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第2部第7話:触れた温度、戻れない距離


※この回では、

何かが大きく壊れるわけではありません。


ただ、

「元には戻れない」と気づいてしまう瞬間があります。


触れた温度を、

知らなかった頃には戻れないように。

夜明け前の境界市は、静かすぎた。


灯りが消えかけ、屋台の火が灰に変わり、

人の声が薄くなる時間。

その代わりに、残るものがある。


匂い。

呼吸。

そして——触れてしまった温度の記憶。


私は外套の中で、眠れないまま目を開けていた。

まぶたの裏に、昨日の場面が何度も浮かぶ。


グレイの手。

獣人の少年の腕を掴んだ手。

迷いのない動き。

そして、その直後に震えた指先。


触れる。

触れるということは、誰かの距離に踏み込むことだ。

守るために踏み込むのは、正しい。

でも、それは元に戻れない。


私は胸に手を当てた。

とく。

とく。

数えないと決めたはずなのに、

心臓の音は勝手に数えたくなる。


——戻れない距離。

——戻らない距離。


どちらが正しいのか、まだわからない。


「……起きてる?」


焚き火の向こうからセラの声がした。

夜を越えた火は小さく、赤い炭だけが残っている。

それでも暖かい匂いがするのは、彼女が薬草を少し混ぜているからだ。


「……うん」


私が返すと、セラは何も言わず、湯を沸かす小鍋を炭にかけた。

彼女は余計な慰めをしない。

慰めは甘い匂いを出し、甘い匂いは跳ねを呼ぶ。


グレイは壁にもたれて座っていた。

目は閉じているのに、眠っていない。

呼吸が浅い。

音のない警戒。


私は外套の口を少しだけ開き、彼を見た。

昨日から変わらないはずの輪郭。

でも、どこか違って見える。


触れた手を知ってしまったせいだ。


「……グレイ」


名前を呼ぶと、胸が小さく跳ねた。

呼び方は、距離を縮める。


グレイはゆっくり目を開けた。

その動きは遅いのに、視線だけが鋭い。

そしてすぐに、私を見るのをやめて、外套の縁を見る。


いつもの癖。

見れば、私が跳ねると思っている。

正しい。

でも——それだけじゃない気がした。


「……なに」


声は短い。

いつもと同じ。

なのに、昨日の震えが耳に残っているせいで、短さが痛い。


私は言葉を探した。

言葉を探す時間は、跳ねる。

でも、言わないと残る。


「……さわった」


言った瞬間、胸が跳ねた。

“触れた”という単語そのものが、昨日の温度を呼び起こす。


グレイは一瞬だけ息を止めた。

止めた息の匂いは、嘘をつかない。


——怖い。

——思い出したくない。

——でも、思い出している。


「……必要だった」


やっと出た言葉は、昨日と同じだった。

必要。

それは彼の中で、言い訳じゃなくて、結論なのだ。


私は頷きたいのに、頷けなかった。

頷けば、肯定になる。

でも、否定もできない。


「……こわかった?」


私が聞くと、グレイの視線が一瞬だけ上がった。

目が合う。

その瞬間、匂いが跳ねた。


——後悔。

——覚悟。

——そして、少しの……恥。


恥。

それは、誰かに見られたくない感情。


「……怖かった」


短く、正直に言った。

それだけで、胸の奥が熱くなる。

熱は跳ねる入口だ。


私は息を吐いて、熱を逃がした。


セラが鍋の湯を器に注ぎ、私の前に置いた。

湯気が立つ。

薬草の匂いが鼻を撫でる。


「飲む?」


「……うん」


一口含むと、苦い。

でも落ち着く。

苦い匂いは、現実に繋がる。


私は器を抱えたまま言った。


「……もどる?」


グレイが眉を動かす。

「……何が」


「……きょり」


距離。

触れない距離。

外套の中の距離。

いつもの距離。


グレイは答えるのに時間がかかった。

その時間の中で、匂いが揺れる。

迷い。

迷いは跳ねる。


「……戻す」


やっと出た答えは、私の胸を少しだけ締めた。

戻す。

戻すことは安心だ。

でも、安心は時に、嘘に近い。


「……でも」


私の声が、勝手に続いた。


「……もう、しってる」


触れた温度を。

昨日の震えを。

守るために越えた線を。


グレイの指が、わずかに動く。

膝の上で握った拳が、ほどけて、また握られる。

その動きが、小さいのに大きい。


「……知るな」


ぽつりと言った。


私の胸が跳ねた。


知るな。

それは命令みたいで、でも命令じゃない。

悲鳴に近い。


「……なんで」


私が聞いた瞬間、グレイの匂いが少し濃くなる。


——恐れ。

——失う恐れ。

——そして、祈り。


「……触れると、終わる」


終わる。

その言葉は、鋭い。


私は息を止めた。

止めると跳ねる。

でも止めた。


「……なにが」


「……契約」


保護契約。

春までに消えるはずだった私を守るための契約。

その契約が、触れたら終わる?


「……触れたら、だめ?」


私の声は震えていた。

震えは跳ねる。

胸が忙しくなる。


グレイは首を横に振らなかった。

頷きもしなかった。


沈黙。

沈黙が一番、匂いを濃くする。


セラがそっと言った。

「言い方が違う。グレイ」


グレイは返さない。

返さないことで、崩れないようにしている。


セラが続ける。

「触れたら終わる、じゃない。

 触れたら、“別のもの”になる」


別のもの。

その言葉が、少しだけ優しい。


私は器を握り直した。

指が熱い。


「……べつ、ってなに」


セラが答える前に、グレイが言った。


「……守れなくなる」


短い。

でも、刺さる。


守れなくなる。

触れたら守れなくなる?

触れないで守ってきた。

触れたら、守りが壊れる。


でも昨日、彼は触れて守った。


矛盾が、胸を揺らす。


「……きのうは」


言いかけて、止めた。

止めたくなかったけれど、止めた。

言い過ぎると、跳ねが大きくなる。


グレイは、私の言葉の続きをわかっているように息を吐いた。


「……昨日は、間に合わなかった」


間に合わなかった。

その言葉に、私は第1話の切り株を思い出した。

泣いた、謝った、間に合わなかった。

感情の残り。


グレイもまた、同じ匂いを抱えている。


私は、ふっと思った。


彼が触れないのは、優しさだけじゃない。

過去に触れて、間に合わなかったから。

触れることが、彼にとって“遅れ”なのだ。


私は息を吸って、吐いて言った。


「……じゃあ、いまは、まにあった」


その言葉は、私自身をも驚かせた。

胸が跳ねた。

でも、怖くない跳ねだった。


グレイの目が、わずかに揺れた。


「……わからない」


小さな声。

珍しい。

彼がこんな風に言うのは、ほとんどない。


その時、外で足音がした。

軽くて早い。

詰所の扉が叩かれる。


「魔狼の騎士! いるか!」


兵の声。

夜明け前の焦り。


グレイが立ち上がる。

剣を取る。

動きは一瞬で“いつもの”彼に戻った。


扉が開き、兵が息を切らして言う。


「裏側で、鈴がまた……今度は集団だ。

 子どもが、十人以上。

 ——皆、同じ方向を見て笑ってる。止まらない」


笑ってる。

止まらない。

それは——危険だ。


セラが立ち上がる。

「場所は?」


「下水路沿いの空き地。

 黒い幕の店の近くだ!」


黒幕。

仕組みが動いている。


私の胸が忙しくなる。

でも私は、数えない。


「……いく」


私が言うと、グレイは止めなかった。

ただ、一言だけ。


「……短く」


それは制限であり、約束だった。


夜明け前の街は、霧が薄く流れていた。

灯りの残りが、石畳に滲む。

表通りはまだ眠っているのに、裏側だけが起きている。


空き地に着くと、笑い声が聞こえた。

子どもの笑い声。

——それが一番、怖い。


そこには、輪ができていた。

子どもたちが輪になって座り、中央を見て笑っている。

中央には、小さな台。

台の上に、鈴が置かれている。


鈴は鳴っていない。

それでも笑っている。

それが異様だった。


私は匂いを嗅いだ。


——甘い。

——軽い。

——でも、その奥に、薄い恐怖。


恐怖が隠されている。

上塗りの笑い。


セラが囁く。

「“鳴らさなくても跳ねる”段階に入ってる」


段階。

仕組みは、進化している。


グレイが前に出る。

子どもたちの輪に近づくと、何人かが一斉にこちらを見た。

目が合う。

でも笑いが止まらない。

瞳だけが乾いている。


「……戻れ」


グレイが言う。

短い命令。

けれど通らない。


子どもたちは笑い続ける。

笑いの匂いが、甘いまま刺さる。


私は、息を整えた。


短く。

深く。


私は輪の外側に立ち、匂いを“動かす”準備をした。

第3話でやった。

感情を逃がした。

薄めた。


でも今回は——違う。


これは“溜まっている”というより、**循環している**。

輪の中で回るように、笑いが回っている。

回るものは、外から切れない。


私は胸に手を当てた。

とく。

とく。


「……ルナ」


グレイの声。確認。


「……いる」


私は返事をして、決めた。


“数えない”は、無茶じゃない。

選ぶ、ということだ。


私は、子どもたちの輪の**一番端**にいる小さな子を見た。

その子だけ、笑いが少し弱い。

匂いも、少しだけ違う。


——怖い。

——でも、笑わなきゃいけない。


私は、その子にだけ届くくらいの声で言った。


「……こわい?」


その子の笑いが、一瞬だけ止まった。

止まった瞬間、輪が揺れる。

循環が崩れかける。


他の子が、ぎょろりとこちらを見る。

笑いながら、怒っている。

怒りの匂いが混ざる。


危険。

私の胸が跳ねた。


でも私は、引かなかった。


「……こわいなら、いい」


いい。

笑わなくていい。

その許可が、匂いを変える。


端の子の目に、涙が浮かぶ。

涙は、跳ねる。

でも涙は、戻る道だ。


輪の中の笑いが、少しだけ弱まった。


その瞬間、鈴がひとりで鳴った。


からん。


誰も触れていないのに。


音が、空気を割る。

笑いが一斉に増える。

循環が強制的に戻される。


——仕組み。


私は、歯を食いしばった。

食いしばると胸が跳ねる。

でも、跳ねたままやる。


「……グレイ」


私は呼んだ。


「……うしろ、みて」


グレイは反射で振り向かない。

背後は彼が守る。

でも彼は、気配だけで理解した。


空き地の影。

黒い布の端が見えた。

誰かが見ている。

黒幕の店の男か、別の者か。


セラが、低く言う。

「監視してる。——今、仕掛けてる」


仕掛けている。

この笑いは、事故じゃない。


私は、決めた。


「……切る」


循環を。

輪を。

匂いの回り方を。


セラが言う。

「短く。やりすぎると、あなたが吸う」


私は頷いた。


私は、輪の外側に残る薄い恐怖——

笑いの奥に隠された恐怖だけを、そっと引いた。


引く、というより、**表に出す**。

隠されていたものを、外へ出す。


怖い、という感情は跳ねる。

でも怖いは“止まれる”感情だ。

笑いは止まれないときがある。

だから私は、怖いを選んだ。


端の子が、泣き出した。


泣き声が、輪の中に落ちる。

落ちた瞬間、笑いが止まる子が出る。

一人、二人。

やがて、輪全体が揺れた。


鈴が鳴る。

からん、からん。


でも今度は、音が空回りする。


笑いは戻らない。

怖さが勝つ。

怖さは逃げる。

逃げれば循環は切れる。


子どもたちが立ち上がり、ばらばらに逃げ出した。

泣きながら。

震えながら。

それでも、生きている動きで。


私は、膝から力が抜けそうになった。


吸いそうになる。

残響が、胸の中へ入ってくる。


——怖かった。

——笑ってしまった。

——止められなかった。


子どもたちの感情が、一気に流れ込む。


「……っ」


視界が揺れた。


その瞬間、グレイが私の前に出た。


そして——


彼は、触れなかった。


触れない。

でも、外套を広げて、風を作る。


私の周りの空気が動き、

流れ込んでくる匂いが薄まる。


触れない守り。

それでも、昨日より確かだ。


私は息を吸って、吐いた。


「……いる」


自分に言う。


セラが子どもたちを追って安全な場所へ誘導する。

兵が走る。

空き地には、鈴だけが残った。


鈴は、ひとりで鳴っている。


からん。

からん。


その音は、まるで呼びかけだ。


——来い。

——次は、もっと。


私は震えた。

震えは跳ねる。

でも、怖い震えじゃない。怒りに近い。


私は鈴を見つめて言った。


「……これ、ほんとうに、ころす」


グレイが低く言う。

「……壊す」


「……だめ」


私の否定は、即答だった。

壊すだけでは終わらない。

第3話で学んだ。


「……しくみ。

 うしろに、ひとがいる」


セラが戻ってくる。

息は乱れていない。

彼女は、子どもたちを安全な場所へ渡したのだ。


「あなたの言う通り。

 そして今、確信した」


「……なに」


セラが、鈴を見たまま言う。


「これ、鈴じゃない。

 “道しるべ”だ」


道しるべ。

誰かを導くためのもの。

——導く先は、裏側のさらに奥。


グレイが言う。

「……追う」


セラが頷く。

「追う。でも今は、追いすぎない。

 相手は、あなたを試してる」


私を。

その言葉で胸が跳ねた。


黒幕の店の男が言った。

「君の匂いは一番売れる」


私は、売り物じゃない。

でも、狙われている。


私は外套の中で、布を握りしめた。

握る手が熱い。


「……わたし、しる」


グレイが、私の返事を待つように静かになった。


私は息を吸って、吐いて、言った。


「……触れたら、終わるって言った。

 でも、終わらない。

 べつのものになる」


セラが、ほんの少しだけ目を細める。

肯定の合図。


グレイは、何も言わない。

でも、沈黙の匂いが変わった。

恐れだけじゃない。

諦めでもない。

——受け入れに近い。


「……戻れない距離、でも」


私は言葉を探し、見つけた。


「……戻る場所は、ある」


戻る場所。

第5話で交わした約束。

必ず戻る。


グレイが、初めて、はっきり頷いた。


「……戻る」


その一言で、胸が跳ねた。

でも怖くない。


夜明けの空が、少し白くなる。

境界市の屋根が、薄い光を受ける。


私は外套の中で、前を見た。


触れた温度は、消えない。

戻れない距離も、戻らない距離も、どちらも本当だ。


でも私たちは、歩ける。

短く。

選んで。

必ず戻りながら。


そして次は、

この“道しるべ”の先へ行く。


(次話へ:第8話「黒幕の店の裏側」)


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


第7話で描いたのは、

決別でも、和解でもありません。


**“知ってしまったあとの距離”**です。


触れたことそのものより、

触れたあとに、

どうやって隣に立つのか。


それを選び続けることの方が、

ずっと難しい。


ルナは、

感情を切り、壊し、支配する力を持っていません。

ただ、

「怖い」と言える場所を作っただけです。


そしてグレイは、

触れない守りに戻りながらも、

もう以前と同じ理由では触れません。


戻れない距離は、

必ずしも遠くなる距離ではありません。


同じ場所に立ちながら、

もう二度と同じではいられない——

そんな距離もある。


もしこの回を読んで、

・誰かと少し距離が変わった記憶

・元に戻れないと分かっていて選んだ一歩

・「それでも一緒にいる」ことの重さ


そんなものが胸に浮かんだなら、

この物語は、あなたの中にそっと残っています。


次は、

“道しるべ”の先です。


誰かが仕掛け、

誰かが待ち、

そして、

選ばされる場所。

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― 新着の感想 ―
「触れた温度、戻れない距離」 触れてしまった“あと”を描く、非常に誠実な回。 戻れない距離は、必ずしも絶望ではないという示し方が優しい。 約束・戻る場所・一緒にいるという言葉が、 慰めではなく覚悟と…
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