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第5話:奪われた跳ね

倉庫の奥の扉は、まだ揺れていた。

逃げた男の匂いが、薄く尾を引いている。

冷たい。

乾いている。

焦りは少ない。

計算の匂い。

「奥だ」

触れる魔狼が言う。

私は匂いを追う。

甘さの残滓は、まだ床に散っている。

割れた瓶から溢れた喜びは、空気へ溶け、どこかへ戻っていった。

でも、全部ではない。

まだ、集められている。

「……いる」

私は小さく言った。

扉の先は、さらに暗い。

階段。

地下へ続いている。

冷たい空気が、上がってくる。

その奥に、強い匂い。

喜びだけではない。

恐れ。期待。焦り。

全部が混ざり、重く沈んでいる。

グレイが先に降りる。

足音は静か。

私は外套の中で、呼吸を合わせる。

触れる魔狼が、半歩後ろにいる。

近い。

でも触れない。

それが守られている。

地下室は、広かった。

中央に、大きな装置。

金属の枠。

刻印。

値札の束。

そして、並ぶ瓶。

さっきより多い。

「戻られたか」

男の声が、暗がりから響く。

彼は逃げていなかった。

ここで待っていた。

「止めたところで、意味はない」

男は装置に手を置く。

「境界は均衡だ。混ざりすぎれば崩れる。喜びは強い。跳ねる。争いを生む」

その匂いは、信じている匂いだった。

自分の正しさを。

「だから抜く」

彼は続ける。

「少しだけ。誰も気づかぬ程度に」

誰も。

私は倒れた子どもを思い出す。

壁にもたれた女。

空洞の匂い。

「……気づいてる」

私の声は震えていない。

胸は揺れている。

でも怖さではない。

怒りでもない。

違う。

強い、衝動。

「戻せ」

触れる魔狼が低く言う。

男は笑う。

「戻す? 戻したところで、また跳ねる」

跳ねる。

その言葉が、胸を叩く。

私は目を閉じる。

跳ねるのが、怖かった。

消えるから。

でも今、怖いのは別のことだ。

跳ねなかったら。

奪われたままだ。

グレイの声。

「……ルナ」

同じ距離。

同じ温度。

ひとりじゃない。

私は外套の布を離した。

自分の足で、一歩前に出る。

地下室の空気が、変わる。

男の目が、細くなる。

「危ういな」

彼は言う。

「跳ねる子だ」

跳ねる。

私は息を吸う。

止めない。

止めない。

胸の奥で、何かが弾ける。

喜びでも、怒りでもない。

守りたい、という熱。

装置の中に、匂いが渦巻いている。

瓶から瓶へ。

値札の刻印が、淡く光る。

私は匂いを掴む。

川。

止められた川。

通す。

触れずに。

でも、逃がす。

触れる魔狼が、低く笑う。

「流せ」

治癒師が、上で呼吸を整える。

「焦るな。揺れを合わせろ」

グレイの声。

「……いる」

私は頷く。

胸が、大きく跳ねる。

強い。

でも、壊れない。

装置が震える。

刻印が、光を失う。

瓶の中の匂いが、揺れる。

男が叫ぶ。

「止めろ!」

でも、もう止まらない。

ころん、と鈴の音が鳴る。

地下室のどこかで。

その音に合わせて、匂いが弾ける。

甘さが、空気へ戻る。

喜びが、流れ出す。

地下室の冷たさが、薄れる。

男は後退る。

計算の匂いが崩れる。

焦りが、滲む。

「お前は……」

彼は言いかける。

でも、装置の刻印が消えた。

値札の束が、床に落ちる。

ころり、と転がる。

喜びは、資源ではない。

流れるもの。

戻るもの。

私は膝が震えるのを感じた。

胸はまだ揺れている。

強く。

でも、怖くない。

グレイが一歩近づく。

触れない距離。

「……どうだ」

短い問い。

私は息を整える。

「……いる」

跳ねた。

でも消えない。

壊れない。

地下室の空気が、静かになる。

男は奥の通路へ逃げる。

完全な終わりではない。

でも、止めた。

私は目を閉じる。

胸の奥が、熱い。

それは怒りではなく。

選んだ跳ね。

初めて、自分の意志で跳ねた。

そして——折れなかった。

ころん、と遠くで鈴が鳴る。

今度は、怖くない。

私は外套の中で、小さく息を吐いた。

物語は、まだ終わらない。

でも、私はもう知っている。

跳ねるのは、消えるためじゃない。

結ぶためだ。

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― 新着の感想 ―
地下室での直接対決が緊張感MAXで、ルナが初めて「自分の意志で跳ねる」瞬間が強烈に印象に残ります。喜びを“流す”描写は、これまでの川の比喩が実際の行動として具現化され、彼女の成長と覚悟が読者に痛いほど…
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