第七幕(7)
踊ることを、怖いと思ったことはなかった。
エリーは考える。けれどそんなこと、当然だった。
今日は組分けの試験だから、今日は偉い人が見に来ているから、そんな緊張など、今ここで直面しているものに比べれば些末なものだ。
(もし、プリエールで祓うことができなかったら)
夜闇の中、篝火とステラたちが放つ魔力の炎によって、禍々しいオーガの姿が浮かび上がる。その大きさだけでエリーは竦み上がるのに、強大な力と敵意を肌で感じ取れる。
(ここで、私も……みんなも……)
見れば、客席の端にはまだ、腰を抜かしているのか座り込んだり椅子の影に身を伏せたりしている観客が見えた。それをオーギュストが安全な場所へ退避させようとしている。
「どうか、この祈りの舞で、鎮まりください——」
香炉を揺らして跳躍しながら、ステラの声が響く。激しい舞踏でこそないが、魔力を生みながら休みなく踊り続ければ、疲労は溜まる。本番前に、エリーが編んだ銀髪が乱れ、頬に貼りついていた。
その真剣なステラの横顔を、エリーは食い入るように見つめる。
「……」
夏至祭の練習中、プリエールが何かをわかっていないと、ステラへ告げた。
(わかってないのは、私の方だ……)
エリーは唇を噛み締める。
プリエールは祈りの舞。これは自分のためでも、観客のためでもない。神の加護を得るために踊る舞踊なのだ。
四人で輪を描くように踊っていたが、オーガの動きは中々止まらなかった。緊張でディアナがステップを失敗した瞬間、再び巨木の腕を振り上げて魔物は咆哮する。
「もう……っ」
エリーは反射で、飛び出していた。
四人の輪の中、ディアナとステラの間へ入ると、フォローするように振付を続ける。
「エリー!」
ディアナが驚いた声を上げ、自分のそばで翻る金の髪に目を見開く。
「パ・ド・ブレずれそうなところは、飛ばしていいわよ。私が踊るから」
ディアナの声を遮って、エリーは告げた。プリエールの振付は一つ一つが魔法を発生させるための呪文のようなものだ。本来の舞台ではありえないが、一人が失敗した部分を他の踊り手が補えば魔法は発生させられる。
だからプリエールは、複数人で踊ることが前提に置かれる。
「エリー……」
ステラもまた、魔物の前へ飛び出したエリーの姿に息を呑んでいた。ルノやミーシャも同じだ。
「なんとかできるって、あんたが言ったんだからね」
指先まで完璧な第二幕を踊りながら、エリーはステラの方を見ないまま声を放つ。
「私はただミスらずに踊るだけ。後は……頼んだわよ」
その茜色の眼差しが、一瞬だけステラの双眸と交差する。
ステラは大きく目を瞠り、それから力強く頷き返した。
「うん……! ありがとう、エリー」
最初からずっと踊りっぱなしのステラは、すでに息が上がっていたが、五人になった舞踏に力づけられる。
(すごいな)
魔物の前でプリエールを舞いながら、ステラは涙ぐみそうになる。
(一人じゃないって、すごい)
踊りながらこんなにも、自分以外の魔力に包まれる経験をステラはしたことがなかった。温かな陽光の中にいるような、健やかな勇気が湧く。
そしてエリーが加わった途端、生み出す魔力の質と総量がぐっと高まった。
「グ、ゥ……フ」
舞台の目の前まで迫っていたオーガは、そこで動きを止めた。
ステラは最後の力を振り絞るように、中央で高く跳び上がった。
「清く香りし灯し花を」
生み出された火は、さっきまでの攻撃の炎ではなかった。ステラの周りを蔦のように彩ると、仄かな閃光となって四方へ散っていった。四人のそばを光が通り過ぎ、幾筋かがオーガのもとへ届く。
木の洞に似た、黒々とした眼窩からゆっくりと敵意が消えていく。
邪気が薄れ、空気の重さが変わるのがはっきりとわかった。ステラたち五人、そして周囲で身を伏せていた人々はその姿を見つめる。
「……美キ、舞デ、アッタ」
人語を解さなかった魔物の口から、確かに言葉が漏れ聞こえる。それは枝の間を風が通り抜けるような、不思議な響きでステラたちの耳に届く。
そして年経た樹木の神は、完全に動きを止めた。
静止した途端、その姿は大きな古木へと変わる。——否、還ったと言うべきか。
ミーシャの横笛の音色が止む。同じくルノも足を止め、魔物だった木を見上げた。息を切らして、エリーとディアナもその変化を見守った。
四人の中心で、ステラは静かに拝礼をする。
「ほんとに……祓えた、の……?」
エリーは呆然と、舞台の前に根を張る巨木を眺めた。第一幕の時には美しくまとめられていた髪はほつれ、化粧を施した顔も今はあちこち煤けている。
「エリー!」
ステラがエリーのそばへ駆け寄った。さっきまで神がかったプリエールを舞っていたとは思えない、屈託ない表情へ戻っている。
「ルノも、ディアナもミーシャも!」
感極まったように、ステラは舞台で放心している仲間たちを振り返る。
「ね、言ったでしょ! みんなで踊ったら絶対できるって」
そばにいたステラは興奮気味に笑っているが、ほどけたその髪からはまだちりちりと火がついて煙が出ていた。気づいたエリーがぎょっとして叫ぶ。
「ちょっ、髪! 髪燃えてるわよ!!」
「っ、おい!」
弾かれたように、ルノがステラの毛先から火の粉をはたく。見れば髪だけでなく、ステラの素肌にはところどころ火傷ができていた。周りの焦りに対して本人はけろりとした顔で「ああ、本当だ。ありがとう」と一瞥しただけだ。
「はー……私もうだめ、立ってられないわ」
腰が抜けたように、ディアナはその場にへたり込んだ。その背中をミーシャが支える。
「あ、ははっ……みんなひどい有様だなぁ。名家のご子息ご令嬢が、揃ってボロボロの灰だらけって」
ミーシャは自分たちの様子を眺め、持っていた横笛で肩を叩く。立てないほど疲労困憊しているのは、リュミエール座のトップダンサーでもあるのだ。全幕舞台を踊りきった後でも、こんな疲れ果てることはない。
ルノがぽつりと、声をこぼした。
「……本当にプリエールは、祈りの舞なんだな」




