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三秒

作者: 悠暉
掲載日:2026/07/11

イヤホンでの閲覧は、おすすめしません。

四年前、初めて借りた部屋の話をする。


オチはない。人は死なないし、血も出ない。怪談としては失格だと思う。


ただ、この話を人にすると、たまに妙な顔をされる。それはまだ終わっていないんじゃないか、と言われたことが何度かある。


そのたびに俺は笑って、もう終わったよ、と答えることにしている。


    ◇


駅から歩いて十五分、築三十年の軽量鉄骨アパートだった。二階建ての二階、二〇二号室。


二階には二〇二と二〇三のふた部屋しかなく、一階は大家の物置と駐車場で埋まっていた。家賃四万二千円。


壁の薄さは内見のときから分かっていた。不動産屋が言葉を選ぶような間を置いて、生活音は、多少、と言った。多少のあとに続く言葉はなかった。


実際に薄かった。指の腹で押すと、板がわずかに撓んだ。


引っ越した初日から、二〇三号室の音はよく聞こえた。水道。戸棚の開け閉め。床のきしみ。テレビの音はしない。


それでも、人がそこで暮らしているという厚みのようなものは、壁の向こうにはっきりとあった。


うるさいとは思わなかった。布団に入って隣の床がきしむのを聞いていると、腹の底の力が抜けた。


初めての一人暮らしで、壁一枚向こうに人の気配があるのは、悪くなかった。


それに、生活のリズムがこちらと寸分違わなかった。


深夜にケトルの音がして、俺も湯を沸かしたくなる。向こうで水音が続いて、俺も歯を磨きに立つ。向こうの床が静かになる頃には、こちらも電気を消している。


同じ時間に同じことをする男が隣にいる、と思っていた。顔は一度も見たことがなかった。


    ◇


最初に妙だと思ったのは、住み始めてふた月ほど経った頃だ。


午前二時。腹が減って、ケトルのスイッチを押した。ゴォ、と加熱の音が立ち上がる。少し置いて、壁の向こうでも、ゴォ、と鳴った。


こんな時間に隣も夜食か、と思った。


麺をすすりながら、耳だけが壁のほうを向いていた。食い終わって、流しにどんぶりを置いた。三秒ほど置いて、向こうで、カチャ、と食器の触れる音がした。


偶然だと思った。


けれど一度気になると、耳は勝手に拾い始める。


椅子を引くと、三秒後に向こうでも椅子が鳴った。窓を開けると、三秒後にサッシが鳴った。くしゃみをすると、三秒後、くぐもったくしゃみのような音がした。


数えたから分かる。いーち、にー、さん。そこで必ず鳴った。


リズムが同じなのではなかった。同じ動作を、三秒遅れで繰り返している。


    ◇


不思議なもので、そのときはまだ面白がる余裕があった。


夜中の一時に、意味もなく掃除機をかけた。三秒後、壁の向こうで掃除機が鳴った。


手を叩いた。パン。三秒後、パン。


壁を叩いてみようと思いついたのは、その前の晩に壁が二度鳴ったからだ。コン、コン、と。眠りかけの耳が拾って、朝には忘れていた。それを思い出して、俺は壁に指の背を当てた。


コン、コン。三秒後、コン、コン。


リズムを変えた。コン、ココン、コン。三秒後、コン、ココン、コン。


このあたりで、笑えなくなった。


最後に、声を出した。壁に向かって、おい、と。


三秒待った。


返ってきたのは声ではなかった。コン、と、壁が一度鳴っただけだった。


    ◇


翌日、管理会社に電話をかけた。騒音の相談という形で、隣の入居者について訊いた。


二〇三号室ですか、と担当は言った。あちらは空室ですよ。二年ほど前から。


受話器を置いてから、しばらく台所に立っていた。冷蔵庫の低い音が、やけに大きく聞こえた。


    ◇


それでも、一週間もすると慣れた。


実害がなかったからだ。音は三秒遅れて鳴るだけで、何かが増えるわけでも、減るわけでもなく、こちらへ入ってくるわけでもなかった。


駅から十五分、四万二千円。音だけを理由に手放せるほど、当時の俺に余裕はなかった。


イヤホンをして暮らすようになった。聞こえなければ、いないのと同じだった。


そうして半年近く、俺はあの部屋で普通に暮らした。朝に会社へ行き、夜にコンビニの袋を提げて帰り、たまにイヤホンを外して、三秒あとの音をぼんやり聞いた。


    ◇


十一月の平日だった。


目覚ましより早く目が覚めて、布団の中で天井を見ていた。寒くて、出たくなかった。あと五分だ、と思っていた。


壁の向こうで、ゴォ、と鳴った。


隣も朝飯か、と思いかけて、背中が動かなくなった。


——先に、鳴った。


俺はまだ布団の中にいる。ケトルには触れていない。半年のあいだ、一度もなかったことだった。向こうは必ず三秒あとで、先はいつも俺だった。


いーち。にー。さん。


そこから先の記憶がない。


気がつくと台所に立っていて、右手の指がケトルのスイッチから離れるところだった。手元でゴォ、と音が立ち上がり、壁の向こうの音と三秒ずれて重なった。


布団からそこまで、歩いてきたはずだった。十一月の床を、素足で——その冷たさが、どこにもなかった。


    ◇


そこからは早かった。


向こうが先に鳴る回数が増えた。椅子の音がすれば、三秒後に俺は椅子に座っている。水音がすれば、三秒後に俺は蛇口の前にいる。


動いている途中がない。音が鳴って、三つ数えると、俺はもうそうしてしまった側にいる。


いちばん悪かったのは、午前三時に玄関の鍵が鳴った夜だ。


カチャリ、と壁の向こうで鳴って——気がつくと俺は三和土に立っていた。自分の指がサムターンにかかっていた。開ける向きに、半分だけ回っていた。


外は十一月の夜で、俺は素足にTシャツ一枚だった。どこへ行くつもりだったのかは、俺の身体だけが知っていた。


その夜から、寝る前に鍵をガムテープで巻くようになった。剥がすには時間がかかる。三秒では剥がせない。それだけが頼りだった。


もうひとつ分かったことがある。音が耳に届かなければ、俺は動かない。イヤホンで雨音を流して寝た夜は、何も起きなかった。


だから対策は単純だった。聞かないことだ。


耳栓を買い、イヤホンの充電を切らさないようにした。二週間、何も起きなかった。


    ◇


十二月に入って最初の金曜、忘年会で終電近くに帰った。


イヤホンは充電を忘れていて、耳栓は部屋のどこかに転がって見つからない。一晩くらいは、と思って布団に入った。


夜中に目が覚めた。


壁の向こうで、サッシが鳴った。ベランダの窓を、ゆっくり開ける音だった。


二階だ。ベランダの外に、足を掛けられるものは何もない。


次に、手すりへ体重をかけるような音がした。ギシ、という、金属が撓む音。


俺は両手で耳を塞いだ。聞こえなければ動かない。頭の中でそれだけを繰り返した。掌が汗で滑って、自分の心臓の音が耳の内側でうるさかった。


塞いでいるのに、聞こえた。


サッシが鳴った。手すりが撓んだ。掌の外からではなかった。顎の骨の奥から、内側に向かって鳴った。


俺の骨の中で、誰かがベランダの手すりに足を掛けていた。


いーち。


にー。


    ◇


目が覚めると朝だった。


布団の中にいた。カーテンの隙間から光が入っていて、部屋は静かだった。夢だと思おうとした。


ベランダの窓が、十センチだけ開いていた。


ガムテープは剥がされて、床に落ちていた。丸めてあった。端を揃えて、丁寧に。


布団から出るとき、足の裏がざらついた。両方の足の裏が、乾いた細かい土で汚れていた。うちのベランダに土はない。


その日のうちに実家へ帰り、月末に部屋を引き払った。敷金のことは訊かなかった。


    ◇


いまは別の街のマンションに住んでいる。


角部屋を選んだ。隣は片側だけで、そこは業者の資材置きに使われていて、人はいない。上の階も空いている。


真似される相手も、真似する相手もいない。そう考えて選んだ。


三年あまり、何もない。


郵便受けに札を出していないので、宅配の人はいつも部屋番号で呼ぶ。二〇三号室さん、と、ドアの外から。


玄関の三和土には、ときどき乾いた土が落ちている。掃いても、何日かするとまた薄く溜まっている。この街は風が強いから、そういうこともあるのだろうと思っている。


はじめに書いた通り、この話にオチはない。人は死なないし、血も出ない。


ただ、話し終えたあとに妙な顔をされることがあって、その理由が、俺にはいまだに分からない。


    ◇


ここまで書いて、一度、手が止まった。


気がつくと台所に立っていて、ケトルが鳴っていた。


何のために沸かしたのかは、思い出せない。

この話を書いている間、時々、キーボードの音が聞こえました。

私の打鍵と、よく似た調子で。

……ワンルームの角部屋なんですけどね。


「夏のホラー2026」テーマ「音」参加作です。

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