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第2話:契約――首輪の札に書かれた一語

小屋を出ると、森の冷たい匂いが頬を撫でた。

雪解け水の音が、あちこちで細く鳴っている。


グレイは私を抱き上げなかった。

代わりに、外套の内側を広げて見せた。そこは風が入りにくい、暗くて温かい空間。


「……入れるか」


私は一瞬迷った。

怖いのではない。

“温かい”は、心が跳ねる入口にもなるから。


でも私は、選んだ。

この条件の中でも、前へ進むと。


外套の中に自分から潜り込むと、毛皮の匂いがした。

獣の匂いというより、焚き火の煙と、乾いた草と、鉄の匂い。

騎士の匂いだ。


グレイは、歩幅を少し小さくした。

私が揺れないように。


——この狼は、言葉の代わりに速度を変える。


治療師の言葉が追いかけてきた。

「距離を守れ。情で跳ねさせるな」


正しい。

冷たい。

でも正しい。


森の道を抜け、石造りの詰所へ着くころ、私の体は外套の温度に慣れていた。

心は、跳ねないまま。


詰所の中は整っていた。

派手な飾りはない。

必要なものだけが、真っすぐに並んでいる。


グレイは火鉢に炭を足した。

火が強くなる前に、私のいる外套の中へ風が来ないよう、扉をきちんと閉める。

それから、机の引き出しから小さな革紐を取り出した。


「札」


外套の口が少し開く。

私は顔を出した。


白い木札。

そこには“呼ぶ”。


「……どうして、これ」


グレイは少しだけ考えてから言った。


「お前が消える条件は、“跳ねること”だ」


私は頷く。


「なら、跳ねない確かめ方が要る」


彼は木札を指で軽く叩いた。

音は小さく、乾いている。


「毎日一回、同じ声、同じ距離、同じ時間。

心が慣れる。跳ねなくなる。……習慣にする」


合理的すぎて、やさしい。

私は思わず、喉が小さく鳴った。


「なまえ、ない」


「なら、つける」


「……つけると、跳ねる」


「跳ねないようにする」


彼は短く言い切った。

その“言い切り”が、私を守る壁になった。


「まず、仮名」


「かりな?」


「お前が答えやすい音」


グレイは私を見た。

まっすぐで、静かな目。


「……“ルナ”」


満月の“ルナ”。

春の満月が、期限。

その言葉は本来なら怖いのに——彼の口から出ると、確認のための灯りみたいだった。


私は一度、深く息をした。

跳ねない。跳ねない。

私は、返事を選ぶ。


「……るな」


グレイは、その一語を聞いて、小さく頷いた。


「今日の分」


そして彼は、声の温度を変えずに、同じ距離で言った。


「ルナ」


私の心は、少しだけ揺れた。

けれど——跳ねなかった。

揺れは、怖さではなく、温かさだったから。


彼は淡々と続ける。


「明日も、同じ」


「……うん」


「契約だ。……保護する」


その言葉の直後、彼は私に触れなかった。

触れずに、外套を少しだけ寄せて隙間を塞ぐ。

寒さが入らないように。

それが彼の“保護”だった。


その夜、私は火鉢のそばで眠った。

夢の中で、誰かに名前を呼ばれる音がした。

目を覚ますと、現実の火はまだ消えていない。


そして私は知る。

この狼は、火も、約束も、絶やさない。


(次話へ:第3話「幸福:湯気のするスープと半分のパン」)

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― 新着の感想 ―
静かな理性と不器用な優しさが、胸にじんわり残る一話でした。 「跳ねないための名前」「習慣としての呼ぶ」という発想が切実で美しく、グレイの保護が言葉ではなく行動で描かれるのが印象的です。 温かさを恐れな…
「触らない」「距離を守る」という行動で示される保護が、言葉以上に優しい。首輪の札に刻まれた一語が、これほど重く、あたたかい意味を持つとは思いませんでした。
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