第4話:集積所
路地の奥は、昼でも薄暗かった。
石壁に囲まれ、上を渡る布が光を切っている。
湿った木と、古い縄の匂い。
甘い線は、ここで濃くなる。
私は外套の内側で、息を整えた。
胸は忙しい。でも跳ねない。
揺れているだけだ。入口は倉庫のようだった。
扉は半開き。内側から、冷たい空気が流れてくる。
「……いるな」
触れる魔狼が低く言う。匂いは複雑だ。
木箱。油。紙。
そして——
閉じ込められた喜び。
私ははっきりと感じた。
喜びは、本来、外へ広がる。
人の声や体温に混ざり、空へ溶けていく。
でもここでは、止まっている。
濃いまま。重いまま。
グレイが扉を押す。きしり、と音がした。
中は広い。木箱が積まれ、値札が束ねられ、棚に瓶が並んでいる。
瓶。透明なガラス。中に、薄い光。
私は息を呑んだ。それは、匂いだった。
喜びの匂いが、瓶の中に閉じ込められている。
甘く、鋭く、整えられて。
「……やっぱりか」
触れる魔狼が鼻を鳴らす。
「上澄みだけ掬ってる」
治癒師が瓶に近づく。指先で触れはしない。
ただ、見る。
「抽出だね。鈴で跳ねさせ、値札で拾う」
拾う。私は瓶を見つめる。中に、揺れている。
子どもの笑い。走り出す直前の息。
初めて手にした玩具の、弾む鼓動。
全部、ここにある。でも、持ち主の胸には戻っていない。
だから空洞が残る。胸の奥が、熱くなる。
怒り。これは、濁らない。澄んだ怒り。
「境界は混ざることで保たれている」
低い声が、倉庫の奥から響いた。
影の中に、男が立っている。衣は整い、匂いは冷たい。
恐れはない。計算の匂い。
「感情は波だ。波が荒れれば争いが起きる。なら、喜びだけ抜けばいい」
抜けば、穏やかになる。
正論の形。でも匂いが違う。支配の匂い。
「穏やか、ね」
治癒師が笑う。
「抜かれた側は、空洞だよ」
男は肩をすくめる。
「一部だ。大勢の安定のためだ」
大勢。私は瓶を見つめる。
一部。それは、目の前で倒れた子どもだ。
壁にもたれた女だ。その胸の空洞。私は外套の布を握った。
跳ねる。強く。
「……返す」
私の声は、思ったより大きかった。
倉庫の空気が、わずかに揺れる。
男の視線が、私を捉える。
「匂いを見る子か」
彼は言う。
「なら分かるだろう。これは資源だ」
資源。喜びが。私は首を振る。
「……ちがう」
喜びは、川だ。触れる魔狼の言葉が、胸に浮かぶ。
川は流れる。掬われれば、干上がる。
グレイが一歩前に出る。
怒鳴らない。剣も抜かない。
ただ立つ。それだけで、空気が変わる。
「やめろ」
短い声。男は笑う。
「境界市は、混ざる場所だ。人も、獣も、魔族も。感情が濃い。だから利用される」
利用。私は瓶に近づく。
匂いが、さらに濃くなる。
胸が揺れる。怖さではない。悲しさ。
奪われた喜びが、冷たく閉じ込められている。
「戻らない」
私は言う。
「ここに、ある」
男の目が細くなる。
「戻す方法は?」
問われる。
私は目を閉じる。瓶の中の匂いを、嗅ぐ。
喜びは、生きている。完全に死んではいない。
閉じ込められているだけ。川は、止められているだけ。
通せばいい。触れる魔狼が、私の隣に立つ。
近い。でも触れない。
「流せ」
彼は言う。グレイの声。
「……ルナ」
同じ距離。同じ温度。ひとりじゃない。
私は息を深く吸った。跳ねる。強く。
でも、折れない。
私は瓶に触れない。触れずに、匂いを辿る。
甘い線。鋭い線。その線を、元の胸へ戻す。
川を、上流へ。倉庫の空気が震える。
瓶の中の光が、揺れる。ひびが入る。
男が後退る。
「止めろ!」
怒鳴る。でも遅い。
ころん、とどこかで鈴が鳴る。瓶が割れる。
甘い匂いが、空気へ溶ける。
倉庫が一瞬、暖かくなる。
胸が強く跳ねる。でも壊れない。
グレイの声が、近い。
「……いる」
私は頷く。
瓶の光が消える。喜びが、戻っていく。
男は奥の扉へ走る。影が消える。完全ではない。
でも、止めた。私は膝が震えるのを感じた。
怒りが、静かに冷めていく。触れる魔狼が低く笑う。
「ほらな。流れた」
私は息を整える。胸はまだ忙しい。でも空洞ではない。
「……返した」
治癒師が頷く。
「完全じゃない。でも、生き返る」
グレイが私を見る。
言葉はない。
でも、歩幅が少しだけ変わる。
私が揺れないように。
倉庫の中に、割れた瓶の破片が光る。
喜びは、資源じゃない。
結ぶものだ。
私は外套の中で、静かに前を見た。
物語は、まだ終わらない。
奪った者は逃げた。
でも川は、止まらない。
胸が、もう一度、小さく跳ねた。
それは怒りではなく、決意だった。




