2部第1話:春までに消えるはずだった私(子猫)は、無口な魔狼に守られたまま外の世界に出ることになりました ~跳ねてはいけなかった心が、冒険の中で役に立つなんて聞いてません~春のあと、外套の外
※本作は、
「心が跳ねたら消える」という呪いを越えた“その後”の物語です。
激しい戦闘や派手な逆転よりも、
匂い、音、距離、呼び方――
そういう小さなものを大切に書いています。
ゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。
もし途中で胸が少しだけ揺れたら、
それはたぶん、物語が始まった合図です。
春は、もう終わっていた。
森の匂いが変わったのを、私は最初に鼻で感じた。
湿った土と、芽吹いた葉の甘さが混じる匂い。冬の名残は薄く、空気は軽い。——軽いぶん、心は跳ねやすい。
私は、息をひとつ、浅く吸って、ゆっくり吐いた。
——大丈夫。
——今日は、まだ。
外套の内側は、いつもと同じ温度だった。
無口な魔狼、グレイの外套。厚くて、重くて、風を通さない。毛皮の匂いと、鉄の匂いと、火の匂い。
その匂いは「ここにいていい」という合図に近かった。だから私は、ここにいる間だけは、余計なことを考えずに済む。
でも今日は、違う。
「……出る」
グレイの声は、相変わらず低く、短い。
命令でも、確認でもない。ただの事実。
私は外套の中で、少しだけ身を丸めた。
“出る”という言葉は、音の数が少ないのに、世界を広げすぎる。
「……そと?」
「市がある。……境界」
境界市。
人と獣と魔族が交わる場所。匂いも音も、数が多い場所。
森の中の静けさとは、反対側の世界。
跳ねる。
きっと、跳ねる。
私は胸の奥に、あの感覚——満月の夜に、世界ごと息を吸い込んだみたいな跳ね——を思い出しかけて、すぐにやめた。
数えるのは、もうしない。
数えても、私の明日は増えない。増えるのは、不安だけだ。
春は越えた。
消えなかった。
だから今は——管理じゃない。
管理の次の、生き方だ。
「……一緒」
小さく言うと、グレイは頷いた。
頷き方まで、いつも通りで、私はそれに救われた気がした。
それだけで、外套の口が少し開く。
外に出ると、光がまぶしかった。
冬の白は、もう地面に残っていない。かわりに、細い草がいくつも顔を出し、濡れた葉が陽を反射して光っている。
空が高い。鳥の声が増えている。羽音、鳴き声、枝の擦れる音。全部が、心を叩く。
——跳ねるな。
——跳ねるな。
私は無意識に、前脚を握った。外套の布を、少しだけ掴む。
布の繊維が指に引っかかる感触が、現実をつなぎ止める。
グレイの歩幅は小さい。
私が外套の中で揺れないように。
彼は速さを変えない。変えると、私が気づいてしまうから。
「言葉ではなく、速度で守る」——その癖は、春を越えても消えていなかった。
森の道は、次第に踏み固められた土へ変わっていく。
小枝が少なくなり、代わりに車輪の跡が増える。獣の足跡も、人の靴跡も、混ざっている。
遠くから、金属が鳴る音がした。かん、かん、と硬い音。どこかで鍛冶が火を叩いている。
そのときだった。
胸の奥が、ほんの少しだけ、きゅっと締まる。
違う。
これは——怖さじゃない。
匂い。
道の脇、倒れた切り株のあたりから、かすかな感覚が伝わってくる。
温度でも、音でもない。
もっと、曖昧なもの。
——なのに、はっきりしているもの。
私は足を止めた。
「……どうした」
グレイが、すぐに止まる。
歩幅を合わせるのは、癖だ。止まり方まで速い。私が木片を落とす前に、彼の方が止まる。
「……ここ」
前脚で、切り株の方を示す。
言葉が、うまく出てこない。胸が、少し揺れている。
「……なにが、ある」
「……あった」
切り株に触れると、胸の奥が、すっと冷えた。
冷えたのに、同時に、熱が残る。
涙の熱。焦りの熱。握りしめた掌の汗の熱。
——泣いた。
——謝った。
——間に合わなかった。
感情が、重なって残っている。
私は思わず、息を止めた。
胸が跳ねる前に、息が止まった。
「……ルナ」
名前を呼ばれて、私は我に返る。
同じ声。距離も同じ。
それだけで、揺れは落ち着いた。
“呼ばれる”という行為の力を、私はまだ信じている。
「……ここ、だれか」
「……誰かが、跳ねた」
言ってから、しまった、と思った。
跳ねる。
その言葉は、ずっと危険だった。
跳ねた回数が増えると、消える。
だから私は「跳ねる」という言葉に、刃みたいな怖さを感じてきた。
でもグレイは、否定しなかった。
怒りもしなかった。
ただ、切り株を見て、匂いを嗅ぐように鼻先を少しだけ動かした。
「……最近か」
「……うん。かなしい」
私はそう言って、初めて気づいた。
私は今、誰かの感情を「危険」として避けていない。
感じている。
そして——「かなしい」と言えるくらいには、受け止めている。
それは、呪いだったはずの感覚だ。
「……行く」
グレイは、それ以上聞かなかった。
でも、切り株の位置を、覚えるように見た。
そして、道の端に落ちていた小石を一つ蹴って、切り株の根元に寄せた。目印。言葉の代わりに残す印。
それが、彼のやり方だった。
森を抜けると、空気が変わった。
匂いが、濃くなる。
土と草の匂いに、煙の匂いが混じり、油の匂いが混じり、甘い焼き菓子の匂いが混じる。
人がいる場所の匂いだ。
境界市が近づくにつれて、世界は騒がしくなる。
金属の音。
人の声。
笑い声。
怒鳴り声。
荷車の軋む音。
獣の鳴き声。
遠くで鈴が鳴る音。
胸が、忙しい。
忙しいというのは、跳ねそうになるということだ。
私は外套の内側から、世界を見た。
市の門は高かった。石で積まれた壁に、木の門。門の上には見張り台があり、旗が揺れている。
旗の模様は、半分が人の紋章、半分が獣の紋章。境界の印。
門番は二人。
ひとりは人間の兵で、鎧が陽に光っている。
もうひとりは獣人で、耳がぴくりと動いた。鼻先がこちらを向いた。
グレイが歩くと、人の流れが少しだけ避ける。
恐れているのではなく、理解している避け方。
“魔狼の騎士”は、近づきすぎると危険だと、皆が知っている。
でもグレイは、その距離を利用しない。
押しのけもしない。
ただ、人が避けやすい角度に身体を傾けて通る。
その仕草が、妙に上手かった。何度もこういう場所を歩いてきたみたいに。
門をくぐった瞬間、音が一段階増えた。
空気の密度が変わる。
目の前を、色が横切る。布、旗、果物、香辛料。
屋台の火が揺れて、煙が立ち上る。
肉を焼く匂い。パンの匂い。薬草の匂い。汗の匂い。香水の匂い。獣の匂い。
情報が多い。
多すぎて、心が跳ねる入口が、そこらじゅうに開いている。
——跳ねるな。
——跳ねるな。
私は、喉の奥で鳴きそうになるのを抑えた。
鳴いたら、胸が跳ねる。
鳴いたら、世界が私に気づく。
私の居場所が薄いまま、露わになる。
「……顔、出すか」
グレイが言う。
問いかけるというより、確認の準備。
私は少し迷って、それから、外套の口をほんの少しだけ押し広げた。
冷たい空気が頬を撫でる。
光が刺さる。
でも、見たい。
顔を出すと、世界は想像以上だった。
人が多い。獣も多い。
角のある者、尻尾のある者、羽のある者。
人間の子どもが走り回り、獣人の子どもが笑い、魔族らしき青年が黒い布を羽織って歩いている。
皆、生きている。
生きているから、音を出す。匂いを出す。感情を出す。
その事実だけで、胸がじんわりと揺れる。
「……ルナ」
グレイの声。
今日の分、じゃない。
ただの確認。
「……いる」
私は、返事をした。
その瞬間、胸が少しだけ跳ねた。
でも——怖くなかった。
怖さより先に、別の感覚が来た。
匂い。
さっきの切り株とは違う。
もっと近くて、もっと生々しい匂い。
私は視線を滑らせる。
屋台の列の向こう、人だかりができている。
声が、ざわざわと変な波を作っている。
笑いではない。怒鳴りでもない。
——困っている。
——焦っている。
——怖がっている。
感情が、空気に混ざっている。
それが、匂いとして鼻に刺さる。
私は、知らずに外套から身を乗り出した。
その瞬間、胸がまた揺れた。跳ねそうになる。
でも目が離せない。
人だかりの中心で、誰かが倒れていた。
小さな体。子ども。
周りの大人が口々に言っている。
「息が……!」
「水を!」
「いや、触るな、呪いかもしれない!」
「治癒師はどこだ!」
呪い。
その言葉に、私の胸がきゅっと締まる。
違う、違う。
これは私の呪いじゃない。
でも呪いという言葉は、私の中の古い傷を叩く。
私は、倒れた子どもを見た。
そのとき——世界が一瞬だけ、薄くなる。
音が遠ざかる。
匂いが一本の線になる。
そして私は、その子の周りに、ぼんやりと“残っているもの”を見る。
涙の跡。
怒りの跡。
嬉しさの跡。
——そして、ひどく強い「驚き」の跡。
驚きが、風みたいに残っている。
驚きは、跳ねる。
跳ねた心は、ここに残る。
私は息を呑んだ。
これ……何?
私の心? 違う。
私じゃない。あの子だ。周りの人だ。
でも私は、それを嗅いでいる。
「……ルナ」
グレイの声が、少しだけ低くなった。
警戒の温度。
私は、はっとして外套の中へ戻ろうとした。
でも遅い。
人だかりの端で、黒い布を羽織った青年がこちらを見た。
目が合った。
その目は驚きより、観察だった。
——見られた。
胸が跳ねそうになる。
私は思わず、外套の布を強く握った。
グレイは、何も言わずに一歩前に出た。
人の流れが自然に割れる。
彼が歩くと、空気の圧が変わる。
恐れじゃない。危険を理解している避け方。
「……道を開けろ」
声は短い。
でもその短さが、命令として通る。
人だかりが割れ、倒れた子どもが見えた。
顔色が悪い。唇が白い。胸が小さく上下している。
その横で、子どもの手が握りしめているものがあった。
小さな鈴。
さっき、遠くで鳴っていた鈴に似ている。
鈴が、かすかに鳴る。
ころん、と。
その音に合わせて、私の胸が揺れた。
揺れが、跳ねになりそうになる。
——やめて。
——落ち着け。
でも私は、目を逸らせなかった。
鈴の周りに、さらに強い感情が残っている。
嬉しさ。
走り出したくなるような嬉しさ。
それが一瞬で、驚きに変わっている。
“何かが起きた”匂いだ。
誰かが喜んだ直後に、何かが壊れた匂い。
「……治癒師は」
グレイが周囲を見回す。
そのとき、人だかりの後ろから、低い声が飛んだ。
「下がれ。空気を吸わせろ」
声の主は、旅装の女だった。
白衣ではなく、くすんだ布の上着。薬草袋を肩に提げている。
目は疲れているのに、動きは速い。
彼女は人の間をすり抜け、倒れた子どもの傍に膝をついた。
——治癒師。
彼女が子どもの胸に手を当てる。
その瞬間、私の鼻に、別の匂いが刺さった。
熱い。
苦い。
薬草の匂いに混じって、「焦げる前の火」の匂い。
治癒魔法の匂いだ。火鉢の炭に似ているのに、もっと鋭い。
「……妙だね」
治癒師は小さく呟いた。
そして、子どもの手の鈴を見た。
「この鈴、どこで手に入れた?」
周りの大人が口々に答える。
「露店で!」
「路地の角の、黒い幕の店だ!」
「安いって……子どもが喜んで……!」
喜んで。
その言葉が、私の胸を叩く。
“喜び”は跳ねる。
跳ねた心は残る。
その残り方が、さっきの切り株とは違う。
もっと意図的で、もっと歪んでいる。
私は、ぞくりとした。
これは、偶然じゃない。
鈴は、ただの鈴じゃない。
治癒師が立ち上がり、グレイを見る。
彼女の目が、一瞬だけ私の外套の方へ滑った。
見ている。気づいている。
でも彼女は、何も言わない。
正論も言わない。責める目もしない。
ただ、淡々と言った。
「この子、命はまだある。……でも、原因を止めないと増える」
増える。
増えるという言葉が、私の胸に刺さる。
呪いの回数みたいに。
グレイは頷いた。
短く。
「……どこだ」
「黒い幕の露店。路地の奥。——境界市の、裏側」
裏側。
市の裏側。
表の賑わいの裏にある場所。
冒険の匂いがした。
わくわくじゃない。怖さでもない。
でも確かに、“物語が動き出す匂い”。
私は外套の中で、息を吸って、吐いた。
胸が揺れる。跳ねそうになる。
でも、逃げない。
跳ねてはいけなかった心が、
今、私に「見ろ」と言っている。
「……ルナ」
グレイの声が、静かに私を呼ぶ。
確認。
そして——守るための合図。
「……いる」
私は返事をした。
その返事は、小さいのに、確かだった。
外の世界は、危険で、騒がしくて、感情だらけだ。
でもその中で、私は生きている。
そして私はもう、知ってしまった。
この心の揺れは、ただの危険じゃない。
世界の裏側へ続く、道しるべだ。
グレイが歩き出す。
人の波が割れ、路地の方へ道が伸びる。
黒い幕の店。
倒れた子ども。
治癒師の女の目。
胸が、少しだけ跳ねた。
でも——怖くなかった。
私は、外套の中で、そっと前を見た。
冒険は、もう始まっている。
(次話へ:第2話「境界市の匂いは、跳ねる」)
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この物語の冒険は、
「強くなること」でも
「勝つこと」でもありません。
跳ねてはいけなかった心が、
世界のどこで、誰の役に立つのか。
その答えを、ルナはまだ知りません。
でももし――
倒れている子どもを見たとき、
黒い幕の露店が気になったとき、
あるいは、
「怖くないのに胸が揺れた」瞬間があったなら。
それは、あなたの中の“感情の残響”かもしれません。
よければ感想で、
・気になった場面
・引っかかった匂いや言葉
・「この先どうなると思ったか」
どれか一つだけでも教えてください。
次話では、
境界市の“裏側”へ足を踏み入れます。




