三秒
イヤホンでの閲覧は、おすすめしません。
四年前、初めて借りた部屋の話をする。
オチはない。人は死なないし、血も出ない。怪談としては失格だと思う。
ただ、この話を人にすると、たまに妙な顔をされる。それはまだ終わっていないんじゃないか、と言われたことが何度かある。
そのたびに俺は笑って、もう終わったよ、と答えることにしている。
◇
駅から歩いて十五分、築三十年の軽量鉄骨アパートだった。二階建ての二階、二〇二号室。
二階には二〇二と二〇三のふた部屋しかなく、一階は大家の物置と駐車場で埋まっていた。家賃四万二千円。
壁の薄さは内見のときから分かっていた。不動産屋が言葉を選ぶような間を置いて、生活音は、多少、と言った。多少のあとに続く言葉はなかった。
実際に薄かった。指の腹で押すと、板がわずかに撓んだ。
引っ越した初日から、二〇三号室の音はよく聞こえた。水道。戸棚の開け閉め。床のきしみ。テレビの音はしない。
それでも、人がそこで暮らしているという厚みのようなものは、壁の向こうにはっきりとあった。
うるさいとは思わなかった。布団に入って隣の床がきしむのを聞いていると、腹の底の力が抜けた。
初めての一人暮らしで、壁一枚向こうに人の気配があるのは、悪くなかった。
それに、生活のリズムがこちらと寸分違わなかった。
深夜にケトルの音がして、俺も湯を沸かしたくなる。向こうで水音が続いて、俺も歯を磨きに立つ。向こうの床が静かになる頃には、こちらも電気を消している。
同じ時間に同じことをする男が隣にいる、と思っていた。顔は一度も見たことがなかった。
◇
最初に妙だと思ったのは、住み始めてふた月ほど経った頃だ。
午前二時。腹が減って、ケトルのスイッチを押した。ゴォ、と加熱の音が立ち上がる。少し置いて、壁の向こうでも、ゴォ、と鳴った。
こんな時間に隣も夜食か、と思った。
麺をすすりながら、耳だけが壁のほうを向いていた。食い終わって、流しにどんぶりを置いた。三秒ほど置いて、向こうで、カチャ、と食器の触れる音がした。
偶然だと思った。
けれど一度気になると、耳は勝手に拾い始める。
椅子を引くと、三秒後に向こうでも椅子が鳴った。窓を開けると、三秒後にサッシが鳴った。くしゃみをすると、三秒後、くぐもったくしゃみのような音がした。
数えたから分かる。いーち、にー、さん。そこで必ず鳴った。
リズムが同じなのではなかった。同じ動作を、三秒遅れで繰り返している。
◇
不思議なもので、そのときはまだ面白がる余裕があった。
夜中の一時に、意味もなく掃除機をかけた。三秒後、壁の向こうで掃除機が鳴った。
手を叩いた。パン。三秒後、パン。
壁を叩いてみようと思いついたのは、その前の晩に壁が二度鳴ったからだ。コン、コン、と。眠りかけの耳が拾って、朝には忘れていた。それを思い出して、俺は壁に指の背を当てた。
コン、コン。三秒後、コン、コン。
リズムを変えた。コン、ココン、コン。三秒後、コン、ココン、コン。
このあたりで、笑えなくなった。
最後に、声を出した。壁に向かって、おい、と。
三秒待った。
返ってきたのは声ではなかった。コン、と、壁が一度鳴っただけだった。
◇
翌日、管理会社に電話をかけた。騒音の相談という形で、隣の入居者について訊いた。
二〇三号室ですか、と担当は言った。あちらは空室ですよ。二年ほど前から。
受話器を置いてから、しばらく台所に立っていた。冷蔵庫の低い音が、やけに大きく聞こえた。
◇
それでも、一週間もすると慣れた。
実害がなかったからだ。音は三秒遅れて鳴るだけで、何かが増えるわけでも、減るわけでもなく、こちらへ入ってくるわけでもなかった。
駅から十五分、四万二千円。音だけを理由に手放せるほど、当時の俺に余裕はなかった。
イヤホンをして暮らすようになった。聞こえなければ、いないのと同じだった。
そうして半年近く、俺はあの部屋で普通に暮らした。朝に会社へ行き、夜にコンビニの袋を提げて帰り、たまにイヤホンを外して、三秒あとの音をぼんやり聞いた。
◇
十一月の平日だった。
目覚ましより早く目が覚めて、布団の中で天井を見ていた。寒くて、出たくなかった。あと五分だ、と思っていた。
壁の向こうで、ゴォ、と鳴った。
隣も朝飯か、と思いかけて、背中が動かなくなった。
——先に、鳴った。
俺はまだ布団の中にいる。ケトルには触れていない。半年のあいだ、一度もなかったことだった。向こうは必ず三秒あとで、先はいつも俺だった。
いーち。にー。さん。
そこから先の記憶がない。
気がつくと台所に立っていて、右手の指がケトルのスイッチから離れるところだった。手元でゴォ、と音が立ち上がり、壁の向こうの音と三秒ずれて重なった。
布団からそこまで、歩いてきたはずだった。十一月の床を、素足で——その冷たさが、どこにもなかった。
◇
そこからは早かった。
向こうが先に鳴る回数が増えた。椅子の音がすれば、三秒後に俺は椅子に座っている。水音がすれば、三秒後に俺は蛇口の前にいる。
動いている途中がない。音が鳴って、三つ数えると、俺はもうそうしてしまった側にいる。
いちばん悪かったのは、午前三時に玄関の鍵が鳴った夜だ。
カチャリ、と壁の向こうで鳴って——気がつくと俺は三和土に立っていた。自分の指がサムターンにかかっていた。開ける向きに、半分だけ回っていた。
外は十一月の夜で、俺は素足にTシャツ一枚だった。どこへ行くつもりだったのかは、俺の身体だけが知っていた。
その夜から、寝る前に鍵をガムテープで巻くようになった。剥がすには時間がかかる。三秒では剥がせない。それだけが頼りだった。
もうひとつ分かったことがある。音が耳に届かなければ、俺は動かない。イヤホンで雨音を流して寝た夜は、何も起きなかった。
だから対策は単純だった。聞かないことだ。
耳栓を買い、イヤホンの充電を切らさないようにした。二週間、何も起きなかった。
◇
十二月に入って最初の金曜、忘年会で終電近くに帰った。
イヤホンは充電を忘れていて、耳栓は部屋のどこかに転がって見つからない。一晩くらいは、と思って布団に入った。
夜中に目が覚めた。
壁の向こうで、サッシが鳴った。ベランダの窓を、ゆっくり開ける音だった。
二階だ。ベランダの外に、足を掛けられるものは何もない。
次に、手すりへ体重をかけるような音がした。ギシ、という、金属が撓む音。
俺は両手で耳を塞いだ。聞こえなければ動かない。頭の中でそれだけを繰り返した。掌が汗で滑って、自分の心臓の音が耳の内側でうるさかった。
塞いでいるのに、聞こえた。
サッシが鳴った。手すりが撓んだ。掌の外からではなかった。顎の骨の奥から、内側に向かって鳴った。
俺の骨の中で、誰かがベランダの手すりに足を掛けていた。
いーち。
にー。
◇
目が覚めると朝だった。
布団の中にいた。カーテンの隙間から光が入っていて、部屋は静かだった。夢だと思おうとした。
ベランダの窓が、十センチだけ開いていた。
ガムテープは剥がされて、床に落ちていた。丸めてあった。端を揃えて、丁寧に。
布団から出るとき、足の裏がざらついた。両方の足の裏が、乾いた細かい土で汚れていた。うちのベランダに土はない。
その日のうちに実家へ帰り、月末に部屋を引き払った。敷金のことは訊かなかった。
◇
いまは別の街のマンションに住んでいる。
角部屋を選んだ。隣は片側だけで、そこは業者の資材置きに使われていて、人はいない。上の階も空いている。
真似される相手も、真似する相手もいない。そう考えて選んだ。
三年あまり、何もない。
郵便受けに札を出していないので、宅配の人はいつも部屋番号で呼ぶ。二〇三号室さん、と、ドアの外から。
玄関の三和土には、ときどき乾いた土が落ちている。掃いても、何日かするとまた薄く溜まっている。この街は風が強いから、そういうこともあるのだろうと思っている。
はじめに書いた通り、この話にオチはない。人は死なないし、血も出ない。
ただ、話し終えたあとに妙な顔をされることがあって、その理由が、俺にはいまだに分からない。
◇
ここまで書いて、一度、手が止まった。
気がつくと台所に立っていて、ケトルが鳴っていた。
何のために沸かしたのかは、思い出せない。
この話を書いている間、時々、キーボードの音が聞こえました。
私の打鍵と、よく似た調子で。
……ワンルームの角部屋なんですけどね。
「夏のホラー2026」テーマ「音」参加作です。




