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第7話:喪失――札がほどけ、名前が消える

満月まで、あと少し。

森の空気が変わった。

光が鋭くなり、匂いが甘くなる。


治療師は言った。

「前後は刺激を与えるな」


グレイはより慎重になった。

呼ぶ時間も、声も、距離も、さらに“同じ”に寄せていく。

同じを極める。


その日、私たちは森の外れへ行った。

炭の補給。

薬草の補給。

生活を続けるための、必要な仕事。


途中、風が強くなった。

木が鳴り、葉がざわめき、空が急に暗くなる。


私は外套の中で、木片を握った。

落とす準備。


そのときだった。

外套の口に結ばれていた、あの白い札——“呼ぶ”の札が、風に煽られてほどけた。


ひらり。


白いものが、空へ舞う。


——落ちる。


私の心が跳ねた。

恐怖じゃない。

“失う”という予感が、一瞬で胸を打った。


「……っ!」


私は木片を落とそうとした。

でも指が震え、落ちない。


グレイが気づいた。

すぐに手を伸ばす。

札を掴もうとする。


しかし、風が一足早かった。

札は泥水の流れる小さな溝へ落ちて、白が濁りに沈んだ。


グレイの肩が、ほんの少しだけ硬くなる。

それだけで、彼が焦ったのがわかった。


焦りは、私の心を跳ねさせる。

跳ねる。

数が増える。


私は息を吸って、吐いた。

落ち着け。

私は選ぶ。

いま、跳ねない。


グレイは溝へ膝をつき、手を突っ込んだ。

泥を掻き分ける。

白い札を探す。


でも、見つからない。

流れが早い。

濁りが深い。


治療師の言葉が刺さる。

“絆は喪失になる”。


私は、心が揺れるのを感じた。

揺れが、跳ねへ変わりそうになる。


だから私は、やっと木片を落とした。


ころん。


音は小さいのに、グレイは即座に止まった。

手を引き、私を見る。


「……大丈夫か」


私は頷きたかった。

でも頷いたら涙が出そうだった。


言葉を選ぶ。


「……札、なくなった。

名前……消えた?」


グレイは少し黙った。

そして、静かに言った。


「札は道具だ。

——名前は消えない」


でも、私は知っている。

札がなければ、印がつけられない。

線が増えない。

“積み上げた日”が見えなくなる。


そして、もっと怖いのは。


この出来事が、満月の前後に起きたこと。

刺激。

跳ねた回数が増えたかもしれない。


治療師の正論が、正しく迫ってくる。


私は震える息で言った。


「……私、跳ねた?」


グレイは即答しなかった。

その沈黙が、私をさらに揺らした。


——やだ。

怖い。

跳ねたくない。


グレイは外套を少し開き、私が自分から出られるようにした。

抱かない。触らない。

でも、逃げない。


「……跳ねた」


心臓が、きゅっと縮んだ。


「でも、一回だ」


一回。

数字が、私を刺すのではなく、支えになった。

一回なら。

一回なら、まだ。


グレイは立ち上がり、泥のついた手を拭いた。


「戻る。

札は、作り直す」


私は小さく頷いた。

でも心の奥が痛い。

“札がなくなった”という喪失は、私が思うより大きかった。


その夜。

グレイは新しい札を削った。

白い木から、また白い札を。


でも——そこに彫られた文字は、違っていた。


“呼ぶ”ではない。


——“残す”。


私はそれを見て、息を止めた。

怖いのか、温かいのか、わからない。


(次話へ:第8話「回復:呼べないのに呼ばれている」)

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― 新着の感想 ―
札の喪失という小さな事件で、ルナの恐怖と心の揺れが鮮明に描かれる回。 一方で、グレイの冷静で温かい対応と、新しい札に込められた“残す”の言葉が、希望と絆の強さを静かに示していて胸に迫ります。
札を失う場面は、この物語最大の緊張感。物理的な喪失が、心の揺れを一気に呼び起こす描写が見事でした。
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