負け組Continue? ―Continue?―
――『彼女』は手に持っていた書籍をパタリと閉じた。
書籍に書かれている事柄は『魔王』と『奪う者』の伝承を一つに纏めた物。
別に『彼女』は調べて物をしている訳ではなく、その証拠に視線は本に向かっていたものの、内容は見ていなかった。
魔王種というのは、伊達ではない。生まれ出でた時より、目に映る物、耳に聞こえる物、肌に触れる物の利用法とその本質を全て、瞬時に理解した。それを思えば一度閲覧した書籍なぞ、一語一句迷わず空で朗読できる。
単純にこれは何か考え事をする時、暇な時、手持ち無沙汰な時…そのような時に出る、『彼女』の癖。
そうして、齢数千年以上生きている『彼女』が始めて、真剣に考えている事柄が、先の娯楽での出来事だった。
あのどこからか拾ってきた種族より、ほんの少しばかり強い魔獣との決闘は、彼女の読み通りに推移した。
逃げる種族と追いかける魔獣、そして暫く過ごす内に妨害が出て、それを使って魔獣に反撃し、その後、息絶えるというのは、『彼女』にとっては今日の食卓の品を当てるより簡単な事であったのだ。
だが、その息絶える最後の最後、彼女のまるで見知らぬ出来事が起きた。
それは、とてもではないが、普通の種族ならば気にも留めないであろう事柄だった。例え、何が起きようとも優先されるべきは、自分の安全であり、次に自分が勝てる相手だったか如何か、という事なのだ。
『彼女』は違った。偏に強者故の理論、己が安全より己が娯楽を追及し、また、先の娯楽も、このような未知の事柄が起これば良いと思っていたのだから。
『彼女』は考え、そして、一瞬で答えが出た。己が理解していない事柄だと…やがて、彼女は本腰を入れて考え出し、先程、仮説を立てたのだった。
――『奪う者』だと。
『彼女』は、娯楽を求めてはいたが、荒唐無稽な噂や伝承を殊更に嫌っている節が有った。理由は色々有るが一番大きかったのが、好みではない、という事だ。そんな彼女が己が好み、否、信念や意地にまで昇華させたモノまでも捻じ曲げたのだ。
あの特徴の無い種族は、今は深遠の淵に居る。大切に、大切に扱っている。本心は今すぐに、力で従わせたいとすら思っている。
しかし、万が一、その辺の有象無象と一緒に扱った挙句に壊してしまっては、好みを曲げてまで考えた意味が無いのだ。
今はこの久しく忘れていた感情を抑えて待つ事にしよう。
――『彼女』は初めて外見相応の表情を浮かべていた。
負け組Continue? ―Continue?―
カツンカツン、と石畳に踵が当たり、小気味良い音が無人の廊下に響き渡る。
それに対して前を行く自称案内者は、コツン…コツン…と最小限の足音だけであり、この辺り、俺の育ちが如何だったのかを理解してもらいたい。
それはさておき、俺が目を覚ましたのはつい先程だった。
見慣れぬ部屋、見慣れぬ化け物。
グルグル巻きの包帯には多少の血は付いているものの、怪我は無く、薄っすらとした赤み掛かった皮膚が有る程度だった。
勿論、湧き出る疑問は幾つもあった。
何故、俺はここに居る?
――主人の意向です。
何故、会話が出来る?
――魔法具を装着させて頂きました。
何故、怪我が治っている?
――拙いながら、魔法を掛けさせて頂きました。
俺を如何するつもりだ?
――主人の元へ案内致します。
幾つも幾つも、質問をしては無感情に、まるで人形のような案内者が質問に答えていく。
魔法とは、魔法具とは…色々と聞いたがまるで一つもピンと来ず、途中、何時の間にか付けられていたピアスを外すと、急に相手の言語が理解できなくなったのを機に考えるのは止めた。
重要なのは、今は俺に危害を与えるつもりは無いという事、そして主人とやらが俺を呼んでいる、という事なのだ。
黒を基調とした、戦闘服と普段着を合わせたような奇妙な服に着替えさせられたが、別に文句は無い。元の服は既に服とすらも呼べるかどうかという具合になっている。
「ここからは、内城となります。失礼の無きよう…」
金の装飾が施された大きな扉の前。俺はここが目的地かと思っていたのだが、口振りから見るとどうやらまだ歩くらしい。
もう十分に歩いただろう、だとか、主人とやらは何者だ、と少し聞きたくなったが、僅かにどうでもいいという感情が勝った為に口を噤む。
扉に続く廊下からは、陽の光が燦々と降り注いでおり、屋内庭園とでもいうべき光景が広がっているのを見て溜息一つ。庭園を割って進む廊下は長く、そして庭園は広かった。
人為的に管理された形跡の見られる庭園を超え、それまた長い廊下を、赤い豪華でフカフカの絨毯を軍靴で(デザインが軍靴ちっく)容赦なく踏破し、先に見た扉よりもより豪奢な扉の前に辿り着く。
「主人はこちらに御座います」
長かった…、嗚呼、長かった。途中、何度帰ろうと思った事か。途中、何度嫌がらせだと思った事か。
ここまで辿り着くのに推定一時間弱掛かるなんて、正気の沙汰ではない。主人とやらは余程元気が有り余っているのか、それとも、余程引き篭もっているのか。
焦らすかのように、重い音を立てながら開く先には、豪奢な造り、豪奢な玉座、紋様の入った赤いカーテンと一面に敷かれた絨毯…さながら、悪の巨大帝国の謁見の間というのが第一印象だった。
だが、玉座の周りには何人(?)かの人物が並んでいるが、肝心の玉座には誰も座っていないというこの現実。
不機嫌な目でジロリと案内役を睨むが、案内役は微動だにしない。これは待てという事なのか。
一応、仮にも俺を助けてくれたという事もあり、自重するが、もしこれが何も理由が無ければ化け物浄化作戦を敢行するところだ。
「………」
大きな欠伸を一つ。
周りからの咎めるような視線なんぞ今の俺は気にしない。既に十五分は経とうとしているのに、一向に現れる気配が無い。
「――待ちくたびれたか?」
目尻に溜まった涙を拭き取っている最中、そいつは急に現れた。
足音なんか無かった、現れた気配は無かった、だというのに今は悠然と玉座に座っていたのだ。
「くく…久しく忘れていた感覚故な、味わう為に『跳ばず』に来たのでのう…」
だが、お主を見て気が変わったと、そう告げるのは俺よりも年下の、中学生の女の子…いや、こいつも化け物だった。当初は見間違えたと思ったが、目が狂気的に赤く、淡く、発光している。
「…ふむ、そこの一人――この種族に殺されよ」
――途端、空気が凍った。
聞き間違えでは無ければ、この化け物の長は、あの中の誰かが、俺に殺されろ、と命じたのだ。
殺す事に異論は無い、が、疑問は有る。
それは向こうも同じだろう、口には出さないが、皆驚いた顔をしている。
「早ようせぬか」
――ぐちゅり
部屋に、嫌な音が響いた。
音の出先は示された一団の中の一人…だったモノ。今は裏返ったのか潰れたのか、原型が解らない肉塊となっていた。
如何やったのか何時やったのか何故やったのか、いや、そうじゃない、そんな事はどうでもいい…こいつは――危険だ。
震えが止まらない、歯の根が噛み合わない。未知の事柄の所為でもない、ぐちゃぐちゃどろどろの肉塊の所為でもない、何か、根本的な、本能的な、遺伝子に組み込まれた捕食者に対しての、警戒。
何故先程は気付かなかった…今はあいつの顔がまともに見れない、周りの状況も何も…今は自らの保身で限界…精一杯だ。先の戦闘での自信と経験なんぞ、まるで当てにならない…次元が違う、あれはヒトが相対して良い相手ではない。
「やるがよい」
どさり、と俺の前に、豚のような大男が飛んできた。
これを、殺せと言うのか、嫌違う、早く、早く返事をせねばっ。
「ぶ…武器…を、お…私は、素手では、殺せ…ません」
タメ口等、持っての外だ、軽口を叩ける姿が想像出来ない。
動悸が激しい、息が苦しい、緊張で意識を失いそうだ…今は願うしかない、此方に矛先が向かわぬ用に、向かわぬ用に…。
「…そうであった、余とした事が先の楽しみばかりで準備をしておらぬかった」
言うや、否や、後ろで控えていた、守衛の一人が分厚い剣を渡してくる。
渡す手と受け取る手、双方震えていたが、今は何よりもコイツを殺さねばならない。
ズシン、と重い剣は俺の手には余るものの、歯を食いしばり、渾身の力で野太い首へ向け、刃を振り下ろし…、
「――ぐっ」
まるで硬質ゴムのようなその首は痣のような筋が付いただけ。
一方振り下ろした俺は反動で手が痺れ、剣の重みに耐え切れず、ガシャリと無機質な音を立てて床に落ちた。
「…はぁっ…はぁっ」
ヤバイ、急げ、早く、早く殺せ…っ! あいつの、気の障らぬ内に、早く…早く…っ!
「うおおおっ!」
首に振り下ろした、切れない。
頭を叩いた、壊れない。
腹を刺した、貫けない。
だから、眼を開かせ、剣を押し込んだ。眼球は潰したが、切っ先の後、刀身が通らない。
だから、口を開かせ、喉奥に剣を押し込んだ。切っ先の後、刀身が…通ったっ!
内臓を引き裂いていく感覚、食道を裂き、胃を裂き、その下の小腸まで。血が口から流れてきた。その姿、まるで、豚の丸焼きのようだ。
一度抜いて、今度は角度を変えて差し込んだ。ズタズタの喉から少し反れて肺へ…そして、骨とは違う、肉とも違う、バツン、と破けた感触と共に、血が噴出した。
豚は苦悶の表情を浮かべている、その潰れた目は許しを乞うているのか、それとも恨みをぶつけているのか。
豚の口から血が噴水のように飛び出していたが、やがて弱くなると共に豚の目から、顔から、存在から、光が失われていき、やがて、動かなくなった。
残ったモノは部屋に響く荒い息と豚の屍骸と肉塊だけ。
これで、あいつは満足したのだろうか…、この豚も思えば、抵抗らしい抵抗はしなかった。いや、出来なかったのか…今は知る事も出来ない。
只まともに戦えば、こうなっていたのは俺だったのだ。いや、戦いにすらならない…俺は、このまま生き残る事が出来るのだろうか?
「――来た」
今まで黙っていたあいつが声を発したと同時に、足元の豚の屍骸から光の靄が湧き出てくる。
次第に濃さが増して揺ら揺らと此方に向かってくるのを見て避けようと思ったが、使い果たした体力の前には黙って靄が俺を包むのを待つしかなかった。
まるで、ブラックホールに吸い込まれていく星の残骸のようにぐるぐると回り、少しずつ俺の体に入っていく光の靄…俺の体に異変は無い。
「ふむ…」
最初に見た時と同じように前触れも無く、突然俺の傍に立つ、あいつ。
驚きはしたが、豚を殺す前に感じた、恐怖は感じない。むしろ、ふわりと香る甘い匂いが鼻をくすぐり、顔がニヤケそうになるのを引き止める方が忙しい。
光の靄を掴もうと手を振るが、するりと抜けた靄は俺の体へと続々集まり、そして入っていく。
「…実に良い。褒めて遣わす…今日は何と面白き日かっ!」
ケタケタと、急に笑い出すと、満面の笑みを浮かべ、急に姿を消した。先ほどまで有った笑い声は今では王座に移っているのを見て、漠然と『跳ぶ』というのはこういう事か、と理解する。
最早何も驚かない。ここに来てからというものの、常識の範疇では考えられない事ばかりなのだから。
環境も己も何もかも、ぐちゃぐちゃでどろどろで、何が正しく、何が駄目なんていう制限は無い。有るのは弱肉強食という生物の普遍の理のみ。
ここが何処だと考える暇が有るなら生き残る事を考えるべきなのだ。あの狼に成りたくなければ。
何故という疑問を抱く前に生き残れるかを考えるべきなのだ。あの肉塊に成りたくなければ。
あいつが何者なのかを考える前に、生き残る事を考えるべきなのだ。あの豚に成りたくなければ。
「――歓迎するぞっ! 『奪う者』!」
だからこそ、俺が何者なのかを考える前に――生き残る道を模索すべきなのだ。
あの後、俺は外城の一画、そのまた一室に俺は部屋を与えられた。
煌びやかさや華やかさは無いが、頑丈な造りが特徴のトイレと風呂と使用人付き、家賃は無し。
現在は獣面の尻尾の生えたメイドさんがお茶を持ってきてくれている最中である。以前の俺なら斬りかかっていただろうが、今はそんな気持ちなぞ塵ほども残っていない。
上には上が居る…そう痛感したのが今の俺なのだ。あいつだけではない、周りに控えていた側近と思われる者も、案内役も、全て、全て、俺より圧倒的に強者なのだ。
あの獣メイドも今でこそ、尻尾を振り振りしているが、一度牙を向けば俺に勝てる見込みは少ないだろう。
痛感――解ったのだ、あの狼は、弱いのだと。俺如きに殺されるなぞ、俺如きの攻撃を受けるなぞ、話にならない程、弱いのだ。
そんな弱い俺を歓迎するらしいあいつは、すぐに姿を消した。
何故歓迎するのか、『奪う者』とは何なのか、俺はどうすればいいのか…何も知られされず、唯々諾々と言われるがまま、案内役にホイホイ付いていった結果が今に至るという訳だった。
「お茶が入りましたよ? 飲まないんですか?」
人が考え事をしているというのに…この獣メイドは能天気で、初見でも人見知りしないらしく、フレンドリーなのは良いが、仮にも使用人ならそれらしい態度を取ったら如何かと思う。その俺の分のお茶より良い匂いがするお茶と俺より大目のお茶菓子とか、その辺りは特に。
そんな無礼メイドの紹介によると、八等級・獣人種のウェアウルフ族、名はほにゃらら、正直覚えてないし覚える気なんぞ更々ない。
「…それより、だ、種族は分かる…だが、八等級というのは何だ?」
「…えぇー、部屋主様はそんな事も知らないんですか?」
馬鹿を見る視線…今は捨て置いてやろう。弱者は弱者なりに生きるしかないのだ。
で、無礼メイド曰く、等級とはその種族の強さらしい。等級は即ち、自分の地位であり、上位の者は自分を殺せるだけの力があるし、下位に対しては自分が殺せるという、至極単純な古からのランク付けらしい。
「…ちなみに、俺が倒した狼の等級は?」
「狼ですか…んー、どの狼か知りませんが、どんなのでした?」
「狼っぽい顔つきの癖して丸い耳、毛は灰色で目も灰色。鋭い牙と尖った爪、ピンクの肉球がギャップをそそる憎い奴だ」
「あ、マリックス種ですか、あれは…どうなんでしょう。正直弱すぎて等級なんて無いんですけど。あれ、食べると美味しいんですよね」
共食いかよ…そう思ったが口には出さない。厳密には違う気もするし、余計な薮蛇を突く必要も無い事だ。 しかし、等級すら無い、とは…本当に、あいつと出会う前の俺は現実を知らなかったのか。
「…ちなみに、等級はどこから始まって、どこで終わるんだ?」
「下は十等級、上は一等級ですねー」
「…じゃ、お前の、俺じゃないほうの主人は?」
途中、あいつと口に出しそうになったが、万が一聞かれた恐ろしく、また名前も知らないのでこう言うしかなかった。
「ご主人様は三等級・魔王種です」
そんな事も知らないなんて、不敬です、無礼です、馬鹿です、とほざきやがる無礼メイド。正直無礼討ちしてやりたいが、逆襲されるのでしない。
恐怖で意識を失いそうになる癖に、恐怖で意識が覚醒するなんていう二度と味わいたくない、あの感覚…三等級、か。あれより上が居るのかと思えば心が折れそうだ。
「三等級なんて、私、片手で数えるぐらいしか知りませんし、二等級は知らないです」
お隣と、精霊森の所と…と指折り数えている無礼メイドが言う。
正直、助かる。あんなのがゴロゴロしていたら、俺の胃が持たない。
「一等級は?」
「『魔王』は凄い昔に殺されたらしいですよ? ご主人様のご先祖様に当たるんですが、ご主人様も全然知らないって言ってました」
「凄いな…あれより上を殺せるなんて、誰が殺したんだ?」
純粋に凄いとしか思わない。どんな化け物だ。
「何でも『奪う者』っていう生物らしいです」
「…何?」
「『奪う者』っていう生物らしいです」
『奪う者』…? あいつが言っていた『奪う者』ってこれの事か?
だが、俺自身、そんな化け物ではないというのに…いや、待てよ、あいつも豚を殺した後の靄を見てから変わった…ということは、『奪う者』というのは対象から文字通り何かを奪うという意味なのか。
「『奪う者』っていう生物らしいです」
「うるせぇ、聞こえてるからちょっと黙れ」
だが、何を奪うんだ?
日本でも、俺は幼少の頃から今に至るまで虫等は退治しているが…靄なんぞ見た事が無い。
虫では駄目なのか、で動物はどうなのか…生憎と屠殺経験なんぞ有らず、確かめようも無いが、もし奪えたのだとしたら、もっと早く殺しておくべきだった…。
「部屋主様の癖に生意気です。なんで私がこんな弱い生物の使用人をしているのでしょう…弱いのは頭だけにして欲しいです」
「…あのな、俺は色々と訳有りなんだよ。知らなくて当然だろうがっ」
右も左もわからない、トラックの事故の後からここに至る現在まで、何もかもだ。だというのに、何たる言い草なのだ。
いや、落ち着け。所詮は犬なのだ、犬如きに人間様の事情なんぞ理解できまい。
「はぁ…頭の弱い部屋主様はそんな事も分からないんですか…正直、ゴミ以下です。
なら、おしえてあげます。部屋主様は、私より、弱いんでちゅよー? わかりまちゅかー? わかりまちゅよねー?
世の中はー、強い方がー、正しいんでちゅよー? 『弱肉強食』、はい、復唱してくだちゃいねー?」
――思えば、もっと早く決着を付けるべきだったのだ。
ずるずると黙認しているからこそ、相手が図に乗って生意気をぬかすのだ…軒先貸して母屋を乗っ取られる前に、軒先を貸す前に、どちらが上なのか、を決めるべきなのだ。そんな事も分かっていないから、このように犬畜生の分際でキャンキャン吼える…駄犬には相応の躾というのが必要だろう。
後はもう簡単だ、せめてこの茶だけでも飲んでから殺そう…そう思った俺は、琥珀色の液体の入った白磁のティーカップを手に持つ。
「あれあれぇ? 返事はどうしたんでちゅかー?」
――パキン。
ま、まあ落ち着こうじゃないか俺。ほら、そんなにも力込めちゃったから、取っ手部分が壊れちゃったじゃぁないか。両手でカップを持ってて良かった良かった。
そうそう、なるべく苦痛が長引くナマクラの刃物はどこだろうか。そろそろ駄犬を捌いて市場に卸さないとな。
「あれあれぇ? もしかして部屋主様、ビビってるんですか? まさしくマダオ(まるで駄目な男)ですよね、あ、失礼しました。チンカスでした」
――バキャッ。
ははっ…ほら、やっぱこれ壊れかけだったから、カップが粉砕してしまったではないか。仕方ないなぁ、これはもうカップと同じ運命を目の前の駄犬に味合わせないと。
「おい、駄犬。仮にも持て成す立場なら、食器ぐらい壊れてないか確かめておけ。あぁ…犬だからそんな事考える脳味噌なかったな」
うむ、そして人間には考える力というのが有る。例えばこの破片を口に含ませて殴ったら面白いだろうし、破片の上に顔面を押し付けるのも良いかもしれないな。
「駄っ…――もういいです。ならば私も、相応に対処しましょうっ!」
「さっさと来いよ。グラム1円で卸してやるから感謝しろよ?」
ザワザワと、駄犬の毛がざわめくと同時に獣化の度合いが強くなる。恐らくは、あれが戦闘態勢なのだろう、目に見える程になった爪をガリガリと床に擦り、低く唸り声を上げ、身を屈めて――
「――何をしている」
空気が止まり、全身に冷や汗が滲み出す。
重く、息苦しい、この感覚。捕食者がすぐ傍に、居た。
「何をしている、と聞いている」
あいつ程ではない、だが、それでなお、超えれない壁が、格の違いが、この身に突き刺さる。駄犬もまた、毛が総立ち、怒りでも疲れでもない、荒い息を繰り返すだけ。
「…か、考えを表そうと、しております」
ガチガチ、と震える歯の根を噛み締めて、搾り出すように言う駄犬。
それを受け取るは、先程まで一緒に居た案内者。奴もまた、次元の違う、化け物か。
「ならば表せてみろ」
一度味わったからなのか、それとも、『あいつ』には及ばないのか、表情を見てとれる程度には動く視線で案内者の顔を見るも、無表情。
何でもいい、俺が謝っても良い、今はとにかく、この重圧から逃れたい――有るのは、その気持ちだけ。
俺が悪かったと。謝ろう、そう言おうと口を開いた瞬間――
「――い、遺憾の意を、表明します」
ああ、こいつ、馬鹿だ。俺はそう実感した。そしてそれ以上に、良くやった、と、良くやってくれた、と。
「…すまんかった。あ、そこの布巾取ってくれないか」
「あ、私が拭きますので大丈夫です」
黙々と、テキパキと事後処理に励む俺達。案内者からの重圧は既に無く、表情も能面のような顔ではなく、呆れたような、毒気を抜かれたような顔だった。
「…次から気をつけなさい。手出しは厳禁と厳命されている筈です。客人も、もう少し落ち着いて頂きたい」
はい、と素直に俺と駄犬は返事をする。流石にあの重圧を前に再度争う気は起きそうに無い。
はぁ…と溜息を付いたのは誰なのか…ああ、不毛な争いだった。
…
……
………
「それで、何か用でも?」
片付けが終わり、新たに入れ直した茶を前に俺はそう問いかける。
駄犬のオー人事ならば喜ばしい事このうえないのだが。
「はい、お伝えしたい事が…む、少々『魔信』が入ったので失礼する」
と、言うや、ボソボソと喋りながら部屋を出る案内者。外では何か話し声が聞こえるあたり、この世界でいう携帯みたいなものに連絡でもあったのだろうか。
「助かりました肝を冷やしました死ぬかと思いました…」
途端、深い溜息と共にテーブルに突っ伏す駄犬。ふらふらと揺れている尻尾が良く見える。
「俺ですらアレだったからな…まあ、なんだ、すまんかったな」
落ち着いて考えてみれば、俺が悪かった。考え事で必死すぎだった感はある。
「はい、ですから駄犬は訂正してください」
犬じゃないです、狼です、と抗議してくる駄犬。正直どっちも一緒だろうが、とは言わない。案内者が怖いから。
「…駄メイド、はどうだろうか?」
言いたい事は分かる、だが、こいつに屈するのはなんか腹が立つので別の言い方を提案、名前も覚えていないので何と呼べばいいのかわからない。呼ぶ気も無いが。
「もうそれでいいです。マダオ様」
「ぐっ…まあいい、で、あの案内者はどれくらい強い?」
この際、呼び方は置いといてやろう。追々ケリを付ければいいだけなのだから。
それよりも、俺としては案内者の強さのほうが気になるのである。
「強いなんてもんじゃないです。なんたって四等級・戦女神種ですよ? 私達なんて刹那の間に殺られちゃいますよっ。あー…良かったです、他の人だと殺されてました…」
あいつより一個下の四等級、あの重圧も頷けるというものだろう。そして戦女神種と呼ばれる案内者の背中に生えている羽は、一体どうなっているのだろうか、と淡い疑問を抱かずには居られない。
「むしろお前はよくやった。で、仮に、七等級だと、お前はどれくらい持つ?」
「完全防御で一分持てば、自分で自分を褒めてやりたいです」
いくら何でも、等級の壁が分厚すぎるだろうと思わないでもないが、結局はこういうルールなのだろう。
とすれば、現在この駄メイドより弱いと断言されている俺は即死だったのだろうか…よく来てくれた案内者、ありがとう案内者。でも重圧だけは勘弁な。
「…あー、それは良かったな、としか今は言えない」
「はい…もう、今の部屋主様に仕える前は、毎日が恐怖でした。今は部屋主様のほうが弱いので安心です」
後半部分は心で思っても口に出すなよ、と思わんでもない。でも突っかからない、案内者が怖いから。
そうしている間に、急にびしりと駄メイドの姿勢が良くなったと思えば、その瞬間、通話が終わったらしい案内者が部屋に入ってくる。
この手馴れた感じを見れば、普段もこんな感じなのだろうか。今を生きている駄メイドに敬意を表したい。
「…お待たせしました」
その言葉は俺に向かっているが、視線は如何見ても駄メイドに向かっていた。間違いない、バレてるだろ。
ぷるぷると震える駄メイドに敬意を表すと共に下手を打ったとき用の香典を溜めとこうと心から思う。
「お帰り、で、話とは?」
「それについては、道中にでも。こちらへ…」
との由に、俺は席を立ち、案内者の後に付いていく。後ろからは駄メイドの、いってらっしゃいませ、なんていう営業用の声色。言う相手は勿論、俺ではなく、案内者なのは言うまでも無い。
――『奪う者』とは。
遥か昔、神話の時代に君臨した『魔王』を殺した者を指す。
何故『奪う者』と呼ばれているかは、定かではない。だが、『奪う者』が通った後には幾万もの屍骸が野山に晒された事から命を奪うという意味で呼ばれたのだろうと、考えられていたらしい。
だが、『あいつ』が、俺の光の靄を見た時に出した仮説が、殺した相手の力を奪うのではないか、と考え、豚を殺した時にそれが正しいと確信したらしい。それを証明するために今、向かっているのが、あのコロシアムであり、相手は勿論、マリックス…あの最初に戦った狼である。
敵の等級に応じた分の、一定の強さを奪う俺の特性…言うなれば、ゲームでいう経験値を獲得すれば、それに応じてリアルタイムでレベルアップするシステム… マリックス程度の経験値では、話に成らないが、豚は違った。あれは、歴とした八等級・オーク種…無論、俺程度では殺せない筈だが、そこは『あいつ』のバックアップも有り、殺す事が出来た。
結果、俺は得た、元の俺とは比べ物に成らない程の強さを――元の俺が弱すぎるという事も有るが――豚から、奪ったのだ。
現在の等級は案内者曰く、十等級になるか、ならないか程度。だが、マリックスには十分らしい。
疑問は幾つも有る。奪った結果強くなるのは基礎身体能力だけなのか、特徴のある奴を殺せば、その特徴分も奪えるのか、魔法は、限界は…色々有る。しかし、今はそれを考える時ではない。
今は唯、目の前の、この狼を殺すだけ――
「…ふむ」
飛び掛ってくるマリックスを冷静な目で観察する。
体長1メートル程の体躯は確かに衝撃力は有るだろう…だが、落ち着いて見れば、動きは直線的で読みやすい。
前回の俺は背を向けていたから分からなかったが、成程、これは逃げるより、正面に対して避けるように動いたほうが断然良いだろう。
マリックスが遅く感じるのは、奪った結果なのか、それとも慣れた結果なのかは分からない。
一度目は避けた、避けれるのか試した。次が来た、どうする?
攻撃するにも刃物は無い。迎撃するにも衝撃力は無視できない。ならば、すれ違いざまに拳を叩き込んで見るか?
「ぉ、らぁっ!」
やはり俺は喧嘩慣れしていない所為だろう。思ったように体が動かず、また拳を叩きつける時も変な感じになり、自分の拳を少し痛めてしまった。
…まあいい、注意すべきは、喉元から上と足先に咬みつかれない事・手を口内に突っ込まない事、それだけ守れば勝てないまでも、暫くは負けない。
やがて、何度目かの攻防を繰り返し、どうすれば良いのかというコツを掴んだ俺は、初めてのクリーンヒットを腹に叩き込んだ。
苦しげに呻き、再度襲い掛かってくる時にもう一度、腹に叩き込む。今度こそ怯んだマリックス目掛けて何度も蹴りを繰り出していく。
一発、二発、三発…唯でさえ、当初からマリックスの動きが見えていたというのに、ここまで弱っては最早俺の勝ちは揺ぎ無いだろう。五回目の蹴りから、マリックスの口から血の混じった嘔吐物が出てきた。十発目の蹴りを叩き込む時にはピクピクと痙攣し、十五発目には腹を破り、、内臓を撒き散らせながら、絶命した。
俺を包み込む光の靄、最初はあれ程恐ろしかったマリックスが、今では簡単に殺せるのだ。やはり、豚を殺して奪えたのが勝利の要因だろう。元の俺とは比べ物にならないくらい、力が強くなっている。
「どうでしたか?」
光の靄が消えた頃、案内者がそう問いかける。
どうだった…応えは勿論、決まっている。
「…最高の気分だ。仮説は正しかったと伝えてもらいたい」
戦いが無くならない訳だ、こんなにも楽しいなんて。
虐めが無くならない訳だ、こんなにも楽しいなんて。
殺戮が無くならない訳だ、こんなにも美味しいなんて――。
「ご心配なく、主人は見ておられますので」
ぐるりと回りを見回しても、人っ子一人居ないコロシアムは当然静かなモノだった。
恐らくは『跳んだ』のと同じように『視ている』のだろうよ。
「なら、ついでに許可を貰いたいんだが」
何の許可か、と案内者は言う。
そんなもの、決まっているじゃあないか…。
「――殺戮許可、さ。本当は豚のような奴を何匹も殺したいんだが、『お嬢様』の手を煩わせる羽目になるし、何より、自分の『食い扶持』は自分で奪わないとなぁ…?」
弱い奴を食って、食って、食って、より強くなってやる。
より強くなった俺は、弱くなった奴を食って、食って、より上位を目指してやる。
是は俺の、人生の宿命であり、闘争であり、運命であり、義務であり、権利…誰にも、止めさせない。
「…、主人からの返事です。『好きにせよ』と、『何をしようとも承認する』と」
「感謝する、と伝えてもらいたい」
笑いが止まらない。スポンサーからの白紙委任状は確かに承ったのだ。
後はもう、気の向くままに殺して、殺して、殺しまくればいいのだ。
嗚呼、今、漸く俺の人生が、始まったのだ。
あの惨めで、未来も、夢も何も無い、あの頃とは完全に決別した。
やってやる、幾万もの屍骸の上に立つ『奪う者』に。
――『魔王』すら殺せる『奪う者』に成ってやる。
☆Pickup Race☆
『八等級・獣人種』
皆大好きケモノ属性の亜人。ただし獣度強め、素人にはオススメできない。
一概に獣人種と呼ばれるが、かなり雑にまとめらており、完全な実態は不明。
その元になった動物の特徴を併せ持つ種族。
☆Pickup Person☆
『マダオ(仮)』
我らが負け組主人公。元は温厚で臆病だったが、色々あってキティガイになった人。
ちょっと調子に乗りやすく、特技は無し、趣味は無し。彼女いない歴=年齢。
『奪う者』と呼ばれる特異体質が発覚し現在、脳内麻薬で廃テンション中。
『駄メイド』
主人公に割り当てられた使用人。ウェアウルフ族、犬と言われたら怒る。
自分より弱者に人権無しがモットーな能天気犬娘。基本、怠け者。
危ない目にあっても何故か助かる幸運の持ち主。
☆Pickup Keyword☆
『魔王』
史上唯一の一等級。魔王種の始祖。遥か昔に『奪う者』に殺された。
『彼女』の先祖に当たるが、出番は来ないでしょう。