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苦手な方はご注意ください。

鏡合わせの姫君 魂の鏡鳴

作者: 皐月一語

 どんなに手を伸ばしても、鏡の向こうのあなたに触れることはできない。




 憤怒の火が天をつき、立ち並ぶ。


 雪煙を巻き上げ、炎の壁が全てを破壊しながら、この地に迫ってきていた。


 もうじき、等しく全てを灰に還すだろう。 滅びゆく国の中心に、白き姫君と黒衣の魔女が向かい合っている。


 太陽と月。  


 二人は鏡を挟んだように、同じ顔をしていた。


「魔女グリシフィア」 


 口を開いたのは姫君だった。


「私と取引をしなさい。グリシフィア」


 あの弱々しい、まるで小動物のようにか弱かった姫君。 


 終末をもたらす熱波に照らされながら、その瞳が真っ直ぐに魔女に向けられている。 


 不死にして絶対の魔女であるグリシフィアは、


 文字通り指先一つでバラバラにできるはずのか弱き姫君を前に———動くことができないでいた。



 時を遡り、



 その日のノースティアは晴天だった。

 それは中央からはるか北にある、厳しい寒さに覆われる辺境の島だ。


「こんな田舎にまで呼び出すなんて」


 グリシフィアが不機嫌そうに吐き捨てた。 


 七つの大罪の名を冠した、永遠に生きる七人の魔女たち。その会合がこの地で開かれるのだ。傲慢の魔女であるグリシフィアもそこに呼ばれた。


 くすんだ石畳の退屈な街並み、雪に覆われた退屈な景色。目に入るあらゆるものが、ため息が出るほどに退屈だった。


 だがこのノースティアのドレスだけは別だ。


 この地域でしか生息しない雪白蝶の繭糸でできた、この世で最も白いとされる純正白のドレスがあるという。


 ドレスの収集は数少ない趣味だった。白はあまり好みではなかったが、最も白きドレスがどのようなものなのか興味はあった。


 馬車から降り立ち、仕立て屋のドアを潜る。


 老夫婦と従業員だけの小さな仕立て屋。そこに先客がいた。


 銀の髪の彼女は白いドレスに身を包んでいる。そのドレスの白さに、眩しさすら覚えた。しかし……


 このドレスが純正白? 確かに美しいけど、自分の趣味ではないわね。


 月のない夜のような、深い黒色の方が好みだった。


 しかしその娘が振り返ったとき、息が一瞬、止まった。


「え?」


 娘とグリシフィアの声が重なった。


 グリシフィアだけでなく、その娘も同じように驚いた顔をしていた。


 二人は鏡で向かい合わせたように、瓜二つだったからだ。


「ごめんなさい、驚いてしまって」 


 先に口を開いたのは彼女の方だった。スカートの裾を摘み、恭しく礼をする。


「私の名前はフィリオリです」


 それが魔女と姫君の出会いだった。




 フィリオリの案内で、近くの喫茶店に来ていた。湯気を立てる紅茶と、焼きたてのパンの香りがする。


 彼女には護衛がついていた。グリシフィアの視線に気づいて、恥ずかしそうにフィリオリが言った。


「ごめんなさい、一人で行動することは禁じられているの」


 その様子は気弱な、いかにもな箱入り娘といった感じだった。


 小さなテーブルを挟んで向かい合わせに座った同じ顔の美しい二人は、自然に周囲の目を集めた。


 ただ、フィリオリは白のドレスに銀の髪、グリシフィアは黒のドレスに黒い髪。そっくりではあるが、対称的とも言えた。


 フィリオリは緊張した様子で、何を話したらよいか迷っているようだった。だからグリシフィアの方から身の上を話した。


「ムーングラスプ家を知っているかしら?」


 中央都を牛耳る大商人の名前だった。海の向こうから渡ってきた商人の娘だと知ると、興味を持ったようで、控えめながら色々と聞いてきた。


 海の向こうの世界、ミッドランド王国はフィリオリの知らない世界だ。 


 都はこのノースティアよりもはるかに大きく、たくさんの人間が暮らしている。その名前の通り、世界の各国から様々なものが集まってきて、ドレスの種類もこことは比べ物にならない。


 グリシフィアの話す外の世界に、気がつけばフィリオリは目を輝かせて、身を乗り出して聞いていた。


「けれど中央にも集まらないものもあるわ。あなたの白いドレスがそうよ」


「この純正白のドレスは雪白蝶の繭の糸を使っているもの。確かに、ノースティアでしか作れないものだとお母様が言っていたわ」


「そうね。そういうものは自分で見にくることにしてるの」


「あなた自身が? 船に乗って?」


「もちろんよ。ここだけじゃなく、あらゆるところへ行ったわ」


「自由なのね。私とは大ちがい」


 フィリオリが寂しそうに微笑む。彼女はこの王都の外にすら、ほとんど出たことはないという。


 しかしグリシフィアにはわからない。


「外に出たければ船に乗ればいいわ。ノースティアにも船はあるでしょう?」


「もちろん、あるわ。けど私にはできないの」 


 そこでフィリオリは最初のように再び口をつぐんだ。ややあって話題を変えるように、


「ノースティアに来た目的はドレスだけなの?」


 魔女の会合があるから、とはもちろん言えない。


「ええ、そんなところよ」と無難に答えた。




 それから何度か、彼女と会うことになった。 周囲の態度とひそひそ話から、彼女が王族、それも第一王女であることを知った。


 フィリオリはあまり自分の話をしなかったが、唯一よく話すのが、新しくやってきたという弟の話だった。


 彼女の弟は母親違いであり、弟は最近まで都から程遠い田舎の村で暮らしていた。だが身寄りを亡くし、父を頼って王都にやってきた。 


 知り合いもおらず、妾腹の子として厳しい目にさらされている弟に心を痛めているようだった。


「そんな中でもランスはいつも一生懸命で。この前なんてハウルドお兄さまに、気を失うまで剣の訓練をつけられていたわ。恐ろしいお兄さまなの。ランスはまだ剣に慣れていないのに、ひどいわ」


 弟はランスというらしい。 


 グリシフィアは率直に思ったことを言った。


「そんな扱いなら、出ていけばいいのに」

 

 とっとと故郷の村に帰ればいいのだ。けれどフィリオリが首を横に振る。


「弟は王族の血を引いている義務を果たそうとしているの。あ」


 彼女がしまったという顔をするが、グリシフィアはふっと笑った。


「あなたが王女なのはとっくに知ってるわ」


 するとフィリオリの顔がみるみる赤くなった。


「あ、あなたといると話しすぎてしまうわ。このことはどうか、内緒に」


「大丈夫よ、あなたの他に話す相手もいないもの」


「と、とにかくランスが不憫で。私だってこんなふうに失敗ばかりだけど、叱られた記憶なんてないの。同じ姉弟よ。けれど、ランスにだけはみな厳しいの」


 ふう、とフィリオリがため息をついた。





 次に会ったときの彼女の顔は輝いていた。グリシフィアの姿を見かけると、手を振って駆け寄ってきた。


「グリシフィア、聞いて! ランスが、正式に騎士になったのよ。あの厳しいお兄様に認められたの!」


 頬を上気させ、いつになく声が大きかった。


「今日はずいぶん興奮しているのね。この前はもっと大人しい感じだったけれど」


「ごめんさない、だって、嬉しいの。ずっと努力してたのを見てたんだもの。ついに報われたの」


「あなたは弟のことばかり見ているのね」


「え?」


 グリシフィアの言った何気ない一言に、フィリオリの顔がみるみる赤くなっていく。


 へえ、なるほどね。


 流石のグリシフィアも、フィリオリの感情に気がついた。


 死すべき定めの人間は増えるために、相手が必要なのだ。そしてそれを本能的に選び取るのだという。


 彼女にとっては、弟のランスがそうなのだ。姉と弟ではそういう対象にならないような気もしたが、まあ些細な問題なのだろう。


 そこから、フィリオリの雰囲気が少し変わった気がする。オドオドして小さな声なのは変わらないが、こちらの目を見て話すことが増えた気がする。


 実はグリシフィアも偶然だが、月夜の晩にランスに出会っていた。だが正直言って、あんな真面目でつまらない男のどこがいいのだろう。


 顔だろうか。まあまあ整ってはいたが、フィリオリと釣り合うほどではなかった。まあ、人間の好みはそれぞれなのだろう。


 


 その次に会ったときの彼女はこの前と対照的に、沈んだ表情をしていた。目の周りに隈が見え、いくぶん、痩せたような気がする。


 いつもの喫茶店ではなく、レストランの個室に通された。


「あなたともお別れかもしれないわ」


 掠れた声でフィリオリが言った。


 彼女は隣の国に嫁に行くことになったそうだ。だがグリシフィアは小首を傾げる。


「あなたはランスが好きなのではないの?」


 直球で言うと、フィリオリが顔を真っ赤にして俯いて、「好きだなんて、だって、弟だもの。いけないわ」と消えそうな声で言った。


「そう。じゃあ、その隣の国の男が好きになったわけね」


「そんなわけない! 会ったこともないのよ。それに噂によれば怖い人だと聞いているわ」


 そういう彼女は握った手を膝の上に置いて、弱々しく震えていた。しかしグリシフィアにはわからない。


「なら嫁に行かなければいいわ」


「そうは行かないわ。私が隣の国に嫁げば、戦争が終わるんだって」


 この国と隣国ではもう100年も戦争状態にあるようだ。だが最近では小競り合い程度で、もう長い間、大きな衝突がないと聞いている。


「戦争なんて終わらなくたって、王女のあなたは何不自由なく暮らしていけるじゃない」


「そんなこと、できない。この国のために戦っている騎士たちが毎年、何人も怪我をしてる。死んだ人だっているわ。それなのに王女の私だけが自分のために生きて、いいはずがない」


「あなたもあの真面目な弟みたいなこと言うのね。王族に生まれたからそうしなくてはならないなんて、誰が決めたの?」


「誰が決めた、とかではないの。それが王族の務めだもの」


「誰が決めたかわからない務めのために生きるなんて、私には理解できないわ。だってあなたたちは、あっという間に死ぬ生き物じゃない。好きに生きればいいのよ」


「短い命だとしても、持って生まれた役目を果たすことは大事なことよ。それに王族の役目は、他の人よりずっと大きいの。だから飢えもせずに不自由なく暮らせて、こんな綺麗なドレスを着せてもらってるのよ」


 しかしグリシフィアはまるで納得がいかないようだ。


「あなたに役目を与えた人間だってすぐに死んでしまうわ。そんな取るに足らない誰かの決めたことを、自分の気持ちよりも優先するの? その弟だって、あなたと離れたくはないんじゃないの?」


 弟の話をすると、フィリオリの顔が一瞬、歪んだ。


「ランスはきっと、祝福してくれるわ」


「そう。だとすれば結婚の話がなくても、あなたの気持ちは叶わなかったのでしょうね」


「叶えるつもりなんてないもの!」

 

 フィリオリが初めて、大きな声を出した。


「ずっと見ているだけで良かったの! いつも一生懸命なランスが報われて、幸せになってくれればそれでいいもの。だって私、実のお姉さんなのよ! こんな気持ち、許されるはずがないの!」

 

 この個室からは人払いがされていて、お付きの侍女だけがそこにいた。その侍女も感化されたのか、涙を堪えている。


「あなたがそんなに大きな声を出すなんて初めてね」


 グリシフィアがふっと笑った。そう、その方がいい。


 自分と同じ顔をしている娘が、他人の決めた結婚などでメソメソしているのは不愉快だった。だから今のような叫び声の方が心地よい。


 そしてフィリオリの望みはグリシフィアにも明白だった。だから言った。


「もし無理やりに結婚させられるのだとすれば、ランスと一緒に逃げてしまえばいい」


 フィリオリが目を大きくする。


「そんなこと、できない。だって私、あなたのように強くないもの」


「そう、ため息が出るほどに弱々しいわ。でもそんなことは関係ない。誰かのために生きようと、自分のために生きようと、あっという間に死ぬことにかわりないの。好きに生きればいいのよ。もっと好きに、傲慢に生きればいい」


 もっと傲慢に……


 フィリオリは胸を押さえた。


 本当に、好きに生きてもいいんだろうか。このグリシフィアのように、海を渡って、この国から逃げ出して、誰も知らないところでランスと暮らす。そんなことが許されるのだろうか。


「私が許すわ、フィリオリ。もし海の向こうに渡りたくなったのなら、私の船に乗せてあげる。私の名前を呼ぶの。そのときはどこにいても、飛んでいくわ」


 フィリオリは答えなかった。だが否定もしない。ただ迷っている。


 おそらく初めて、自分自身の気持ちのために迷っている、グリシフィアはそんな彼女の姿を新鮮な気持ちで眺めていた。


 おかしなものだ。人間の気持ちなどまるでわからない自分の言葉が、目の前の王女を惑わしているのだから。


 不思議な気持ちだった。


 不死不変の存在として全てを超越した彼女は、ただ一人、この世の頂に存在している。誰も届かない遥かな高みから、全てを見下ろしている。見えるのははるか地表を這う、下等でくだらぬものばかり。


 何者にも興味を持ったことがなかった。 だが、フィリオリを放っておくことができなかった。彼女を変えるべく、言葉までかけている。




 その後、フィリオリがランスと何を話したのかはわからない。だが数日後、ランスの馬に乗って、二人で一緒に南に向かっていくのを見た。


 そしてグリシフィアも、はるか南に聳える霊峰フロストピーク、その頂に用事がある。そこで開催される不毛な集まり、魔女たちの会議ワルプルギスに参加するのだ。




 七人の大罪の魔女。不死不変の彼女たちは永遠に死ぬことができない。 その生は死に勝る退屈と、終わることがないことへの絶望だった。だから、自らを滅ぼすことのできる方法を探し求めている。


 それゆえ会議は不毛だ。できるはずがないことを話しあうなど。


 魔女は誰にも殺すことはできない。魔女自らを持ってしても殺せない存在を、殺せるものなどいるはずがない。


 そんな気乗りしない道中で、グリシフィアは凄まじい魔力の流れが発動されたことに気がついた。 世界の果てからでも気がつくほどの強大な魔力量、他の魔女では考えられない。


 400年眠り続けていた怠惰の魔女パルシルシフが目を覚まし、溜め込んだ魔力で奇跡を行使したのだろう。


 だが、どんな奇跡かは見当もつかない。答えは魔女の会議にて、統括者である憤怒の魔女によって知らされた。


「ある一人の人間に100万回の生が与えられました」


 暗闇の奥で統括者が言う。胸に下げた赤水晶だけが炎のようにゆらめいている。 その人間は死ぬたび、記憶を引き継いでこの世界のどこかに生まれ変わり続けるらしい。なるほど、怠惰の魔女らしい。その人間に魔女を殺す方法を探させて、自分はどこかで惰眠を貪るつもりだろう。


「繰り返す生を経て、その人間は魔女を殺す方法を探し出すかもしれません」


 統括者は期待しているようだった。だがグリシフィアは一生にふした。


「本気で言っているのかしら」


 何度生まれ変わろうと、ただの人間に魔女を殺せるはずがない。自分はもちろんのこと、他の魔女でも相手にならないだろう。


「本気です。ですが人間の気持ちはうつろいやすい。だから、永遠に忘れられないような、強力な憤怒を刻み込む必要があります」 


 統括者の瞳の奥にちらちらと火が灯っている。


「この国を私の《憤怒の火》で滅ぼすことにします」


 国も、愛するものも、全てを焼き尽くす。


 その恨みを統括者《憤怒の魔女》自身に向けることで、導き、100万回の生の果てに、魔女を殺す方法を探させようというのだ。


「馬鹿げた妄想ね。100万回やり直そうと、人間などが魔女の脅威になるのかしら?」 


 グリシフィアが冷笑した。うまくいくとは思えないが、小賢しい統括者の思い通りに進むのも面白くない。


 そこで思いついた。ランスの復讐の相手を憤怒ではなく、この傲慢グリシフィアに錯覚させるのだ。その方が面白そうだし、この女に嫌がらせもできるので一石二鳥だ。


 そうと決まれば、もうここに用はない。グリシフィアは一同に背を向け、魔女の会議を後にした。


「おい! どこへいく!」


 他の魔女の制止を聞かず、彼女の魔法を発動する。


 月の引力の魔法。ふわりと彼女の体が浮いたかと思うと、みるみるスピードをあげ、下界が近づいてくる。


 この国が炎に包まれたとき、その人間の前に立つのは自分であればいい。なるべく、劇的に再会してやるつもりだった。そう、その人間にはすでに、一度出会っていて知っている。


 ランス。


 フィリオリの実の弟にして、想い人だった。


 街道に降り立つ。


 憤怒はランスの恨みを効率的にかうため、この国を焼くタイミングをはかっているだろう。そのときまで、やることはなかった。 


 ゆっくり歩いていると、その横を馬車が通りかかった。中から声がする。


「グリシフィア?」


 おずおずと声をかけてきたのは、会議の間中もずっと熱い視線を送ってきた魔女、色欲だった。


 見た目は幼く、薄紫色の髪をした10代半ばの少女だ。白く気品のあるドレスに馬車、ミッドランドからやってきた貴族の令嬢に扮している。


「偶然ね。どこまで歩くの? 私の馬車に乗らない?」


「遠慮するわ。その馬車の中、人間臭くてたまらないもの」


 ちらりと見えた馬車の中に、真っ黒に干からびた死体が見える。色欲の魔力によって、精の髄まで吸い尽くされたのだろう。


 指摘され、色欲のあどけない顔が真っ赤に染まる。


「いけない! お片付けがまだだったわ。でも人間なんて簡単なものね。少し胸元をはだけて視線を送れば、もう私の思うがままよ。この後、ノースプラトーの第一王子にお呼ばれしているの」


 得意げに語る色欲から、グリシフィアが視線を逸らした。その顔は嫌悪感を隠そうともしない。


 ノースプラトーの第一王子といえば、フィリオリの嫁ぎ先の隣国の王子だ。 


 結局、海を渡るためにフィリオリが自分の名前を呼ぶことはなかった。外に出ることは諦めたのか、別の道を選ぶことにしたのか。 


 だが今となっては、全て叶うことはない。隣国の第一王子は彼女が嫁ぐ前に色欲の犠牲者となるだろうし、ランスは国ごと焼かれて死ぬことになっている。


「憤怒は、愛するものを目の前で殺すと言っていたわね」


 グリシフィアがつぶやくと、自分の言ったことが繰り返し頭の中に響いた。


 誰が死のうが、国が滅びようが、今まで気に留めたことなどなかった。


 だが次の瞬間、月の引力の魔法が発動された。


 気がつくと、グリシフィアの体がはるか上空に昇った。はるか先の城下町に目を送る。フィリオリの国に方向を定め、一気に速度を上げた。


 はるか地表、真っ暗な大地に、ぽつりぽつりと小さな灯りが見える。人間が暮らしている光だ。それが後方に流れていく。


 やがて多くの灯りが集まる場所まで行くと、そこから少し離れたところに降り立った。夜の闇に紛れて、魔女が空から降りてきたところを見たものはいない。


 ノースフォレストの街につくと、もう夜だというのに、あたりは騒がしい。聞けば、王女フィリオリの結婚の話で持ちきりだった。 


 戦争の終結を意味する結婚を祝福する声だけでなく、残忍な第一王子に国の宝を差し出すのか、という怒声も多く聞こえた。


 聞けば捕虜を拷問したこと、部下の妹を無理やりに自分の館に連れ帰ったこと、その他多くの蛮行を聞いて、グリシフィアは口の端を歪めた。


「あなたの結婚相手、ろくでもないわね。まあ、今となってはどうでもいいこと」


 王子は色欲の毒牙にかかっている頃だろう。それに国そのものがなくなるのだ。彼女がどう選択しようと、結末は変わらない。


 城の外壁につくと、一気に上空に昇る。 三日月が見えた。凍えるような夜風も、グリシフィアにとってはなんでもない。城の外れにある塔に近づくと、窓の外から、軽くノックした。


 すると彼女は起きていたようで、慌てて窓に駆け寄ってきた。


「グリシフィア! どうやって。ここは塔の最上階よ」


「私は魔女だもの。どうとでもなるわ」


 靡く黒髪を抑えて、笑ってみせた。フィリオリの驚く様子が愉快だった。


 だが遊びに来たわけではない。


 吹き付ける風は冷たく、終末の前夜を思わせる。


「フィリオリ、一度しか言わないから、よく聞くのよ」


 ただならぬ物言いに、フィリオリは口をつぐんで、頷いた。


「逃げなさい。このノースティアを出て、港から船でずっと、ずっと遠くまで」


 だが、フィリオリは黙ったまま答えなかった。少しの沈黙が流れる。


 グリシフィアは眉をひそめた。


 私の言った意味が、伝わっているのだろうか。少し苛立ってくるが、そんな自分とは対照的に彼女は微笑んでみせた。


「グリシフィア、私を連れ出そうとしてくれているのね。ありがとう、あなたの気落ち、嬉しいの。でもごめんなさい。それはできないわ」


「できない? どうしてかしら」


「ランスと馬に乗って、彼の故郷に行ってきたわ。そこで私の気持ちは決まったの。私は王女としての役目を果たします。もう一生分の、幸せな気持ちをもらったもの」


「違うわ、フィリオリ」


 そうじゃない、もう結婚どころではない。国が滅びるのだ。


 だがグリシフィアの気も知らず、フィリオリは言葉を続けた。


「あなたのおかげで、ランスに、最初で最後のわがままを言えたわ。こんな未来があったのかもしれないって、思うことができた。もうそれで十分なの。私の心は思い出と、幸せで満たされてる。目を閉じればいつでもあの、幸せな時間に戻れる。だから何があろうとも、私は大丈夫なの」


 窓から月の光が差し込み、フィリオリを照らした。銀色の美しい髪、綺麗な唇。瞳は揺らぐことなく、月とグリシフィアを映している。


 魔女は言葉を失い、そんな彼女をただ眺めている自分に気がついた。さっきまでの苛立ちも、時間すらも忘れて、ただ彼女の顔を見ていた。


 なぜだろう。


 今まで何千、何万もの貴重で美しいドレスに身を包み、鏡で自分を眺めてきた。だが、こんなことは今までなかった。


 どうして同じ顔のあなたに、見惚れてしまったのだろう。


「あなた」


 言葉が出てこない。やっとの思いで、声を絞り出す。


「———変わったわ、フィリオリ」


 フィリオリは頷く。


「ええ、ランスと、あなたのおかげ」


「私?」


「そうよ、あなたが踏み出させてくれたのだもの」

 

 フィリオリが微笑んだ。その微笑みに、気圧されている自分に気がついた。


 彼女は変わり、何か———私の知らない何かを、知ったのだ。


 そして自分がそれを知ることは永遠にないのだろう。なぜなら自分は不死にして不変、完成された魔女なのだから。


 だが我に返る。それどころではない。


「逃げなさい、フィリオリ。これは命令よ」


「私はもう逃げない」


 こうなれば月の引力を用いて、フィリオリを攫うだけだ。


 手をかざす。


「…………」


 だが詠唱を発することができなかった。 魔女の力で触れればたちまち壊れてしまいそうな美しい姫君を前に、グリシフィアは動くことができなかった。 ややあって、手を下ろした。 


「わかったわ。何があっても、見届けるのね、フィリオリ」


「グリシフィア」


 フィリオリが近づいてきて、同じ顔の魔女を抱きしめた。


「ありがとう。そしてごめんね。あなたの前では、私、なんでも言ってしまうわ。お城ではけして見せない顔も見せてしまうの。強くて自由なグリシフィア、あなたは私にとって特別な人よ」


 優しい花の香りがする。あの色欲の魔女のような、造られたものではない。細くか弱い腕が私の背中に回されている。私はその腕を振り解くことができず、ただ立ち尽くしていた。


 胸が痛む。


 けして乱れることなく一定に刻まれていた《魔女の心臓》、それに言いようのない痛みを感じていた。こんなことは、初めてのことだ。


「さようなら、私の大切な友達」


 そう言って、フィリオリが離れた。銀の瞳からは一筋の雫が流れ落ちる。


 彼女はどうして泣いているのだろう。わからない。何もかも、わからない気持ちだった。


 だがそれでいいのかもしれない。 私は魔女、彼女は人間。


 鏡合わせのように同じ顔をしていても、所詮は別の生き物なのだ。


「さようなら、フィリオリ」


 もう会うこともないだろう。窓から飛び立ち、階下に身を踊らせる。フィリオリが驚いて手を伸ばすが、暗闇で姿を見失っているようだった。


 城から離れ、月夜の空に身を踊らせる。宙がえりしながら、彼女のことを考えた。


 どうせ彼女はもうじき、この国と一緒に炎に包まれて消え失せるのだ。今まで、たとえどんなに大勢の人間がいなくなろうとも、何も感じることはなかった。


 なのに、どうしてだろう。 


 たった一人の人間が消えることを考えると、不死の心臓の律動が狂う。


 ランス。


 ふと、その名前を思い出す。


 あの冴えない弟は、あんなに美しい姉を放っておいて何をしているのだろう。


 疑問はすぐに苛立ちに変わる。


 フィリオリ一人を救ってやれない弟が、たとえ100万回も命をやり直したとしても、魔女を滅ぼすことなど可能なのだろうか。


 決めた。


 ランスだけは、あの女の炎ではなく、自分の槍で直々に殺してやろう。そうでなくては、この気持ちが収まらない。


 そしてその未来が訪れた。



 ◇◇◇




 100年にわたる二つの国の戦争は、王子と姫君の結婚によって終結するはずだった。


 だが、そううまくはいかなかったようだ。


 フィリオリの国の城下は異様な空気に包まれていた。


 行き交う人々の怒号が飛び交う。


 騙された! 式は罠だった!

 

 丸腰の我が王子たちに矢の雨が降り注いだらしいぞ!

 

 なんと卑劣な! 許すまじ! 


 流された血は10倍の血をもって償わせようぞ!


 許すまじ! 許すまじ!


 失われた第二王子を弔う鐘の音が鳴り響く。




 だから言ったのに。


 知らない誰かのためになんか、生きることはないって。


 でも今となっては、もうどうでもいい。


 たかが人間の選択がどうであろうとも、魔女の定めた未来が変わることはない。


 あの小賢しい憤怒の魔女が言っていた。


 100万回の生の果てでも、けして消えない憤怒を刻み込むのです。


 国を焼き払い、その人間の前で、愛するものを殺します。




 騎士たちの怒りを乗せて、馬のいななきと蹄の音が響き渡る。


 このノースティアの中央平原に、相対する二つの国の軍勢が集結しようとしている。


 だがその勝敗など、ただの雑音に過ぎない。


 ただ定められた運命と結末に向かっていくだけだ。


 ただひとつ、グリシフィアを除いて。



 ◇◇◇




 雲ひとつない夜空。満月が雪原を青白く照らしている。


 彼女は引力に運ばれて、両国の軍勢の中央にふわりと降り立つ。


 そこへ一頭の馬がこちらに向かってきた。


 仮面を被った黒装束の女。そして小脇に抱えられたのは、気を失ったかの姫君、フィリオリだった。


 そして黒装束を追う数頭の騎馬たち。その先頭にいるのは、かのランスだった。


「なるほど、あなたならうってつけだわ」


 グリシフィアが黒装束に声をかける。


 黒装束の仮面の下は、誰よりも人間を憎む嫉妬の魔女。


 彼女ならさぞ残忍に、ランスの前であの娘を殺すだろう。


「グリシフィア!?」


 嫉妬が気づき、馬の向きを変える。


 傲慢≪グリシフィア≫が口の端をにっと広げ、微笑んだ。


「慌てふためいてどこへいくの?」


 グリシフィアの影が蠢き、無数の黒槍が生まれる。それは一斉に飛んでいき、逃げる黒装束を串刺しにした。


 投げ出されたフィリオリは地上に落ちず、夜の闇を滑るように移動すると、グリシフィアの腕の中におさまった。


 気を失っている。目覚める気配はなく、嫉妬が何か魔法をかけたのかもしれない。


 そして運命の騎士、ランスが到着した。


 姐さんを返せ。


 ただ愚直なだけの騎士が言った。


 魔女を殺すために無限のように生まれ変わる運命を知らず、世界の残酷さを知らず、何も知らない騎士がまっすぐな眼差しを向けている。


 答えは決まっている。


 グリシフィアは微笑んだ。


「いやよ」


 もう両国の騎馬が迫ってきている。怒り猛った騎士たちがぶつかり合い、この地は生者も死者も踏み荒さらることになるだろう。


 その狭間で、傲慢の魔女の声が響き渡った。


「ご挨拶なさい、この夜の支配者に」


 瞬間、不可視の力が波紋のように拡がる。次の瞬間、勢いよく疾っていた馬が地面にめり込み、両国の騎士たちは地面につっぷした。


 あるものは四つ這いに、あるものは膝まづき、誰もが頭を上げることはできない。


 そして彼方の四方から、天をつくような火柱が上がる。無数に立ち並び、全てを飲み込む炎の壁となって、この中央平原に迫ってきていた。


 必死に頭を上げ、ランスが射殺すようにこちらを睨んでいる。


 なんて無力で、無様な騎士さま。


 グリシフィアは愉快になり、悪戯を明かすような調子で告げた。


「この国はなくなるわ」




 ◇◇◇

 


 荒れ狂う炎がこのノースフォレストの雪原と、そこで争っていた二つの国の軍勢を飲み込んだ。


 世界の終わりのような光景の中心で、グリシフィアの槍がランスの心臓を貫いている。引き抜くと血が飛沫き、白銀の騎士が倒れ、血溜まりが拡がった。


 実に呆気ない。


 黒い槍を振るって血を払ったとき、気を失っていた白銀の姫君が目を覚ました。


 彼女は、倒れたランスを見て大きく目を見開く。だがそれも一瞬のことで、泣きもせず、喚きもせず、静かに魔女の方に顔を向けた。


微睡まどろみの中で、すべて聞いていたわ」


「そう。それで今更、目を覚ましてどうするつもり? あなたの弟は死んだわ。あなたの国も、なくなるの」


 フィリオリが周囲を見渡す。天を焦がす炎は、グリシフィアと彼女の周囲に見えない壁でもあるかのように近づかず、この一帯だけが守られていた。


「どうして私を焼き殺さないの。弟のことは殺したのに」


 フィリオリの顔に一瞬、険しさが宿る。彼女の最も大切なものを殺したのだ。憎くないわけがない。


 それを目に捉え、グリシフィアは微笑んだ。


 そう、憎しみこそ、魔女に向けられるのに相応しい感情だ。


「大した理由ではないわ。あなたは美しいもの。それだけよ」


「それだけ?」


「本当に私にそっくり。私にとってのあなたは、精巧な生きた人形のようよ。そばに置いて、朽ちるまで飾ってあげるわ」


 その途端、フィリオリが地面に落ちていた短剣を拾う。ランスの形見となった、美しい葉を模した真銀の短剣。


 ふふ。笑いが溢れる。


「まさかその短剣で戦うつもり? この魔女グリシフィアと」


「あなたと戦うつもりなんかない。私を飾りたいのなら、そうすればいい。けれどそこにいるのは生きた人形ではないわ。切り裂かれて、ボロボロになった私」


 フィリオリが短剣を自分の頬に当て、まっすぐな瞳で、言った。


「もし生きた人形がほしいのなら、私と取引しなさい。魔女グリシフィア」


「あなたと取引?」


 愚かなことだ。確かにあの真銀の短剣に魔力を行使するのは少し面倒だが、フィリオリ自身を拘束することは容易い。傷つけさせるなど、させるはずがない。


 だが、彼女が何を言い出すのかは興味がある。


「なんの取引かしら」


「私を助けたみたいに、生き残った人を助けるの。一人でも多く」


「ここまで来て、まだ他人を助けるの?」


「私は王女です。民を守る義務があります」


「あなたが一番助けたかったランスはもう死んだわ。それなのに知らない誰かを助けるの?」


「ランスはそうしていたわ」


 フィリオリが唇を噛む。


「だから私も最期まで、恥じることのないよう、生きるの」


「やれやれだわ。あなたは自分の美しさを過信しているわ。この傲慢の魔女を動かすほど、あなたに価値はあるかしら」


 フィリオリが黙ってこちらを見ている。 


 緋色に染まった銀色の髪が熱風に靡いている。瞳も鼻も唇も、見れば見るほどにそっくりだった。けれどそれだけなら、鏡を割るようにして、たやすく命を刈り取れただろう。


 けれど、動けずにいた。この傲慢の魔女たる自分が、その姿から目を離せず、ただ立ち尽くしていた。


 まただ。


 永遠のような時の中、たくさんの人間に出会った。羽虫のように現れては消えていくだけの人間たちにあって、なぜこの人間の声だけがこんなにも響くのだろう。


 取引、ね。


 生まれて初めての経験だ。だが不思議に、悔しくはない。


 グリシフィアは両手をあげた。


「わかったわ、降参よ。でも全ての人間は無理よ。あなたの知っている人間のうち、一人だけ助けてあげる」


「一人だけ……」


「一人でもだいぶ譲歩したわ。条件は今、言った通り。あなた自身が知っている人間よ。分け隔てなく助けるのは許さないわ。なら、急ぎましょう。私の服に捕まりなさい」


「わかったわ」



 ◇◇◇



 黒衣の魔女がフィリオリの手を取る。すると二人の身体がふわりと浮き上がったかと思うと、炎を弾きながら上昇した。やがて火柱を抜けると、そこには静謐な夜が広がっていた。


 洋皮紙を焼くように、火が地表に広がっていく。だが地上での地獄のような光景も、悲鳴も、ここまでは届かない。


「見ての通り、時間はないわ」


 夜そのもののような漆黒の瞳で、グリシフィアが言った。フィリオリが地表の一角を指差す。


 そこにあるにはフィリオリの居城だった。グリシフィアは頷くと、二人の身体が一気に落下した。しかし、冷たい冬の空気がフィリオリに触れることはなかった。


 瞬く間に城の上空まで辿り着き、城壁を越えると、内では多くの人間でごった返していた。市民たちが迫りくる炎の壁から避難してきたのだろう。 


 ごめんなさい。 


 フィリオリが唇を噛む。ここにいる人たちを助けることはできない。


 城の2階のバルコニーから王座の間に入る。窓からの乱入者に中のものたちがいろめき立つが、やがて女性の一人、王妃が声を上げた。


「フィリオリ!」


「お母様!」 


 フィリオリが抱き合う。


「どうやって戻ってきたの? 心配したわ」 


 フィリオリは答えず、周囲を見渡した。

 

 兄の妻、従兄弟たち。一族皆、この部屋に集まっていた。


 そして王座に座る父王は、厳しい顔をして、フィリオリの後ろから歩いてきた黒衣の女を見ていた。その目が驚愕に開かれる。


「フィリオリ……だと?」


「フィリオリじゃないわ。私は傲慢の魔女、グリシフィア」


 魔女の名乗りに、父王が激昂する。


「おのれ! 我が娘に化けおって!」


「別に化けたわけじゃない。言っておくけど、そこのフィリオリが生まれるよりずっと前からこの顔よ」


「魔女、この炎は貴様の仕業か」


「ええ、そうよ」


 嘘をついた。その方が面白そうだからだ。


「私の息子たちはどうなった! ハウルドは! ランスは!?」


 グリシフィアが笑った。慣れた反応であり、こういう輩の方がずっとやりやすい。


「私が殺したわ。どっちも、まるで歯応えがなかったわね」


「貴様ぁ!」


「王! お下がりを!」


 白銀の鎧を身につけた近衛の騎士が二人、剣を抜いて王の前に立った。


「魔女め。ハウルド様を殺したなどと戯言を!」


「王家への無礼、後悔することになるぞ」


「ダメです。おやめなさい!」


 フィリオリがグリシフィアの前に立ち、二人を止めようとする。その頬、腕、脚のすぐ横を、グリシフィアの生み出した黒い槍が通り過ぎていき、騎士たちの胸や顔を貫いた。悲鳴をあげる暇もなく倒れ、床に血溜まりを作る。


「きゃああああああああ!」


 侍女たちの悲鳴が聞こえた。フィリオリが驚いて振り返ると、冷笑を浮かべたグリシフィアの周囲に十本ほどの槍が滞空し、その場で静止している。


「時間がないもの。私の許しなく余計な声を出すものは、そこの騎士たちのように串刺しになってもらうわ」


 父王は目を見開きながらも、長剣を引き抜いた。その剣の前にフィリオリが詰め寄り、両手を広げる。


「戦ってはいけません! 殺されてしまいます!」


「それでも構わぬ。息子の仇すら取れずして何が王か!」


「その通り、止める必要はないわ。さあ、来なさい王様。息子たちのところに送ってあげる」


 魔女は空中の黒い槍の一本を優雅に手に取った。王はフィリオリの体を横に払いのけると、気合いの雄叫びをあげる。突き飛ばされて床に膝をつきながら、フィリオリは叫んだ。


「魔女は一人だけを助けると約束しました!」


「何?」


「炎はこの窪地の全てを! 城も全て、飲み込みます! 魔女と戦えば誰も助かりません!」


 王は驚愕の顔でフィリオリを見た。


「あの炎が城まで来ると、いうのか?」


 問いかけの答えを求めて、周囲の母や侍女たちの視線がフィリオリに集まる。答えに躊躇していると、


「その通り、あの炎は全てを飲み込むわ。全て等しく灰になるの。けれど、姫の願いと約束によって、一人だけは助けてあげる。その一人はこれから、フィリオリに決めてもらうわ」


 ひぃッ! 誰かが悲鳴をあげる。この城にいればきっと助かる。祈るように信じていた、この場の者たちの淡い希望。


 それをバッサリと断つような、無慈悲な宣告だった。



 父王が玉座から立ち上がり、剣のつかに手をかける。


「たった一人だけだと? そんな残酷な選択を、我が娘に下させるだと?」


「たった? 私がその一人を助けるということがどれだけの奇跡なのか、わかっていないようね」


「お父様! ここで魔女と戦えば全てが途絶えます!」


 決意と銀の瞳が、父王を射抜いた。フィリオリはもう、揺らぐことはない。


「誰に非道と言われようと、悪魔と言われようと、私は魔女と共に、一人を助けます」


 父は言葉を失っていた。政略の道具として隣国に嫁いでいった時の娘とはまるで別人だ。しかし対照的に母は微笑んでいた。


「あなたはたった一人の自慢の娘。それが悪魔だなんて、この私が、誰にもそんなふうに言わせないわ」


「お母様……」


「母として嬉しく思うわ。フィリオリ、あなたは本当に強くなった。その一人はもう、決めているのでしょう」


 フィリオリが頷く。乱れそうになる呼吸を整えながら、ゆっくりと名前を呼んだ。


「マリア」


 するとマリアと呼ばれた、ブロンドの髪の女性が一歩、前に出た。長身で鍛え抜かれた体を持った彼女は、長兄ハウルドの妻だった。その手には、布に包まれた赤子が眠っている。


 赤子の銀の髪は、このノースフォレスト王家の血を引く証だ。彼こそが、第一王子ハウルドの血を引く、王家の正統な後継者だ。彼女は震える声で言った。


「フィリオリ、その一人というのは、この子のことですね」


「はい、お姉様」


 しかしマリアは赤子を抱きしめたまま、動かないでいる。やがて感情が決壊したように、泣き崩れた。


「いやよ! この子を置いて死ぬなんて! この子の大きくなった姿を見たかった! 王家の跡取りとして、国を率いていくはずでしたのに!」


「お姉様……」


「ああ、フィリオリ! どうしてあなたなのでしょう。この子と私を引き裂かないで! この子には母親が必要なの!」


 フィリオリが振り返り、グリシフィアに視線を向けた。


「私の代わりに赤子と、母親を……」


 だが、魔女は首を横にふる。


「フィリオリ、あなたの方が約束を違えるの? ならすべて、なかったことになるわね」


 氷のように冷たい声だった。その声にマリアが青ざめる。


「申し訳ございません!」


 マリアが床に膝をつき、頭を下げた。


「私が間違っていました! 私の命など、どうでもいい。この子の命だけは、どうかお助けを」


「だ、そうよ」


 冷淡なグリシフィアの横を通り過ぎ、フィリオリはマリアの前でかがんだ。手を取って、顔を上げさせる。


「お姉様、ごめんなさい」


「いいの、フィリオリ。あなたが正しい。魔女を説得して、一人助けてくれることになったのでしょう? そしてこの子を選んでくれた。だから、そんな顔をしないで」


 マリアが涙に濡れるフィリオリの頬を拭い、それから胸に抱いた子供を託した。


「この子は私と、あの人のすべて。そしてこの国の希望だわ。でもあなたがいれば、きっと大丈夫ね。フィリオリ、強くて美しい私の義妹。あなたならきっと、この子を立派な王に育ててくれるわよね」


 フィリオリは言葉も出ず、無言で頷いた。生まれたばかりの赤子を残して死ななくてはならないなんて、彼女の気持ちを思うと、涙が止まらなかった。


 赤子を彼女に渡すと、マリアはこちらを見ずに、ドアから廊下の方に出て行ってしまった。やがてドアの向こうから、押し殺した泣き声が聞こえた。


「ヒィィィィィ………!!」


 悲痛な声にフィリオリが顔を歪める。唇を噛みながら一礼し、自分の腕の中にある小さな命をしっかりと抱きしめる。赤子は周りのことなどまるで知らないように、すやすやと眠っていた。


「やっと決めたのね」


 退屈そうに魔女が言った。


「もうここに用はないでしょう。さっさと行くわよ」


「グリシフィア、もう少しだけ。別れを告げさせて」


 フィリオリが懇願する。グリシフィアはため息をついたが、止めることはしなかった。


 フィリオリは母親の元にいくと、抱きしめた。母がその頭を撫でて、言った。


「地方の部族出身の私は王妃とは名ばかりのガサツな女でね、よくあの人とは喧嘩をしたものよ。けれど、おまえは私とは反対に上品で、思慮深い子に育った。それが少し心配だったわ。この厳しい冬の地で生きていくには、弱々しく感じたもの。けれど、見違えるように強くなったわ」


「はい」


「ランスがおまえを変えたんだね」


 その名前に、驚いて顔を上げた。母は優しく微笑んでいる。


「他の母から生まれたあの子を、正直なところ、疎ましく思ったものです。けれどランスはそんな周囲の目には負けず、ただひたむきに、この王国の騎士としてあるべく励んでいました。そんな彼の強さが、あなたを強くしたのかもしれない」


 母の目からも涙が溢れる。


「だから、あの世に行ったら、彼に詫びなくては。ひどい態度でごめんなさい。そして、私の大切な娘を、こんなに強くしてくれてありがとう、と」


「はい!」


 もう涙で母の顔が見えなかった。涙がいくら溢れても、枯れることなくまた溢れてくる。


 しかしランスは、あの世にはいないはずだった。


 グリシフィアの言葉が本当ならば、ランスには恐ろしい呪いがかけられている。


 100万回の生。彼はこの世界のどこかに、生まれ変わっているかもしれない。


「待て。魔女を殺せば、あの炎は止まるのではないか」

 

 王が長剣を構えた。グリシフィアが横目でそれを眺める。


「無駄よ。でも試すならご自由に」


 しかし、王の背後から抱いて止めたのは、王妃だった。


「あなた、もういいの。ハウルドも、ヴィンタスも、もう死んだのです。国民の多くも炎に呑まれた。もういいのです」


「エレノア」


「私は幸せでした。だから最期は王ではなく、レオ、出会った頃のあなたに戻って」


 父の顔が呆然とし、そして頷いた。レオと呼ばれたその顔は少年のようだった。そしてエレノアと抱き合ったまま、フィリオリに声をかける。


「フィリオリ、その子を頼んだぞ。王国は滅びようと、お前とその子がいれば、この国が完全に消えたわけではない」


 父の言葉に、幼い頃、肩車をしてもらい城の中庭を歩いたことを思い出した。王として冷たいほどに厳格な父であったが、二人だけのときは優しい父だった。


「……はい、お父様、お母様。私もお二人のもとに生まれて、幸せでした。ありがとうございます」


 フィリオリの言葉は震えて声にならなかった。だがそれでも伝わったのか、父と母が深く頷く。


 赤子を外気で冷えないように厚い毛布で包み、自分の胸に抱いた。グリシフィアの黒衣につかまる。


「フィリオリ!」


 父の叫び声がする。


「身体を大事に……!」


 体が浮き上がり、城の窓から一気に飛び出た。地表はみるみる遠ざかり、城は小さくなり、そこにいた人たちは見えなくなった。


 やがて迫る炎が全てを包み込み、一際高い炎をあげて城が燃え、朽ちていく。


 悲鳴はここまで届かない。だが今まさに焼き尽きていく皆の無念が、痛いほど、フィリオリの胸を締め付けた。震える体を押さえつけて涙を拭うと、目をそらさずにしっかりとその光景を目に焼き付けた。


 滅亡する二つの国、そこで暮らしていた強くて優しい人たち、そして、その無念。全てをなくさないよう、深く胸に刻み込む。


 そう、全てが燃えてしまったとしても、私がこの国のことを覚えていれば、この国が完全に消えてしまうわけではない。


 フィリオリは自分の胸にある温もりを優しく抱きしめた。この子が大きくなったら、炎に消えた国の物語を語って聞かせよう。


 厳格な王と優しい王妃、そして勇猛な騎士たちの物語を。




 ◇◇◇




 城から炎を見下ろしながら南方に飛ぶと、やがて高く聳える霊峰が見えてきた。切り立った岩山の間を通る細い道に、数台の馬車が並んでいるのが見えた。


「人だわ。逃げられた者もいるのね」


「勘のいいものもいるのね。けれど、逃げ切れるかしら」 まだ距離はあるが、炎の壁が霊峰の道に向けて近づきつつあった。



「グリシフィア! 降ろして!」


「あらお姫さま、あなたの召使になった覚えはないわ」


「グリシフィア」


 銀の目がじっとグリシフィアに向けられる。やれやれ、魔女は一つため息をついて、降下した。この娘の目には抗い難いものがある。


 地表に降りると、そこにいたのはエルフの一段だった。荷馬車にありったけの荷物を積んで、急いで窪地から避難している。その先頭にいる長身のエルフには見覚えがあった。


「ノルディン!」


 すると驚いてエルフがこちらを見上げた。


「君は……フィリオリ! フィリオリじゃないか!」


 それはランスの育ての親、暖かい泉の森のエルフであるノルディンだった。


「逃げれていたの!?」


「ああ、このところ地響きが続いて、様子がおかしかったからね。窪地の外に避難している途中だったんだよ。しかしまさか、こんな破壊規模になるなんて……」


 天を衝くような紅蓮の炎。それはいかに長い年月を生きるエルフにしても、想像だにしないものだった。


「しかしフィリオリ、驚いたよ。空から舞い降りるなんて。そちらの女性は君にそっくりだね。ランスにはもう一人、お姉さんがいたのかい?」


 フィリオリが言葉を失う。ランスの名前に、心臓を貫かれて息絶えた無惨な姿を思い出したからだ。かわりにグリシフィアが答えた。


「ランスの姉ではないわ。人間でもない。私は魔女、グリシフィア」


「魔女だって!?」


 ノルディンはまじまじとグリシフィアを見た。宙に浮かんでこちらを見下ろしている姿は、確かに魔女以外の何者でもない。


 まさか本物なのか? 


 しかし答えを詮索する余裕はなさそうだ。周囲の熱気が増し、轟音が近づいてくる。炎がこの狭い霊峰の道を疾ってくる音だ。


「ダメだ、追いつかれる。魔女さん、君は飛べるんだね。フィリオリを連れて先にお行きなさい。ここにいては君も巻き込まれる」


 グリシフィアが嘲るような笑みを浮かべた。

「知らないのかしら? 魔女は死ねないの。あんな炎に巻かれたくらいでどうにかなれば苦労はないわ」


「そうなのかい? でもフィリオリの方はそうじゃない。私たちのことは気にせず、先に逃げてくれ」


「逃げる……ですって?」


 グリシフィアの声音が変わった。


「私があの女の炎ごときから、逃げる? 誰にものを言っているのかしら」


 緋色の絶望が迫り、ついに人々の視界に現れた。悲鳴と絶望の声が上がる。濁流のように迫る炎は、どんなに早く馬車を走らせようと、追いつかれるのは明らかだった。


 グリシフィアはフィリオリを馬車に残すと、飛び降りて、ゆっくりと炎に向かって歩いていった。手をかざし、声が響き渡った。


蒙昧もうまいなる憤怒よ、月夜に還れ」


 すると見えない力が炎を堰き止めた。壁ができたかのように炎が遮断され、行き場をなくした火が天に向かって噴き上がる。それは雲を突き抜け、夜空を緋色に染めた。


 鮮烈な光景だった。天を衝く炎の光は遠く海を越え、ミッドランドまで届いたかもしれない。神話のような光景を背にして、傲慢の魔女が微笑んだ。


「さて、いつまで呆けているのかしら。さっさと馬車を戻し、私を迎えに来なさい」


 ノルディンはただ圧倒され、頷くしかなかった。




 やがて山々の間の道を抜けると、荒野が広がっていた。


 今来た方角の方では、高い山々の向こうが赤く染まり、山頂を越えて炎が吹き出している。人々はそれを見上げ、あるものはすすり泣き、あるものは途方にくれている。


「なんてことだ」


 ノルディンが周囲を見渡した。荷馬車が5台、エルフが6名、人間が18名。窪地から出られたものはそれだけだった。


 そしてあの火の勢い。山の向こうにはもう生きている人間はいないかもしれない。


「ノルディン!」


 フィリオリが長身のエルフの胸に飛び込んだ。


「あなたが無事だなんて! みんな炎に飲まれてしまったかと……」


「私が子供の頃、もう800年くらい前かな。霊峰が噴火したことがあったんだ。そのときの経験で、異変に気がつくことができたんだ。しかし、昔のはこれほどの規模じゃなかった。こんなことなら、皆にもっと強く逃げるように言えばよかった」


 村人たちはノルディンの忠告に耳をかさなかったし、ノルディンも確証があるわけではないので強くは言えなかった。そのため、彼を信じて避難できたのはごく親しい者たちだけだったのだ。


「ランスは一緒ではないんだね」


 ノルディンの声に、フィリオリが俯く。それで全てを察し、エルフは顔を背けた。


「胸騒ぎがしてたんだよ。だから彼に魔除けの短剣を持たせていたんだ。でも、こんなことになるなんて」


 そこでノルディンが言葉を切った。少年の頃のランスを思い出す。


 私生児という立場にありながら、王都に行って父である王の役に立つことを望んでいた。身寄りのない辛い立場にある中で、常に真っ直ぐ、正しく生きようと懸命だった。


 その彼がこんな形で最期を迎えてしまうだなんて。




 言葉をなくしているフィリオリの元へ、一人の老婆が近寄ってきた。


「フィリオリ様、ご無事だったのですね」


 老婆の顔を見てフィリオリの顔が輝く。


「マリィも無事だったの? よかった……」


 それはフィリオリがよく通っていたドレスの仕立て屋だった。そしてグリシフィアと初めて出会った場所でもある。そのときはそっくりな二人が並んで立っていて、周囲では《鏡合わせのお姫様》として噂になっていた。


 そのお姫様二人とこんな形で再会するとは夢にも思わなかっただろう。見れば老主人も一緒に逃げてこられたようだ。奇跡的に田舎の村に戻っていたことで、ノルディンの忠告を聞くことができたのだそうだ。


「そのお子様は、まさか」


「はい」


 フィリオリが胸に抱いている赤子を見つめた。その父親と同じ白銀の髪をした赤子は、周囲に動じず寝息をたてている。その様子に、兄に似て大物になるだろうという予感がした。


「第一王子ハウルドの嫡子、カイルです」


「なんと、つまりそれは!」


「はい、王家の正統な血統です」


「なんと愛らしい……、カイル様のおくるみは私目が縫わせていただけますか? 今は布がないのですが、でもいつか必ず!」


 マリィの言葉にフィリオリが頷く。


「ありがとう、お願いね」


「はい、必ず!」


 この約束は後に叶えられることとなる。(それだけでなく、その布はやがて純正白のマントとして仕立てられ、200年後、ランスと白銀のエルフの少女を護ることになる。)


「あなたにも、感謝申し上げます」


 マリィが頭を下げた。その先にいるグリシフィアが、首を傾げる。


「私?」


「炎を堰き止めたのはあなた様の大魔術でしょう。おかげで皆が生きながらえました」


 それを聞いて皮肉な笑みを浮かべた。確かに助けることになったが、あの炎を生み出したのも魔女だった。


「礼には及ばないわ。ほんの気まぐれだもの。でも生きてくれていたのはよかったわ。あなたたちのドレスを仕立てる腕は本物だから」


「ご所望なれば魔女様のドレスも仕立て上げます」


「そう。ではいつか、もらいにくるわね」


 純正白のドレスは私ではなく、彼女にこそ似合うのでしょうけれど。


「ねえ、フィリオリ」


 グリシフィアが名を呼んだ。


「これからどうするつもり?」


 フィリオリが赤子に向けていた顔をあげ、それから考え込むように再び俯いた。


 東の海が白み、太陽が顔を出してくる。長い夜が明けようとしている。


 新しい日の光を浴びて、銀の赤子を抱く彼女はまるで一枚の絵のようだった。


 グリシフィアは返事を待たず、言葉を続けた。


「行く当てがないのなら、私の船に乗りなさい。ミッドランドに渡り、そこで保護してあげる。あなたに何も不自由させないわ。その赤子にもね」


 フィリオリは俯いたまま、答えない。


「以前、あなたは言っていたわ。自由な私が羨ましい、と。一緒に来ればいい。思うがままに海を渡り、世界中のドレスや宝石であなたを飾ってあげる。あなたは世界で一番美しいのだから、世界で一番、傲慢に生きればいいの」


 すると彼女が顔をあげた。銀の瞳が、同じ顔の黒衣の魔女を映す。


「そこにあなたの大切な人はいるの?」


「大切な人? 何を言ってるの? 私以外のものなんかどうでもいいわ」

 

 するとゆっくりと、フィリオリが近づいてきた。そのままグリシフィアにもたれかかり、肩に額を乗せた。


「ごめんなさい、グリシフィア。私はあなたとは一緒に行けないわ」


「拒否権はないわ」


 黒衣の魔女の目がすっと冷めていく。フィリオリが顔をあげる。息のかかる距離で同じ顔が見つめ合う。


「あなたは私の大切なものをたくさん奪ったわ。国も、お父様も、お母様も、ランスも。あなたは酷い人、魔女だわ。あなたが憎い。憎まなくては、いけないのに———」


 銀の瞳に宿っているものは憎しみではなかった。


「———あなたのこと、嫌いになれないの。グリシフィア」


 それは傲慢の魔女が初めて向けられる感情だった。グリシフィアは、自分が憐れまれていることに気がつき、狼狽えた。


「嫌いになれない? どうしてかしら。私はあなたのすべてを奪ったわ」


「あの炎はあなたの魔法ではないのでしょう?」


「どうしてそう思うの?」


「私は嘘つきだから……他の人の嘘はわかるの」


 フィリオリの銀色の瞳に、黒衣のグリシフィアが映っている。まるで見透かされるような感じがして、魔女は表情を引き締めた。


「そう。確かにあの炎は私ではなく、他の魔女の仕業だわ。でも私が協力したことにかわりはない」


「それも嘘。あなたはきっと他の魔女に協力したりしない」


「知ったふうなことを言うのね。私はランスやあなたの兄を殺したのよ」


 ランスの名前に銀の瞳が揺らぐ。けれど、決してそらさずに言葉を続けた。


「確かにあなたはランスやお兄様を殺したわ。けれど、斬りかかっていったのはお兄様からだったわ」


「他の兵も殺したわ」


「この子を救いもした。兵士だって、あなたが直接手を下したわけではない」


 ふう、とグリシフィアが息を吐いた。


「あなた、何を言っているの? 本当は私が親切な魔女とでも言いたいの?」


「そうじゃない。グリシフィア、私、あなたを恨みたくない」


「なぜ? 恨めばいいわ。憎めばいい。私はあなたの大切な者を嗤いながら殺したわ」


「あなたはとても残酷な人よ。自由で、強くて、残酷……でも、でもね。私、あなたを見ていると、とても胸が詰まってしまうの」


 その口調は仇に向けられるものではなかった。これから旅に出る娘に送るような、二度と会えない友人に向けたような、そんな声音だった。


「だってあなた、何も知らないのだもの」


「知らない? 私は不死にして不変、完成された存在なの。あなたより、ずっと長く生きてきたのよ。その私が何を知らないというの?」


「あなたのいう通り、私たちはあっという間に死んでしまうわ。不完全で、弱くて、自分が嫌になる」


「そう、人間は不完全だわ。短い生すら思うように生きられない、弱い生き物よ」


「けどだからこそ、惹かれ合うの」


 陽光を受けて、彼女が言った。 


「弱い私でも、彼との思い出が、あなたと向き合わせてくれるの。あなたは強いわ。魔法でどこへでも行けるのかもしれない。でもね、グリシフィア。そのどこへでも行ける魔法で、あなたはどこへ行くの?」


「どこ……へ……?」


 グリシフィアは言葉を失った。


 月すらない漆黒の夜空から、ただ一人、地表を眺める心象が浮かんだ。そこには誰もいない。何も聞こえない。近づくことも、触れるものも誰もいない。


 なんと退屈な光景だろう。


「あなたがまるで、迷子のように見えるの。何も知らず、月夜に彷徨っている子猫のようだわ」


 この暗闇の世界にあっても、彼女の言葉は全てを貫き、グリシフィアまではっきりと届いた。彼女の眼差しは闇を切り裂き、グリシフィアの脳裏に焼きつく。


 ああ、そうだわ。


「何も知らないグリシフィア」


 彼女と私は、鏡合わせのように同じ姿をしている。けれど、決定的に違う。光と影ほどに、違っていた。


 グリシフィアがフィリオリと体を離す。それから、鏡のように合わせ立つ姫君に向かって言った。


「私とあなた、瓜二つの顔をしているのにね。あなたの方がずっと綺麗だわ」


 自分の美しさの方が影であり、虚像のような気がしていた。悔しくはない。ただ、自分が魔女なのだと、再認識しただけだ。


 けれど、フィリオリは言った。


「あなたの方こそ、私よりずっと綺麗だわ。綺麗で、強くて、初めて見たときから、あなたに憧れた。それでほんの少しだけ、強くなれたの」


 もし自分がこんなに弱くて頼りない存在でなければ、この惨劇を防げたかもしれない。ランスだって、死ななくてすんだかもしれない。


 グリシフィアが最後の確認をする。


「本当に、船にはのらないのね? ミッドランドに来れば、生まれ変わったランスに会えるかもしれないわ」


 そこで一瞬、フィリオリの瞳が揺らいだ。だがゆっくりと首を横に振る。


「私は行けないわ。ここの人たちと一緒に生きていくの。ねえ、グリシフィア。私、あなたが羨ましい。私に永遠の命があれば、ランスの元まで飛んでいくのに」


「この世界のどこに生まれているのかもわからないわよ」


「なら探すわ。永遠の命だもの、きっといつか見つかる」


 フィリオリが初めて微笑んだ。


「グリシフィア」


「なに?」


「弟を頼んだわ」


「頼まれても困るわ。あなたはともかく、あなたの弟は私を仇として恨んでいるわ。会えばきっと闘いになる。何度も繰り返し、ランスを殺すことになるかもしれない」


 魔女の呪いによって100万回の生を受けたランス。


 おそらく憤怒と復讐の化身と化している彼とは、生まれ変わりのたびに殺し合うことになるだろう。


「それでも、ランスは100万回も生まれ変わるのでしょう。そばにいられるのはあなたしかいないわ」


「ばかげてる。いい、フィリオリ。あなたの目の前にいるのは、すべての元凶の魔女なのよ。あなた、おかしいわ」


「そうね、おかしいのかもしれないわ。だってあのとき、炎の中であなたを見て、恐ろしいより先に、どきどきしてしまったもの。悪魔のようなあなたに見惚れていたの」


 全てを支配する夜の支配者の姿。こんな狭い窪地のきまりや仕来りなど、気まぐれ一つで灰燼と化してしまう。


「小さい頃から私ね。ときどき、全てを破壊してしまいたいって、思うことがあったの。私を閉じ込めるこんな窪地なんて、滅んでしまえばいいって」


 グリシフィアが一瞬驚いた顔をしてから、ふっと笑った。


「とんだお姫様ね。あなたがそんなことを考えているなんて、誰にもわからなかったでしょうね」


「そう、私は嘘つきなの。本当の私は王女の立場をぜんぶ投げ出して、弟のランスにさらってもらって、二人だけで海の向こうにいきたかったの」


「私は最初からそうしろと言っていたわ」


「そうだったわね」


 言うと、二人で笑いあった。


「もし生まれ変わりがあるのなら、あなたのように自由でありたい。そうしたら何にも縛られず、好きな人のもとにずっといるの」


 フィリオリが手を伸ばす。そして鏡界線を挟むように、グリシフィアが手のひらを合わせた。


「さよなら、グリシフィア」


「さよなら、フィリオリ」


 そして黒衣の魔女は背を向け、海の方に飛んで行った。フィリオリもノルディンたちの方に歩みを向ける。二人とも、振り返らなかった。




 ◇◇◇




 日が昇り始めた。荒涼の地が光と影に分けられていく。


 炎から解放された呪われた島を、グリシフィアが空からぼんやりと眺めていた。


 200年、炎を護り続けた炎の魔人(イフリート)は、ランスの槍によって倒された。


 グリシフィアが胸を押さえた。光の尾を引いて突進していくランスの姿に、胸が騒いだのを覚えている。


「私の心臓、まだちゃんと動いていたのね」


 賭けに負けたグリシフィアは、今度生まれ変わったランスに力を貸すことになっている。 


「あなたの思惑通りかしら、フィリオリ」

 

 懐かしい名前を呼ぶ。そして手を伸ばしてみた。


 最後に触れたフィリオリの手のひらの感触は、今も変わらず残っている。

 

「さて、あの真面目な騎士様はどこに生まれ変わっているのやら。ゆっくり探すことにするわ」


 私の命は永遠に続くのだから。



 

 すでにノースティアは遥か遠く、海原の上空をグリシフィアがとぶ。


 かつて滅びた国の姫君の言葉を抱いて、


 いつか、どこかで、再び彼に会うために。




 でも本当にこの命が終わることがあるのなら。


 もし生まれ変わりというものがあるのなら。 


 また、あなたに会うこともあるのかしら。


 ねえ、フィリオリ。

 

 あなたに聞いてみたいことがあるの。  (了)




ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


本編ウィッチハントサーガの、ランス目線での第一章に対する裏のストーリーになっています。本編のテーマが凝縮された回であり、独立した短編としても成り立っていると考え、公開させていただきました。


楽しんでいただけたのなら幸いです。


もし感想などあれば大変励みになりますので、よろしくお願いいたします。

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