第1話:宣告――春の満月までに
雪が柔らかくなった朝だった。
森の匂いが、冷たさの奥で少しだけ甘い。枝の先から落ちた雫が、葉に当たって小さく鳴った。
私は子猫だった。
大きな名前も、立派な家もない。
ただ、冬を越えるために必死で、息を小さくして生きてきた。
その日、私は森の治療師の小屋に連れてこられた。
木で組まれた壁の隙間から、薬草の乾いた匂いがする。火は弱く、でも絶えず燃えている。
治療師は、私の胸に耳を当てるようにして、淡々と言った。
「——春の満月までに、“心が大きく跳ねた回数”が百を超えたら、お前は消える」
言葉が、すとんと落ちた。
痛いとか、怖いとか、その前に。
私はただ、呼吸をひとつした。
消える。
春の満月まで。
心が跳ねた回数が百回。
理解するより先に、ひとつだけ確かなことがあった。
私は、いま、生きている。
治療師は続けた。
声に抑揚がないぶん、正しさだけが残る。
「正確には、心拍が一定以上跳ね上がったときだ。感情の高ぶりが引き金になる。驚き、恐怖、喜び……お前の小さな心臓は、それに耐えられない」
私は小さく頷いた。
泣くと胸が跳ねる。
叫んでも跳ねる。
だから私は、静かに決めた。
“跳ねないように、生きよう。”
それは諦めじゃない。
条件が決まっているなら、その中でできる最善を選ぶ。
私は、そういうふうにしか生きられない。
治療師は少しだけ眉を動かした。
驚いたのかもしれない。
私が泣かないから。
「……賢いな。だが賢さは、孤独を呼ぶ」
そのとき、扉が軋んだ。
入ってきたのは、狼だった。
ただの狼じゃない。
人の形を保ちながら、耳と尻尾だけが獣のまま残る——魔狼の騎士。
背が高く、影が大きい。
濡れた外套から、冷たい森の匂いが落ちる。
彼は言葉をほとんど持っていないように見えた。
「……診断は」
短い声。
低く、無駄がない。
治療師が淡々と答える。
「春の満月まで。条件は話した。お前が拾った子猫だろう」
魔狼の騎士——グレイは、私を見た。
見下ろすのではなく、距離を測るように。
怖がらせないための距離。
そして彼は、私の前に膝をついた。
巨体が沈むだけで床がきしむのに、動きが静かだった。
手が伸びてくる。
私は反射的に身を縮めそうになった。
恐怖は跳ねる。
跳ねたくない。
でも、彼は触れなかった。
指先は、私の耳の少し手前で止まる。
「……触ると跳ねるか」
私は小さく頷いた。
「なら、触らない」
それだけ言って、彼は外套を外した。
そして、それを私の横にそっと置く。
毛布みたいに。
温度が残っている。
私の心が、少しだけ揺れた。
でも——大きくは跳ねなかった。
じんわりと温かいだけだったから。
治療師が、冷たく正しい声で言う。
「情をかけると、跳ねる回数が増える。保護するなら、距離を守れ」
グレイは答えない。
ただ、外套の端をほんの少し折り、私が包まりやすいように整えた。
それは“言葉より先に決まっている行動”だった。
私はその行動に、妙な安心を感じた。
この狼は、迷わない。
私を傷つけない方向へ、最初から。
治療師がため息をつく。
「……なら、契約を結べ。保護者として。お前が責任を持て」
グレイは頷き、立ち上がった。
懐から革の首輪を取り出す。
新しい。
でも派手じゃない。
必要なものだけの、質実。
首輪の端には小さな札がついていた。
木でできた、白い札。
彼はそれを、私の目の前に置いた。
文字が彫られている。
——“呼ぶ”。
私は首をかしげた。
「……なまえ?」
私の声は小さく、かすれていた。
鳴くことすら、長くしてはいけない気がして。
グレイは短く言う。
「毎日一回だけ」
「……え?」
「呼ぶ。……お前が、ここにいると確認するため」
治療師が口を挟む。
「心拍が上がるなら、やめ——」
グレイは治療師を見ずに言った。
「跳ねない呼び方を覚える」
その言葉が、なぜだか胸に落ちた。
“できない”と言わない狼。
最初から味方の狼。
私は、静かに息を吸った。
そして、選ぶ。
“この条件で生きる”だけじゃない。
“この条件の中で、幸せも拾う”と。
私は札を見つめた。
木の白さが、春みたいにやさしい。
「……けいやく、する」
グレイは、ほんの少しだけ目を細めた。
笑ったわけじゃない。
でも、あれは確かに——安心の合図だった。
その日、私の心は一回も大きく跳ねなかった。
代わりに、火の音と、外套の温度と、ひとつの札が、静かに私を生かした。
——そして私はまだ知らない。
毎日一回の“呼ぶ”が、百回目の夜に何を連れてくるのかを。
(次話へ:第2話「契約:首輪の札に書かれた一語」)




