感受性と読解力は育てるもの?──作品から道徳を学べない人について
感受性と読解力は育てていくものだろうか。それとも自身の元々の性質で得られるものなのだろうか。
そして、作品から得る学びについて触れていこう。ただ、この話は研究結果やそういう確証が得られるほどの論述ではなくただ私の実体験から考えられたものだ。
一つ、私の親の例を挙げようと思う。
私の親は学校の提出物にも介入し自身の存在を子供を使ってアピールするタイプの人間だった。辛辣に言えば子供をアクセサリーの一部へと利用できる人間である。
事前に言っておくと私の親は決して馬鹿ではない。客観的に見ても頭はよく、大学も有名大学ではある。数十年前の大学なんて今より進学確率が低かったことを考慮すれば頭良いと言ってしまってよいのではないか。そして何より私の幼少期の勉強は親によって教え込まれたものである。親のお陰、と無下に言い捨てられてしまったこともあったが少なくとも人に教えられるほどには頭が良い。
また、大の読書好きでもある。私が幼少期から本に触れこうして本を好きになることができたのは親のお陰といっても過言ではない。漫画禁止や、読みたいといった本を無視し小難しそうな本を与えてきたりと多少偏りはあったものの親自身も本を読むことが好きだった。
話を戻そう。こう聞くと親は決して読解力のない人間には捉えられないだろう。実際国語の勉強を教えてもらっていた時も丁寧に教えてくれたので決して読解力がないわけではないと私も思っていた。
しかし、最近同じ作品の感想を聞くと根本的にずれていることを感じるのだ。
いくつかの例を挙げていこう。まずは、小学一年生で書いた読書感想文の話だ。
前述したとおり私の親は提出物にも介入してくる人間だ。小学一年生で出された読書感想文の課題。その題材の本も親に勝手に選ばれた。そこで選ばれた本が太宰治の「走れメロス」である。
今こそ太宰治は好きだが当時はこの小説を読んで何も感じなかった。意味は理解できるが感想というものが生まれてこなかった。また親というものも、文学が好きだとか太宰治が好きだとかそういうわけではなくきっと有名文学であり小学一年生でもこんなに難しい作品を読めていることをアピールしたかったのだろう(実際私は読むだけならば何でも読めた)
私は自分の感想がもし生まれていたとしてもそれを原稿用紙には書かなかったと思う。それは、親の言うことがすべてだったからだ。親の言うアドバイスは強制させる強さを持ち言われるがままに提出物を出す。小学生の自由研究もやりたいことがあってもそうしてきた。そして今高校の自主探究でさえもその名残は残ってしまっている。
そんな話はどうでもいい。つまり、いちいち親の指示がなければ自分の考えを書くことができなかった当時はそう、最初に何を書くべきか親に聞いた。「走れメロスの感想」をどう書けばいいか親に助言を仰いだのだ。
親からの助言で書き上げた読書感想文はざっとこのような内容だった。途中、メロスが山賊に対して格闘し切り抜けるシーンがある。そこを抜擢し「私も鍛錬をしたらこのように切り抜けられるのではと思ったので剣道を頑張ろうと思いました」だった(当時私は剣道を武道館で習っていた)
小学一年生の書く感想文ならばまだ微笑ましい程度だったのかもしれない。それにしても何というか偏りのある感想だがそれは親が私に合わせてくれたともいえる。ただ、中学生で走れメロスを授業で読み新たに考え直したり考察サイトを漁るうちにこのことを思い出していた。私は思いつかない考えどころかこの感想は作品に向き合っているのかでさえ考えた。ちなみに、今考えても走れメロスの感想は明確に生まれないままである。それどころか太宰治の実体験とも重ね考えてしまう。メロスは意味の分からないやつだ。
二つ目の例を挙げよう。これは作品名を覚えていないのであいまいな説明になるが赦してほしい。
おそらく、メロスの頃と変わらない年齢。小学二年生頃、塾での国語の授業だった。タクシー運転手が主人公だったと思う。最後は心温まる感動な終わりだった。そして、その文章を読んだ感想文を書けという課題が課された。
私はよくある感想になるが感動したことを描こうとした。しかしこれも前述したとおり一旦は親に従うことを選択した(課題が出たことを言わなければこれは回避できたことである。残念ながらその頃の私は素直だったのでその選択肢がなかった。むしろ今は素直さは消え親に対しては守秘を貫いている)
そこでの親の助言はこうだった。覚えてる限りだが、主人公が夜道でタクシーを走らせ人を轢きそうになるシーンがある。すんでのところでブレーキを押し回避する。その描写に着目しこういったのだ。「このようにとっさの判断が出来なければ人を引いてしまっていた。とっさの判断をするには勉強が必要である。なので私は勉強をしようと思った」これは自分でも支離滅裂だなと思った。しかし、当時ピュアピュアのわたしはこう書いたと嘘をついて自身の感想を書けばいいもののこれを書いて先生に提出してしまったのだ。勿論、先生にはこれは違うじゃんと言われた。いくら感想は人それぞれといってもあまりにもつながりがなさ過ぎるのだろう。話の一番伝えたい大切な場所、本筋さえも逃している感想のため尚更だ。
親に授業で先生にどういう反応をされたかを聞かれた。このように親は子供が褒められている話を聞くと喜ぶ。その感情は私が矛先ではなく自分自身でしかなかったことに気づくのは数年後なのだが、違うと指摘されたことは話さなかった。それを言って先生が否定されることが怖かったのだ。そして、先生にそう指摘されたことでやっぱり違うじゃん!と親にやるせない怒りが湧き泣きそうになった自分も思い出したくなかった。
三つ目の例を挙げよう。これは比較的最近の話だ。
アニメ映画の「鬼太郎誕生ゲゲゲの謎」を見た感想だ。親の方が先に見ていたので親の感想を事前に聞きながら映画館へ行った。私の感想は省くが未だにあの村での結末を引きずりながらもキャラクターの魅力に引き込まれイベントに行くほどハマっている。
さて、親の感想は正直支離滅裂すぎて説明が難しいが、特典として渡されたポストカードを見て私がこれはどこの場面かと聞くと「戦争の場面」と答えたのだ。見た後ならわかるが、ゲゲ郎と水木(作中では相棒の二人)の二人を描き、映画の結末を知っている物なら「うわぁ……」と引きずるような場面だった。残念ながらこのイラストに戦争要素は含まれていない(水木というキャラクターが戦争体験者である描写が映画内ではあるがその特典とは全く無関係である)
肝心の親の感想はどちらかというと途中の残酷描写に焦点を当てていた。少々特殊な感想でありネタバレを踏むため明確には書けないが、その残酷描写で心を痛めるのではなくむしろ嬉々とする感想だった。私には到底信じられない。感想は人それぞれである。それは頭では分かっているがこうも根本的に違うとはっきりと否定したくなってしまう。勿論、相手からしたら私のような感想も否定の否定なのだろう。事実、私は面と向かって否定できる覚悟はないが親は何度か私の考えや趣味を否定している。お互いさまというやつだ。
さて、ここでよく言われる「どうしてこの作品を読んでなお貴方はこういう行動ができるのですか」という作品から何を学んだかについての話をしようと思う。例えば、仮面ライダーやプリキュア。小さい頃に話された童話。あれらには基本思いやり、もしくは悪いことをしたら悪いことが返ってくるなどという教育性が含まれている(決して仮面ライダーやプリキュアの作品要素がそれだけではないし物語として楽しむのがほとんどだと思われる。しかしながら、悪がはびこる結末ではなく主人公側が勝利をつかむのはある種のメッセージ性である)また、わかりやすく言えば世界平和をうたい、思いやりに重きを歌うアーティストを好みながらも他者に敵対的な人物に対して「貴方はあのアーティストの作る曲から何を学んだのですか」と言いたくなる人は多いと思う。
これに対して、知り合いの一人がそういう言葉が好きではない、と言っていた。「裏を返せばそれはすべての作品から何かを学ばなければいけないし、悪い作品を見れば悪影響とも言えてしまう。所詮それらは娯楽だ」と言っており、それを聞いて私はなるほどなと思った。もっともである。我々はメッセージ性や学びに縛られずに作品を楽しむだけで良いのだ。
しかし、例外や限度はある。どうしても私は関連性を持たせてしまう。あれだけ思いやりに溢れた作品が好きと言いながら犯罪を起こす人を心底軽蔑するだろう。しかし、それはそもそもその作品の受け取り方がずれているのだろう。私の親が私では理解できない感想を言うように、物語の本筋を受け取らず自分に都合のいい場所だけ切り取りそれた感想を抱く。そんな感想では到底、人を思いやる大切さなどは受け取れない。だからこそ平気で何を学ばずに好き勝手行動ができるのだ。
私の親が読んできた作品から全て大事なことを受け取ってきていたならば私にあれ程心のないことを言わないはずだ。受け取ったうえでそういう行動ができるのではなく、受け取れてないからこそそういう行動をしてしまうのだ。
よく、自分も家族に手を上げながらも、家族に手を上げたニュースを見て「ひどい親がいるもんだなあ」と呟く親がいる。私の親もこのタイプであるが、そういう人は入ってくる情報を自分に置き換えて考えないどころか何も考えていないのだ。だからこそ、「なぜあれだけ素敵な作品に感動しながらそんなひどいことができるのですか」という疑問が生まれてしまう。そもそも、彼らは素敵な場面に感動しているわけではなく別の描写で感動している可能性が高い。また、それらを自身に置き換えずにただ見つめているだけだと思われる(否定はしないが我々とは感覚が違うのでそれこそ理解はできない)自分に置き換えて考えることのない読解はいわゆる「感受性が低い」ともいえるだろう。
冒頭に問いとして挙げた「感受性と読解力は育てていくものだろうか。それとも自身の元々の性質で得られるものなのだろうか」という話を最後にしようと思う。
ここまで通した話で果たして親は読解力があったのだろうか。国語を人に教えることができても作品から感じ取る感想が不思議なところから切り取り特殊な感想を抱いてしまうのは果たして読解力が高いと言えるのだろうか。また、作品の描写を考えずに悲しむべきところに喜ぶのは感受性が高いと言えるのだろうか。
私の話となるが、私だって感受性と読解力が高い、とは言い難い。感受性が高い人々はアニメでキャラクターが傷つくシーンで心が痛むし、読解力が高い人は作者の主張や描かれていない行間でさえも読み取る。そこまででないとはいえ、私は親のような作者の主張から外れた急に勉強をしようと思いましたなんて感想を抱かないし、残酷描写でむしろ面白いといった感想は抱かない。(勿論作者の主張を受け取ることがすべてにおいて大事と言いたいわけではないし残酷描写で面白いと感じるのは歴史の授業で第二次世界大戦おもしれーというのと変わらないだろうと言われればそれまでだ)
それほど親の感想と私の感想は乖離している。むしろ、そんな親の感想を教育として受け取りながら私は別の感想を抱くようになっている。これを見ると、私の「感受性と読解力」はどこで得られたものなのだろう。育てていったもの、だとしたら親からの助言では育てられていない。自身で作品を読んでいったり学校でのコミュニティにおいて育てられたものなのだろうか。これが私の元々の性質だとしたら尚更おかしい。なぜなら私はこのように親との関係で悩んだことで知った感情も多くあるからだ。例えば昔は笑い飛ばせていた描写も自身に置き換えることで納得をする。大人になったからこそ変わる感想、というのがこの部類だろう。ただ、親のような人物はいくら自分が苦労した経験を経てもそれが刺激や影響にならずにこうした人間になっている。だとしたらもともとそういう性格、と言ってしまえるのだろうか。先天的サイコパス、というか元々親には「読解力と感受性がない」と言えるのだろうか。しかし、それはまた否定されることになる。元々の性格が遺伝子で決まるとすればその子供である私も似たような感想を抱いていなければいけない。
親がこういった感想を抱くようになってしまったのは(極端に言えば親が人の心のない性格になってしまったのは)いわゆる家庭環境のせいだと考えている。とすれば、感受性と読解力は育てていくものとなる。聴く話によると親の親も結構心を痛める話が多く、連鎖的というか悲劇の連続を連想させる。しかし、そんな親の元に生まれた私は今のところ親と同じように性格の悪いふるまいをしないようにしている(結局親子だから似てしまっている、と言える場合もあるだろうがそういわれないように振舞っているつもりである)こうして私のように親の影響を受けずに成長する選択肢もあったはずだ。そんな性格に成長しなかったのは親がもともと持っていた性質故だったのだろうか。それともそう否定できないほどに与える影響が強かった可能性もある。おそらくこっちの方が大きいと思うがその場面を知らない私には何も言えないし、私からしたらひどいことをしてくる親しか見えないため親の環境がどうのこうのなんて究極的に言えばどうでもいい。
私の本音では、元々の性質、というのは否定しておきたい。これを言えば私は親の遺伝子により親のような人の心のない言葉を言えるような人間になってしまうことになる。それは私の個人的な私情で否定しておきたい。しかし、悲しいかな否定すればするほど似てくるというのは家庭環境の連鎖によってあるあるとして証明されてしまっている。
ちなみにだが、こうしてエッセイを書いたり小説を書いたりすることは小学三年生から始め一年後にすぐに親に否定され書いていたノートは全てしまわれた(捨てられないだけ親は良い人なのだろう)しかし、私はそれ以降も裏紙に書いてそれをノートにし目立たないように隠したり、パソコンを得てからはすべてはデータ内に管理しこうしてなろうに投稿している。私は自身の環境に逆らう選択肢を選んだ。
親だって自身の親から縁を切る選択肢を選んでいる。それでもなお、こうして私のことを否定するのは根本的に変われなかったのか。
私がもし、感受性や読解力が低かったら、本やアニメから何も学べなかったら、今こうして文字を書くことを趣味としていないし親への反論もこうため込まない。そして、友人たちに深く感謝し傷つけないように思いやる心も持ち合わせられなかった。ガキの頃なんて何も育っていない。平気で人を傷つけてきた。幼児はよく遊びで必死に生きるアリを靴で踏みつぶす。いつしかそのことをやめ、人に気を使えるようになった私は間違いなく「性質」だったからではなく「育った」からである。感受性や読解力を育ててきた。そしてこれからも育て続け新しい何かを学ぶことによっていろいろな感情を知っていくのだと思う。
そしていつか私も親の考えることを理解できる日が来たら、その時に初めて親と腹を割って話せるのだと思いたい。




