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【第三部】 第1話:鈴の値札

境界市の空気は、森と違って重い。重いのに、速い。

匂いが幾層にも重なり、音が絶えず動き、視線が波のように流れていく。

私はグレイの外套の内側で、呼吸を浅くした。

布の繊維を前脚で握る。ざらりとした感触が、いまここにいる証になる。

跳ねるな。でも、止めろとは言わない。

外套の口から覗いた視界の先で、子どもが倒れていた。

小さな体。白い頬。閉じたまぶた。

周囲の大人たちの匂いが、ざわざわと揺れている。

——焦り。

——恐れ。

——どうして。

その中心に、ひどく鋭い匂いがあった。

ころん。子どもの手の中で、鈴がかすかに鳴る。

私は息を止めた。音じゃない。その周りに、匂いが残っている。

喜び。でも、それは普通の喜びではない。

子どもが駆け出す前の、足の裏に溜まる温度や、喉の奥で弾む空気が混じっていない。

体温の揺らぎがない。均一で、甘く、鋭い。最初から切り取られた香り。

「下がれ。空気を通せ」

旅装の治癒師が人波を割って入り、子どもの胸に手を当てる。

指先の動きは速いのに、呼吸は静かだ。

彼女の匂いは、乾いた薬草と、冷えた水。焦らない匂い。

「命はある。……でも原因を止めないと増える」

増える。その言葉が胸に触れ、私は小さく身を丸めた。

増える、という言葉は、回数を思い出させる。

春までに百回。もう数えないと決めたのに、数字は影のように残る。

「……ルナ」

同じ距離。同じ温度。グレイの声が届く。

私は返事をする。

「……いる」

胸は跳ねない。まだ。

治癒師が子どもの手から鈴を外し、光にかざす。

鈴は安物だ。磨きが甘く、刻印も粗い。けれど、その匂いは異様に濃い。

彼女は鼻先を近づけ、眉を寄せた。

「妙だね」

その声は怒りではなく、確認だった。

「喜びが強すぎる。子どもが玩具を手にしたときの匂いじゃない。……最初から盛られている」

盛られている。私はもう一度、深く嗅ぐ。確かに。

自然な喜びは、揺れる。

最初は跳ねても、すぐに呼吸や体温に溶けて、匂いが丸くなる。

でもこの喜びは、尖ったまま止まっている。削られた刃のように。

人だかりの端で、黒い布を羽織った青年がこちらを見ていた。

視線は冷たくない。けれど、試すような色がある。

「路地の奥だ」

彼が低く言う。

「黒い幕の露店。安い鈴を売ってる」

安い。安いのに、強い。それは、危険な組み合わせだ。

グレイが一歩前に出る。その瞬間、人の流れが自然に割れる。

押しのけない。怒鳴らない。ただ、そこに立つだけで空気が整う。

それが、彼のやり方だ。私は外套の布を握った。

跳ねるな。でも、胸の奥が動く。

怖さではない。助けたい、という衝動。

それは森では許されなかった感情だ。

跳ねる。消える。でもいま、その衝動は別の形をしている。

私はそれを押し潰さず、薄く息を吐いた。

外套の口から、黒い幕が揺れる路地を見つめる。

鈴がまた鳴る。ころん。今度は、遠くで。

私の胸も、小さく鳴った。同じ音。でも違う。

さっきの匂いと、この音は繋がっている。

私ははっきりと感じた。

あの店を通る。喜びは、そこから来ている。

そして、そこへ戻る。

「……行く」

私は小さく言った。

グレイは頷く。それ以上は言わない。

でも歩幅が、ほんの少しだけ変わる。私が揺れない速さ。

治癒師が子どもを抱え上げ、周囲に指示を飛ばす。

「水を。……そして、同じ鈴を持ってる子はいないか確認しろ」

ざわめきが広がる。匂いがさらに濃くなる。

境界市は、生きている。喜びも、恐れも、怒りも、全部が混ざっている。

私は外套の中で、目を細めた。

森よりも、騒がしい。

でも——逃げたいとは思わない。

黒い幕が揺れる。その奥に、別の匂いがある。

喜びを作る匂い。削る匂い。そして、まだ見えない誰かの匂い。

私は息を整える。跳ねるな、ではなく。折れるな。

ころん、と鈴が鳴る。物語が、動く音だった。

私は外套の中で、前を見た。

胸が、少しだけ跳ねた。でもそれは、消える跳ねではなかった。

前へ進む跳ねだった。

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― 新着の感想 ―
匂いで世界を読む描写が本当に秀逸で、「喜びが強すぎる」という違和感の表現が物語の不穏さを一気に際立たせています。音ではなく“匂い”で異常を察知する構造が、この世界ならではの緊張感を生んでいて、とても魅…
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