表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/20

第9話(最終話):肯定――満月の夜、百回目の“跳ねてもいい”

満月の夜は、静かだった。

雲が薄く、月は白く、森は影を深く落としている。


治療師は来なかった。

正論の声がないぶん、世界は静かだ。

でも、静かだからこそ、心の音が聞こえる。


私は火鉢のそばで丸くなり、息を整えた。

跳ねない。

跳ねない。

私は、ここまで来た。


机の上には札がある。

“残す”。


線は——数えない。

数えると跳ねる。

でも、端の方にだけ、細い数字が小さく刻まれていた。

グレイが、私に見えないように。

でも、見たいなら見られるように。


私は見なかった。

見ないことを、選んだ。


グレイが、火鉢の前に座る。

いつもの距離。

いつもの声。


「……今日で、満月だ」


私は頷く。

胸が少し揺れる。

でも大丈夫。

彼がいる。


「……ルナ」


今日の分。

いつもと同じ。


私は返事をする。


「……うん」


グレイは続けた。


「本当は、もう少し呼びたかった」


私は息を止めた。

それは言葉にしない人の、言葉。


心が揺れた。

揺れが跳ねへ変わりそうになる。


私は布を握った。

音を立てずに。

合図。


グレイは言葉を止め、ゆっくり息を吐いた。

それから、火鉢の炭を少しだけ寄せ、火を穏やかにする。

私の心が落ち着くように。


「……跳ねるなら、跳ねてもいい」


私は目を見開いた。


「だめ、だよ」


「違う」


グレイは静かに言った。


「跳ねるのがだめなんじゃない。

——跳ねる前に、ひとりになるのがだめだ」


その言葉が、私の胸を打った。

衝撃ではなく、温かい重み。


「お前は、ここまでひとりじゃなかった。

だから、ここまで来た」


私は、涙が出そうになった。

涙は跳ねる。

でも——涙は、生きている証拠でもある。


私は小さく言った。


「……私、消えない?」


グレイは少しだけ目を伏せた。

そして、札を手に取った。


“残す”。


その裏を見せる。

そこには、もう一つの文字が彫られていた。

表からは見えない、内側の文字。


——“帰る”。


「呪いは、消えるためじゃない」


グレイが言う。


「お前を、どこかへ帰すための条件だ」


私は言葉がわからなくて、首をかしげた。


グレイは続けた。


「……お前は、拾われる前から“どこかの子”だった。

名前も、居場所も、薄いだけで。

俺は……それを、残す」


残す。

帰る。

呼ぶ。

全部が、一本の線でつながった。


そしてその瞬間。

私の心が——大きく跳ねた。


怖さじゃない。

嬉しさでもない。

“ここにいていい”という肯定のせいで。


跳ねた回数が増えた。

それが怖くて、私は震えた。


でも、グレイは動じなかった。

ただ、いつもの距離のまま、同じ声で言った。


「大丈夫だ」


治療師の正論はここにない。

でも、もっと確かなものがあった。

この狼の一貫した行動。


「お前は……消えない」


彼はゆっくり立ち上がり、扉を開けた。

月の光が差し込む。

冷たいのに、澄んでいる。


「外に出る」


私は自分から外套に入った。

慣れた動作。

でも今日は、慣れが怖くなかった。

慣れの先に、未来がある気がしたから。


森の広場に出ると、満月が真上にあった。

白い。

静か。

世界が大きく息をしているみたいだ。


グレイは外套を少し開き、私が月を見られるようにした。

触れない。

でも、見せる。


私は月を見上げた。

胸がまた揺れた。

跳ねた。

でも——それは悪いことじゃないと、初めて思えた。


そのとき、森の奥から小さな音がした。

鈴の音。

誰かが来る。


治療師だった。

いつもの冷たい正しさの顔。


「……どうだ」


グレイは短く答える。


「生きてる」


治療師は私を見て、淡々と言った。


「満月の条件は果たした。

——消えるのではなく、“戻る”段階だ」


戻る。

私は息を呑んだ。


治療師は続ける。


「お前は、ここに来た。

ここで生きた。

だから、帰れる。

最初の場所へ。

……“現実”へ」


現実。

その言葉が、どこか懐かしい。


私はふと、思い出しそうになる。

あたたかい部屋。

別の火。

別の名前。


グレイの声が、静かに私を引き留めた。


「……ルナ」


今日の分。

最後の“今日の分”。


私は返事をする。


「……うん」


胸が跳ねた。

でも怖くない。

涙が出た。

でも息は乱れない。


治療師は言った。


「帰るなら、最後にひとつだけ。

——望むものを言え」


私はグレイを見た。

言葉が出ない。

跳ねそうだ。

でも、言いたい。


私はゆっくり息を吸って、吐いて、言った。


「……あなたが、しあわせでいて」


グレイは一瞬だけ目を見開いた。

それから、笑わなかった。

代わりに、札をそっと胸に当てた。

触れない距離のまま。


「契約だ」


「……うん」


月の光が、森を白く染める。

私の視界が、少しずつ薄くなる。


消えるのではない。

戻る。


私は最後に、火の匂いを吸った。

スープの湯気を思い出した。

外套の温度を胸に刻んだ。


そして——私は、確かに“ここにいた”。


(最終話・後書きのような一段落)


物語が終わるとき、灯りはすぐには消えません。

火鉢の炭みたいに、静かに残って、次の朝のために温度を守ります。


もし今夜、あなたの胸が少しだけ揺れたなら。

それは弱さではなく、ちゃんと生きている証拠です。


ページを閉じても、外の世界は続きます。

でも、あなたの手のひらには、まだ小さな火がある。

——どうかそれを、急いで消さないで。


あなたの現実にも、明日がやさしく灯りますように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
最終話は、ルナが満月の条件を越え、“生きることの肯定”を得る瞬間が描かれる回。 グレイの一貫した距離感と配慮が、ルナに安心と自己肯定を与え、読者も温かく包まれる結末になっています。 恐怖や制約の物語が…
「跳ねてもいい」という許しが、これほど大きな救いになるとは。消えるのではなく“戻る”という結末は、読者の現実にもそっと手を伸ばしてくれます。後書きまで含めて、完璧な余韻でした。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ