第2部第9話:選ばれる側の罠
※この回は、
何かが壊れる話ではありません。
でも、
逃げ道が、ひとつずつ消えていく話です。
優しい言葉。
選ばれるという感覚。
それらはすべて、
拒まなくてもいい顔をしています。
だからこそ、
気づいたときには、もう席に座っている。
境界市は、何事もなかったように朝を迎えた。
人は忘れる。
忘れることで、生きていける。
だから街は、昨日の出来事を薄く畳み、
今日の営みを上に重ねて歩き出す。
私は外套の中で、その“忘れ方”の匂いを嗅いでいた。
パンを焼く匂い。
洗濯した布の匂い。
朝の挨拶の声。
——そして、その下に薄く貼り付いた、
**不自然な軽さ**。
「……ある」
私が呟くと、グレイはすぐに足を止めた。
止まり方が、前よりも近い。
触れない距離は保ったまま、
でも反応は、確実に早くなっている。
「……どこだ」
「……みんな」
みんな。
それは、場所じゃない。
セラが眉をひそめる。
「広がってる?」
私は頷いた。
「……えらばせる、におい」
選ばせる。
第8話で突きつけられた、あの感覚。
黒幕は、姿を消した。
でも仕組みは、街に残っている。
いや——**街そのものに溶け始めている**。
私たちは、表通りを歩いていた。
あえて、隠れない。
隠れると、
「見つけられたくない」匂いが出る。
今は、それを使われる。
「……人が、多い」
グレイの言葉通り、
通りには人が溢れていた。
だが、昨日までと違う。
誰も鈴を持っていない。
誰も不自然に笑っていない。
それなのに——
胸が、ざわつく。
私は足を止め、
一人の女性を見た。
露店の前で、布を選んでいる。
普通の光景。
でも、その周りの匂いが、少し歪んでいる。
——期待。
——不安。
——そして、**比較**。
私は近づき、
小さな声で聞いた。
「……えらんでる?」
女性は一瞬、驚いた顔をして、
それから苦笑した。
「ええ。
どれが一番、似合うか」
その答えは、正しい。
でも、匂いは違う。
私は続けた。
「……だれに」
女性は、言葉に詰まった。
視線が揺れる。
「……夫に。
……それと、隣の奥さんに」
その瞬間、匂いが跳ねた。
比較。
評価。
選ばれるための選択。
私は息を吸って、吐いた。
「……つかれない?」
女性は、はっとした顔をした。
「……疲れるわね」
ぽつりとこぼれた本音。
それだけで、匂いが少し緩む。
私は、それ以上何も言わなかった。
助言もしない。
正解も言わない。
それでも——
一つ、仕組みが崩れた。
「……これだ」
セラが低く言う。
「鈴がなくても、
“選ばれる快感”だけが広がってる」
快感。
それは、依存の入口だ。
「……向こうは、
私を見せないつもりだ」
私の言葉に、
グレイの肩がわずかに強張る。
「……誘っている」
誘い。
第8話の男の言葉が、胸に蘇る。
——今度は、君が選ばれる番だ。
そのとき、
街の中央にある掲示板が、ざわついた。
人が集まっている。
「何だ?」
「……新しい告知だ」
私たちは、人の流れに逆らわず、
掲示板の前に立った。
そこに貼られていたのは、
一枚の紙。
【選抜協力者 募集中】
【感情の調査に協力できる方】
【報酬あり/身元保証】
文章は丁寧で、
危険な言葉は一つもない。
それが、いちばん怖い。
私は紙を見つめた。
紙から、匂いがする。
——誇り。
——期待。
——そして、**選ばれた気分**。
「……これ」
私が言う前に、
セラが気づいた。
「公的な顔をしてる。
うまいね……」
グレイが低く言う。
「……罠だ」
「……うん」
私は、否定しなかった。
罠だと分かる罠は、
引っかからない。
でもこれは——
**引っかかりたい人が集まる罠**。
「……わたし」
言葉が、自然と出た。
「……これ、わたし向け」
セラが、私を見る。
鋭く、でも止めない目。
「理由は?」
私は紙から目を離さず、答えた。
「……わたしだけ、
におい、ちがう」
第8話の男が言った。
「匂いが一番きれいだ」
きれい。
それは、加工しやすいという意味だ。
グレイが、少しだけ声を強めた。
「……行かせない」
珍しい。
即答だった。
私は、胸が跳ねるのを感じた。
でも、逃げない。
「……ひとりじゃ、いかない」
言い方を選んだ。
ひとりじゃない。
でも、行く。
グレイは、言葉を失った。
失うほど、迷っている。
「……選ばされる」
彼が絞り出すように言う。
「……そう」
私は肯定した。
否定しない。
「……でも、
えらぶのは、わたし」
選ばされる罠に、
自分から足を踏み入れる。
それは、無謀だ。
でも——
罠は、外から壊せない。
セラが、静かに言った。
「条件がある」
「……なに」
「あなたは、
“試される側”として行く。
協力者じゃない」
私は頷いた。
「……わかった」
掲示板の前で、
紙を見つめる人々の匂いが、次々に変わる。
期待が膨らみ、
誰かより上に行ける気がして、
胸が軽くなる。
私は、その中に立っていた。
——危険。
でも、
この危険を知らなければ、
仕組みは止まらない。
その夜、
指定された場所に向かった。
境界市の外れ。
古い公会堂。
中は、思ったより明るい。
灯りは柔らかく、
不安を刺激しない。
集まっていたのは、十数人。
老若男女。
共通点は一つ。
——選ばれたい匂い。
壇上に立ったのは、
第8話の男ではなかった。
代わりに、
穏やかな顔の女性。
「皆さん、
協力ありがとうございます」
声は落ち着いていて、
一切の威圧がない。
「今日は、
“感じ方”の簡単な確認をします」
私は、席に座った。
外套の中で、息を整える。
グレイとセラは、
外から見守っている。
近すぎない。
でも、離れすぎない。
女性が言った。
「今から、
簡単な質問をします」
一枚の紙が配られる。
【あなたは、
人からどう見られたいですか?】
胸が、強く跳ねた。
——来た。
これは、能力の質問じゃない。
願望の質問だ。
私は、紙を見つめた。
周囲の匂いが、一斉に跳ねる。
誇り。
承認。
安心。
私は、書かなかった。
書かない、という選択。
それ自体が、目立つ。
女性の視線が、
私に向くのを感じた。
「……書かないの?」
優しい声。
私は顔を上げて答えた。
「……わからない」
嘘じゃない。
でも、正解でもない。
女性は、微笑んだ。
「それも、答えですね」
その瞬間、
会場の空気が、**少しだけ閉じた**。
——捕まった。
私は確信した。
これは、第一の網。
“正直な者”を、
先に囲い込む。
私は、外套の中で、
小さく息を吸った。
とく。
とく。
心臓は跳ねている。
でも、まだ大丈夫。
私は、選ばれる側に立った。
ここから先は——
**引き返せない。**
(次話へ:第10話「選ばれた席、戻れない視線」)
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ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第9話で描いたのは、
罠に「落ちる」瞬間ではありません。
罠に「座ってしまう」瞬間です。
強制はありません。
脅しもありません。
選択肢は、いつも“あなたのため”という顔をしています。
だからこそ、
一番深く心に残る。
ルナは、
誰かに選ばれたかったわけではありません。
でも、
選ばれる構造の中に自分の身を置いてしまった。
それは弱さではなく、
「知ろうとした」結果です。
この時点で、
彼女はもう
外から仕組みを壊せる立場ではありません。
中に入った。
見られる側になった。
評価される側になった。
そして何より――
視線を向けられる側になりました。
もしこの回を読んで、
・断れば楽だったのに、と思ったこと
・選ばれなかったときの不安
・「自分から入ったのに、逃げたくなった」経験
そんな記憶が胸に浮かんだなら、
この物語は、あなたの感情のすぐ隣にあります。
次話では、
この席に座った者だけが見る景色が描かれます。
見られるということは、
守られることでもありますが、
同時に――
逃げられないということでもあります。




