第2話:黒い幕の店
路地は、表通りよりも静かだった。静か、というより、音が薄い。
怒鳴り声も、笑い声も、ここまで来ると壁に吸われる。
代わりに残るのは、足音と、布の擦れる音と、遠くで鍋が鳴る金属の反響。
湿った石畳。水が流れた跡。油が落ちた染み。
私は外套の口から、慎重に顔を出した。
黒い幕は、思ったより地味だった。
目立つ装飾もなく、値段を大きく書いた札がひとつ。
「特売」の文字。
風が吹くと、幕がふわりと揺れる。
その隙間から、色のついた紐や、木彫りの玩具、小さな鈴が見える。
どこにでもありそうな店。でも、匂いが違う。
私は息を吸った。甘い。でも花の甘さじゃない。
喜びの匂い。強すぎる。
「いらっしゃい」
店主は笑った。声はやわらかい。目も細めている。
でも匂いが薄い。人は笑うと、目の奥に温度が出る。
頬が上がり、呼吸が少しだけ変わる。
でもこの笑いは、平らだ。均された布のよう。
「鈴、安いよ。子どもが喜ぶ」
喜ぶ。その言葉が、空気に混ざる。
私は鈴を見つめた。触れていないのに、匂いが刺さる。
喜びが、最初から乗せられている。鈴そのものの匂いは薄い。
金属と油の匂いだけ。でも値札の裏から、同じ甘さが漂っている。
私は目を細める。値札。小さな刻印。さっきの鈴と同じ形。
円の中に、二本の線。回収の印。
「……買うか」
グレイが短く言う。試すような声。私は首を横に振る。
「……ちがう」
言葉は少ないけれど、胸の中は忙しい。
喜びの匂いが、波のように押し寄せてくる。
でもその奥に、空洞がある。
抜かれた跡。
「値札だ」
背後から、黒布の青年が言った。
「鈴は餌。値札が鍵」
彼の匂いは、少しだけ緊張している。怖がっている匂い。
この店を。店主の指が、わずかに動く。値札を隠すように。
その瞬間、空気が揺れた。背の高い魔狼が、幕の影から現れる。
耳が立ち、尾がゆるく揺れる。視線が、私に向く。
「匂い、見えるんだろ」
声は低いが、挑発ではない。
確かめる匂い。私は一瞬、息を止めた。
距離が近い。触れられそうな距離。
胸が跳ねかける。
「……ルナ」
グレイの声。同じ距離。同じ温度。
私は息を整える。跳ねない。跳ねない。
触れる魔狼は、少しだけ笑った。
「抑えすぎだ。感情は流せば戻る」
彼の匂いは強い。自信と、熱。でも敵意はない。
「川みたいなもんだ。堰き止めると腐る」
川。その言葉が胸に触れる。
私はずっと、止めることしか知らなかった。
止める。薄くする。小さくする。
でもいま、目の前にあるのは、誰かの喜びが奪われた跡だ。
止めた結果ではない。削られた結果。
店主が笑みを崩さず言う。
「何の話だい。うちは安く売ってるだけだ」
匂いは変わらない。平らなまま。それが逆に、不自然だった。
「最近、倒れた子がいる」
治癒師が店主を見る。声は静か。
「同じ鈴を持ってた」
店主の匂いが、ほんの一瞬だけ揺れる。
恐れ。すぐに均される。
「偶然だろう」
偶然。私は首を振る。違う。
匂いは線になっている。この店から、路地の奥へ。
喜びの甘さが、薄く尾を引く。
私は外套の中で、目を閉じた。
匂いを辿る。甘さの線。鋭い線。
そして、その先にある、冷たい匂い。
集められている。どこかで。
「……奥」
私は小さく言った。グレイが頷く。
それ以上は問わない。
触れる魔狼が、興味深そうに目を細める。
「追うのか」
その声に、店主の尾がわずかに揺れた。
私は鈴を見た。ころん、と風で鳴る。
喜びの匂いが、さらに濃くなる。でもその奥に、空洞がある。
私ははっきりと感じた。奪われている。喜びは跳ねる。
跳ねた直後が、一番甘い。だから狙われる。
胸が揺れる。怒り。怖さよりも、強い。
私はそれを止めなかった。
「……いく」
声は小さい。でも確かだった。グレイが一歩進む。
空気が割れる。触れる魔狼が、くすりと笑う。
「流してやるよ、川」
その言葉の意味を、私はまだ知らない。
黒い幕が揺れる。値札がひらりと翻る。円と二本線。刻印が光る。
物語は、表ではなく、裏へと伸びていく。
私は外套の中で、息を深く吸った。
跳ねるな、ではなく。折れるな。
ころん、と鈴が鳴る。胸が、小さく応えた。
次は、追う番だ。




