第9話(最終話):肯定――満月の夜、百回目の“跳ねてもいい”
満月の夜は、静かだった。
雲が薄く、月は白く、森は影を深く落としている。
治療師は来なかった。
正論の声がないぶん、世界は静かだ。
でも、静かだからこそ、心の音が聞こえる。
私は火鉢のそばで丸くなり、息を整えた。
跳ねない。
跳ねない。
私は、ここまで来た。
机の上には札がある。
“残す”。
線は——数えない。
数えると跳ねる。
でも、端の方にだけ、細い数字が小さく刻まれていた。
グレイが、私に見えないように。
でも、見たいなら見られるように。
私は見なかった。
見ないことを、選んだ。
グレイが、火鉢の前に座る。
いつもの距離。
いつもの声。
「……今日で、満月だ」
私は頷く。
胸が少し揺れる。
でも大丈夫。
彼がいる。
「……ルナ」
今日の分。
いつもと同じ。
私は返事をする。
「……うん」
グレイは続けた。
「本当は、もう少し呼びたかった」
私は息を止めた。
それは言葉にしない人の、言葉。
心が揺れた。
揺れが跳ねへ変わりそうになる。
私は布を握った。
音を立てずに。
合図。
グレイは言葉を止め、ゆっくり息を吐いた。
それから、火鉢の炭を少しだけ寄せ、火を穏やかにする。
私の心が落ち着くように。
「……跳ねるなら、跳ねてもいい」
私は目を見開いた。
「だめ、だよ」
「違う」
グレイは静かに言った。
「跳ねるのがだめなんじゃない。
——跳ねる前に、ひとりになるのがだめだ」
その言葉が、私の胸を打った。
衝撃ではなく、温かい重み。
「お前は、ここまでひとりじゃなかった。
だから、ここまで来た」
私は、涙が出そうになった。
涙は跳ねる。
でも——涙は、生きている証拠でもある。
私は小さく言った。
「……私、消えない?」
グレイは少しだけ目を伏せた。
そして、札を手に取った。
“残す”。
その裏を見せる。
そこには、もう一つの文字が彫られていた。
表からは見えない、内側の文字。
——“帰る”。
「呪いは、消えるためじゃない」
グレイが言う。
「お前を、どこかへ帰すための条件だ」
私は言葉がわからなくて、首をかしげた。
グレイは続けた。
「……お前は、拾われる前から“どこかの子”だった。
名前も、居場所も、薄いだけで。
俺は……それを、残す」
残す。
帰る。
呼ぶ。
全部が、一本の線でつながった。
そしてその瞬間。
私の心が——大きく跳ねた。
怖さじゃない。
嬉しさでもない。
“ここにいていい”という肯定のせいで。
跳ねた回数が増えた。
それが怖くて、私は震えた。
でも、グレイは動じなかった。
ただ、いつもの距離のまま、同じ声で言った。
「大丈夫だ」
治療師の正論はここにない。
でも、もっと確かなものがあった。
この狼の一貫した行動。
「お前は……消えない」
彼はゆっくり立ち上がり、扉を開けた。
月の光が差し込む。
冷たいのに、澄んでいる。
「外に出る」
私は自分から外套に入った。
慣れた動作。
でも今日は、慣れが怖くなかった。
慣れの先に、未来がある気がしたから。
森の広場に出ると、満月が真上にあった。
白い。
静か。
世界が大きく息をしているみたいだ。
グレイは外套を少し開き、私が月を見られるようにした。
触れない。
でも、見せる。
私は月を見上げた。
胸がまた揺れた。
跳ねた。
でも——それは悪いことじゃないと、初めて思えた。
そのとき、森の奥から小さな音がした。
鈴の音。
誰かが来る。
治療師だった。
いつもの冷たい正しさの顔。
「……どうだ」
グレイは短く答える。
「生きてる」
治療師は私を見て、淡々と言った。
「満月の条件は果たした。
——消えるのではなく、“戻る”段階だ」
戻る。
私は息を呑んだ。
治療師は続ける。
「お前は、ここに来た。
ここで生きた。
だから、帰れる。
最初の場所へ。
……“現実”へ」
現実。
その言葉が、どこか懐かしい。
私はふと、思い出しそうになる。
あたたかい部屋。
別の火。
別の名前。
グレイの声が、静かに私を引き留めた。
「……ルナ」
今日の分。
最後の“今日の分”。
私は返事をする。
「……うん」
胸が跳ねた。
でも怖くない。
涙が出た。
でも息は乱れない。
治療師は言った。
「帰るなら、最後にひとつだけ。
——望むものを言え」
私はグレイを見た。
言葉が出ない。
跳ねそうだ。
でも、言いたい。
私はゆっくり息を吸って、吐いて、言った。
「……あなたが、しあわせでいて」
グレイは一瞬だけ目を見開いた。
それから、笑わなかった。
代わりに、札をそっと胸に当てた。
触れない距離のまま。
「契約だ」
「……うん」
月の光が、森を白く染める。
私の視界が、少しずつ薄くなる。
消えるのではない。
戻る。
私は最後に、火の匂いを吸った。
スープの湯気を思い出した。
外套の温度を胸に刻んだ。
そして——私は、確かに“ここにいた”。
(最終話・後書きのような一段落)
物語が終わるとき、灯りはすぐには消えません。
火鉢の炭みたいに、静かに残って、次の朝のために温度を守ります。
もし今夜、あなたの胸が少しだけ揺れたなら。
それは弱さではなく、ちゃんと生きている証拠です。
ページを閉じても、外の世界は続きます。
でも、あなたの手のひらには、まだ小さな火がある。
——どうかそれを、急いで消さないで。
あなたの現実にも、明日がやさしく灯りますように。




