第3話:触れてくる狼
黒い幕の店を離れると、路地はさらに細くなった。
表通りの喧騒は、ここまで届かない。
代わりに、湿った石と、古い木箱の匂いが残っている。
私は外套の内側で、目を閉じた。
甘い線。さっきの鈴の匂い。
それは空気に溶けず、まっすぐに伸びている。
喜びは、本来なら揺れる。
人の体温や歩幅に合わせて、丸くなり、散っていく。
でもこの喜びは違う。均一で、削られて、冷たい方向へ向かっている。
「……こっち」
私は小さく言った。グレイは何も問わない。
歩幅を変えないまま、私が揺れない速度で進む。
触れる魔狼が、後ろから並んだ。
「匂いを辿るのか」
声は軽い。でも、その目は真剣だった。
「抑えるより、通せば早い」
彼は続ける。
「感情は川だ。堰き止めると濁る。流してやれば、また澄む」
川。私はその言葉を胸の中で転がした。
私はずっと、止めてきた。
小さく。薄く。跳ねないように。
でも、いま辿っているのは、止められた喜びの跡だ。
削られた川。
「……削られてる」
私の声は、思ったより低かった。
触れる魔狼が目を細める。
「そうだな。上澄みだけ掬ってる」
彼の匂いは強い。自信と、少しの苛立ち。
グレイは黙ったまま、角を曲がる。
甘い線が、急に濃くなった。そして、その先で途切れている。
路地の曲がり角。人だかり。二人目だった。今度は、大人。
若い女が壁にもたれかかり、座り込んでいる。
呼吸は浅い。瞼が震えている。
「さっきまで笑ってたのに……」
誰かの声が震える。私は息を吸った。
女の周りに、同じ匂い。強すぎる喜び。
その直後の、空洞。胸の中が、ひどく静かだ。
怖さはない。あるのは、確信。
「増えてるね」
治癒師が女の胸に手を当てる。
「命はある。でも……これは、抜かれてる」
抜かれている。触れる魔狼が舌打ちする。
「流通だ。回収してる」
回収。私はその言葉を反芻する。喜びを、回収。
人の胸から。
「……どこへ」
私は匂いを辿る。甘さの線は、石畳を越え、さらに奥へ。
人の匂いに紛れているが、消えていない。
喜びは強い。跳ねるほど、濃く残る。
だから、辿れる。私は目を閉じる。
音が遠のく。石の冷たさ。遠くの鍋の音。誰かの息。
匂いだけが、一本の線になる。
「……奥」
私は言う。
「集めてる」
触れる魔狼が、低く笑う。
「だから言ったろ。止めるより、通せ」
その言葉に、胸が揺れる。
怒り。でも、それだけじゃない。
疑問。通すだけで、戻るのか。
奪われた喜びは。
「戻らない」
私ははっきり言った。
「瓶に、ある」
その言葉に、治癒師が私を見る。
目は、試す色ではない。確かめる色。
「見えるのかい」
私は頷く。
「残ってる」
喜びは、消えない。削られても、どこかに残る。
森で切り株に残っていた悲しみのように。
境界市では、それが濃い。
多い。だから狙われる。
グレイが、ほんの少しだけ歩幅を狭める。私が揺れないように。
それが、彼の答えだ。触れる魔狼が、私の隣に並ぶ。
近い。胸が一瞬、跳ねかける。
「怖いか」
彼は聞く。私は首を振る。
「……怒ってる」
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
触れる魔狼の匂いが、少し変わる。面白がる匂い。
「いい匂いだ」
彼は言う。
「怒りは濁らない。澄んでる」
グレイが、そこで初めて口を開いた。
「……近い」
短い声。それだけで、触れる魔狼は半歩下がる。
触れない。その距離が、守られる。私は深く息を吸った。
怒りは、跳ねる。でも、これは違う。
逃げたい衝動ではない。守りたい衝動。
女の胸の匂いは、まだ戻っていない。空洞が広がっている。
「急がないと」
治癒師が言う。
「原因を止めないと、増える」
増える。私は匂いの線を、さらに辿る。
石畳が途切れ、木箱が積まれた暗がりへ。
そこから、冷たい匂いがする。
甘さの終点。回収の匂い。集積所。
私は目を開けた。暗い入口が、そこにある。
胸が強く揺れる。怖さじゃない。覚悟。
「……いく」
声は小さい。でも確かだ。グレイが頷く。
触れる魔狼が、尾を揺らす。
「川の源流だな」
その言葉に、私は一瞬だけ笑いそうになった。
でも笑わない。代わりに、息を整える。
跳ねるな、ではなく。折れるな。
暗がりの奥から、かすかに鈴の音がした。
ころん。その音に、胸が応える。
小さく。でも確実に。
物語は、さらに深くなる。
私は外套の中で、前を見た。
もう、逃げない。喜びが奪われる匂いを、放ってはおかない。
胸が、静かに熱を帯びていた。




