第2部第6話:触れない守り、触れてしまう選択
※この回では、
「守り方」が変わります。
触れないことで保ってきた距離。
守るために選び続けてきた制限。
それが、ほんの一瞬、揺らぎます。
揺らいだあと、
元には戻りません。
境界市の夜は、音よりも先に**気配**が動く。
表通りの喧騒は遠く、
代わりに、誰かが息を潜める気配、
誰かが決断をためらう気配が、
石壁を伝って流れてくる。
私は外套の中で、その流れを感じていた。
とく。
とく。
心臓は、いつもより少し早い。
数えないと決めたはずなのに、
速さの違いだけは、体が勝手に覚えている。
「……近い」
私が言うと、グレイは歩幅を落とした。
言葉はいらない。
彼は、私の声の高さで判断する。
「……嫌な、におい」
夜の匂いに混じって、
はっきりとした“意図”がある。
逃げる前の匂い。
追われる前の匂い。
そして——追う側の匂い。
「……人?」
私の問いに、グレイは短く答えた。
「……獣」
獣。
魔獣ではない。
理性を持つ、獣人。
私は、胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。
理性がある相手ほど、感情は複雑に残る。
セラが後ろで足を止める。
「ここから先は、私が前に出る」
「……だめ」
私の声が、思ったよりはっきり出た。
否定は跳ねる。
でも、言わずにはいられなかった。
セラは振り向く。
目は驚いていない。
むしろ、予想していたみたいに静かだ。
「理由は?」
問い。
試す問い。
私は匂いを嗅いだ。
感情の層が、幾重にも重なっている。
——焦り。
——恐怖。
——怒り。
——そして、**守ろうとする意志**。
「……まもる、におい。
でも、まちがってる」
セラが、ゆっくり息を吐いた。
「……やっぱり、見えてるね」
見える。
嗅げる。
感じてしまう。
グレイが、一歩前に出た。
自然な位置。
私とセラを、背中で守る位置。
「……俺が行く」
それは、いつもの言葉だった。
触れない守り。
距離を保つ選択。
私は、その背中を見て、
胸が小さく跳ねるのを感じた。
怖い。
でも、それ以上に——
「……まって」
声が、震えなかった。
震えない声は、決意だ。
グレイが、ほんの一瞬だけ止まる。
止まったのは、私が呼んだから。
「……いっしょ」
言った瞬間、胸が大きく跳ねた。
選ぶ、という行為そのものが、跳ねる。
グレイは振り向かない。
でも、肩の動きが、ほんの少し変わる。
「……短く」
その一言は、条件。
拒絶ではない。
私は頷いた。
路地を抜けると、
小さな倉庫が並ぶ区画に出た。
灯りは少ない。
でも、ひとつだけ、窓の奥で揺れている。
中に、誰かがいる。
私は、息を吸って、吐いて、匂いを辿った。
——若い。
——必死。
——追い詰められている。
そして、守ろうとしている。
倉庫の扉が、きし、と音を立てて開く。
中にいたのは、獣人の少年だった。
耳は伏せられ、尻尾は体に巻き付いている。
腕の中に、小さな影。
——子ども。
人間の子ども。
眠っている。
でも、浅い呼吸。
少年は、私たちを見るなり、叫んだ。
「来るな!」
声が跳ねる。
恐怖の跳ね。
私は、反射的に一歩下がった。
跳ねが、胸にぶつかる。
グレイは動かない。
剣にも手を伸ばさない。
「……何を、している」
問い。
責めない声。
少年は歯を食いしばる。
「助けてるんだ!」
「こいつ、鈴を……っ」
言葉が途切れる。
怒りと焦りが、匂いとして溢れる。
私は、嗅いだ。
——後悔。
——罪悪感。
——そして、**決意**。
この少年は、
間違った方法で、
正しいことをしようとしている。
「……にげて」
私の声は、小さい。
でも、確か。
少年が私を見る。
目が合う。
その瞬間、匂いが跳ねた。
「……わかるのか?」
声が、震える。
私は、正解を言わない。
慰めもしない。
「……こわい。
でも、まもりたい」
少年の肩が、大きく揺れた。
「……そうだ!」
叫びそうになる声を、必死で抑える。
「誰も、信じてくれなかった!」
「だから……俺が!」
その言葉で、私は確信した。
——これは、私の未来かもしれない。
守りたい気持ちが、
選択を誤らせる瞬間。
私は、一歩、前に出た。
外套の縁が、肩からずれる。
世界の温度が、直接、肌に触れる。
グレイが、反射的に動いた。
外套が、私の背に寄る。
触れない距離が、一気に縮まる。
「……ルナ」
声が低くなる。
警告。
でも私は、止まらなかった。
「……そのまま、だめ」
少年が、唇を噛む。
「じゃあ、どうすればいい!」
問い。
逃げ場のない問い。
私は、匂いを嗅ぎながら、答えを探した。
感情は、溜まっている。
でも、完全には壊れていない。
「……いま、わたす」
少年が、腕の中の子どもを見る。
逡巡。
迷い。
迷いは、跳ねる。
「……奪う、のか」
その言葉に、胸が強く跳ねた。
奪う。
それは、触れることよりも、怖い。
私は、首を横に振る。
「……もどす」
戻す。
奪わない。
でも、離れる。
少年の手が、震える。
震えは、決断の前兆。
そのとき——
倉庫の外で、足音がした。
複数。
荒い。
「いたぞ!」
「獣人だ!」
声が、跳ねる。
憎しみの跳ね。
少年の匂いが、一気に変わる。
——恐怖。
——絶望。
「……っ」
少年が、子どもを抱き締める。
その瞬間だった。
グレイが、**触れた**。
外套の端が、私の肩に触れる。
そして——
少年の腕を、掴んだ。
速い。
正確。
でも、乱暴じゃない。
触れる。
それは、彼がずっと避けてきた行為。
少年が、息を呑む。
「……離せ」
グレイの声は、低い。
でも、震えている。
触れることで、
彼自身の心も跳ねている。
私は、その跳ねを、はっきり感じた。
——恐れ。
——覚悟。
——後悔。
グレイの感情が、私に流れ込む。
「……グレイ」
名前を呼ぶ。
呼ぶことは、触れることに近い。
少年の腕から、力が抜けた。
子どもが、グレイの腕に渡る。
その瞬間、
少年が、崩れ落ちた。
「……俺は……」
言葉にならない嗚咽。
私は、少年の前に膝をついた。
距離を保ったまま。
「……それでも、やった」
責めない。
でも、肯定もしない。
「……それ、のこる」
残る。
選択は、消えない。
外では、兵の声が近づいている。
セラが、静かに前に出た。
「ここは私が話す」
彼女の声は、強い。
正論じゃない。
場を鎮める声。
私は、グレイを見る。
彼は、子どもを抱いたまま、動かない。
触れている。
触れてしまった。
「……ごめん」
彼の声は、初めて、長かった。
謝罪。
彼自身への謝罪。
私は、首を振った。
「……だいじょうぶ」
言った瞬間、
胸が大きく跳ねた。
でも——壊れなかった。
グレイの腕が、わずかに緩む。
でも、離さない。
触れたまま、守る。
それが、彼の新しい選択だった。
兵が到着し、
セラが事情を説明する。
少年は、抵抗しない。
連れていかれる前、
少年が私を見る。
「……あんた、
俺みたいになるな」
その言葉が、胸に刺さった。
私は、答えた。
「……なるかも。
でも、ひとりじゃない」
少年は、目を閉じた。
夜が、少しだけ深くなる。
倉庫の外に出ると、
冷たい風が頬を撫でた。
グレイは、子どもを医師に引き渡す。
そのとき、彼の指が、わずかに震えている。
私は、その震えを見逃さなかった。
「……さわったね」
責める声じゃない。
確認。
グレイは、短く息を吐いた。
「……必要だった」
必要。
その言葉は、選択の重さを含む。
「……いやだった?」
私の問いに、彼は少しだけ考える。
「……怖かった」
正直な答え。
私は、胸に手を当てた。
「……でも、いっしょ」
一緒。
それは、約束。
グレイは、初めて、はっきり頷いた。
「……戻る」
帰る場所がある。
外套が、再び私を包む。
触れない距離に戻る。
でも、もう同じじゃない。
触れてしまった守り。
触れなかった過去。
私は、外套の中で、息を吸った。
とく。
とく。
心臓は、強く跳ねている。
でも、私は怖くなかった。
選んだ。
一緒に。
(次話へ:第7話「触れた温度、戻れない距離」)
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第6話で起きたのは、
事件ではなく、変化です。
グレイは、
触れてはいけないと決めていた一線を越えました。
それは弱さでも、衝動でもなく、
必要だった選択です。
そしてルナは、
その選択を否定しませんでした。
「一緒」という言葉は、
慰めではなく、覚悟になりました。
ここから先、
二人の距離は、もう元には戻りません。
近づいたわけでも、
完全に縮まったわけでもない。
ただ、
同じ温度を知ってしまった。
もしこの回で、
・誰かを守るために、決めていたことを破った経験
・正しさよりも、必要を選んだ瞬間
・「戻れない」と分かっていて踏み出した一歩
そんな記憶が、少しでも浮かんだなら、
それはこの物語が、あなたに触れた証です。
次話では、
触れた温度の余波が、
静かに、しかし確実に広がっていきます。




