マッチポンプ多様性
しばらく前に「多様性」が強く叫ばれた時期があったと記憶しているが、途中からマッチポンプのように見えて私はよく分からなかった。
私からすると、多様性はそこら辺に在り、みんな、多様なあり方の隣人を持ちながら、今日を生きている。その隣人と自分を隔てる仕切りには、「言葉にされていないもの」や「言語化されてはいけないもの」がある。
そして、この仕切りには重要な役割があり、人々が分断・孤立してしまわないように、お隣さんの姿をぼやかす役割を持っていた。
しかし、多様性を叫ぶ方々が理解を深める目的で叫んだ「なにかの性質」や「誰かの生態」が、その仕切りを破壊してしまった。
落ち着きがない人はADHDだし、人の気持ちがわからない人はASDだ。怒った声に敏感な人はHSPで、勉強ができるならギフテッド。
そんなふうに、隣人に興味がある人々は、公開された「なにかの性質」や「誰かの生態」を元に、隣人の正体を解き明かそうとした。
これは悪意ではなく、善意となるはずだった。
すると、隣人の中から「やめてほしい」「前より、生きづらくなった」という人々が現れた。
その様子を見て、多様性を叫ぶ方々は「やはり⋯⋯多様性を守る必要がある」と使命感に燃え、さらに情報を公開した。
◇
私はそのような流れがマッチポンプに見えた。みなが知りたかったのは、「隣人の正体」ではなく、「隣人と仲良く過ごす方法」だったのではないだろうか?
たとえばだが、「いろんな動物が暮らす村」があったとする。
そこでは、ゾウやキリン、カバにライオンといった多様な動物が暮らしていて、みんなの「よく分からないが相手は悪い奴ではないだろう」という共通認識が村の平穏を作り出していた。
すると、どこからか現れた迷子の生き物が、「ライオンは肉食で、オスは働かない!カバの気性は獰猛で、うんちを食べる!」と叫び始めた。
それを聞いた、村で暮らしていた動物たちは、だんだん隣人である他の種族たちを疑うようになってしまった。
動物たちは、そんなことが知りたかったわけでもないのに、あの生き物の「叫び声」が大きすぎて嫌でも耳にはいる。
いろんな動物が暮らしていた村は、次第に特定の種族だけが暮らす村になり、ライオンやカバは独自の村を作るしかなかった。
そして、ライオンの村やカバの村にも、あの生き物が現れて、「狩りのときに集中力を欠くのはADHD!みんなと仲良くできないのはASD!」と叫んでいる。
なぜなら、その生き物は「『いろんな動物が暮らす村』が崩壊したのは、他種族への理解が足りなかったからだ」と思っているからだ。
多様性はどこにあったのだろうか?
◇
私からすると、そんなマッチポンプ式の多様性って「多様性」ではないように思えた。多様性はそこらに在るものだから。
多様性が成り立たないのは「接し方」が分からないからであって、その人たちの生態や気性を知ったところで、接し方が分からないことにはどうしようもない。
接し方が分からないまま、「私たちは辛い」とグイグイ来て言われると「嫌い」になってしまう。
だって、みんなそれなりに辛いから。
その嫌っている理由を考えず、その嫌がる様子だけを切り取って、鼻を膨らませながら「多様性」を叫ぶのは違うように思う。
私が知りたかったのは「接し方」だ。
隣人を決めつけるための武器を欲したわけではない。
【あとがき】
多様性を叫ぶ人のなかにも、切実な叫びもあると思う。ただ、「多様性」に社会的ステータスや金銭が寄ってきたとき、掲げられた人道的多様性はただの「商品」になってしまったのだろうな、と思う。




