か・・・。
哲也は、たとえムリヤリにしても、そう考えることができる家族をもつ命がうらやましかった。なぜなら彼は、年老いた祖母との二人暮らしだったからである。
この状況の中で、おばあちゃん一人では・・・。
その先を想像するのはつらい。
「さ、じゃあ、そろそろ休みませんと」
自分の心を押し殺して言った。
たき火に砂をかけて消す。このままでは暑くて眠れないのと、夜になっても気温が下がらないとわかったからである。
ただ、真の闇にしてしまうのも不安なので、小さな火は残しておいた。
けっきょく、服は手に入らなかったな。
闇を見透かしながら思った。
これからサバイバルがはじまる以上、他にも明かりや種火、食糧など、集めなくてはならないものがたくさんある。明日からは帰宅を目指しながら、同時にそれらも確保していかなくてはならない。
「ねえ? もう寝ちゃった?」
火の向こう側から、少し湿り気をおびたような命の声がした。
「いえ、まだ起きていますけど・・・」
その声の調子に、ある予感はしていたが、それでも当たり前の返事しかできない哲也。
「あのさ・・・、そっちに行ってもいい・・・かな?」
「え・・・? いや、あの・・・」
口では許可を求めていた命だったが、体はすでにそばまで来ていた。甘い体臭が哲也の鼻を刺激する。
「神野くん、ゴメン、ゴメンね・・・。でも、こうしていないと、ちょっと怖いから・・・」
命は哲也を抱きしめた。
大きな手で頭をやさしくなで、ゆたかな乳房で顔をあたたかく包む。
ね、眠れるものか!
そう思ったが、いろいろあって体の疲れがピークに達していたのであろう、穴に落ちるかのような睡魔がすぐにやってきた。
あれ? あれあれあれ? 神野くん、ホントに寝ちゃったワケ?
一方、規則正しい寝息が聞こえてきた命は、ちょっと驚いてしまった。このシチュエーションでこうなるとは、正直、予想していなかった。
いや、そんな、私、決心したのに!
乙女の覚悟を踏みにじられて怒鳴りつけたくなったが、泥やホコリに汚れ、足にケガまでしている哲也の姿を見れば、それもできない。
しかたねぇか。疲れてるもんなぁ。
今日のところはあきらめて休もうと思った。
でも・・・でも・・・。
理性では理解できても、本能は許してくれない。自分を持て余してしまい、とても眠れそうにない。
私たち、これで他人じゃなくなっちまうんだぞ。
哲也の同意の有無は完全無視で、ピンク色に染まった頭は妄想全開だった。
まぁ、もともと小心者な命である。その後もあまり大したことにはならなかったのだが。
幕間 その三
『それ』が植物を狂わしてから、丸一日がすぎている。
そして事態は『それ』の予想を超える様相をていしはじめていた。
『それ』が隕石とともに地球に送ったイリジウムの中で、ふだんは鉱石のふりをしているウィルス。本来これは、植物細胞のみに影響をあたえるはずのものであった。
それが、一部の人間たちにも感染していることがわかったのである。
まだ一日しかたっていないので確かなことは言えないが、このウィルスに感染した人間は、爆発的な筋力を手に入れるらしい。
もちろん、感染した人間すべてが発症するわけではないだろうし、たとえしたとしても、その急激な変化に耐えられる者は少ないはずだ。
しかしなぜ、こんなことが起きたのか。
『それ』は少し考えた。
実は、『それ』がなんらかの異変を地球に対して起こしたのは、今回がはじめてではない。
行きづまってしまった生命進化に干渉するため、今から二億五千万年前にも、さらには六千五百万年前にも、『それ』は大規模なカタストロフィを起こしている。
それらはそれぞれ違った方法をもちいて引き起こしたが、『それ』の想像を超える現象などあらわれなかったのだ。
「まさか私も知らないところで、ウィルス進化できる素地を作っていたというのか! 人間とは、本当におもしろい存在だ!」
『それ』は歓声をあげた。
過去、生命進化をうながす手段として『それ』は、ウィルスの中でもレトロウィルスと呼ばれるものをつねに使っていた。今回、植物を急速成長させているのも、これの一種である。
自分のもつ遺伝情報を、感染した宿主のDNAに転写するレトロウィルス。これにさまざまな遺伝情報を書き込み、地球にばらまいてきたのである。
たとえば、鼻が長くなる情報をもったものに感染した個体は象となり、首が伸びる情報に接した個体はキリンとなった。
人間とは、アゴを小さくする遺伝情報にふれ、結果として脳を発達させたものたちなのである。
しかし、遺伝情報を操作することは、『それ』だけに許された特権だったはずであった。
その力を、自らも気づかないうちに我がものとしていたのか。
『それ』の心は喜びに満ちた。
完全無欠であるはずの、この自分の予想を超える事態に直面している。これからどうなるのか、『それ』にもわからない。
この、わからないという感情の、なんとスリリングなことか!
先読みを楽しむという快感を、『それ』は生まれてはじめて味わっていた。
「さぁ、立て! 人間たちよ! もっともっと、お前たちの力を見せてくれ!」
『それ』は叫んだ。