第七幕(5)
「何だ、あれは……」
集まっていた人々は悲鳴を上げ、あるいは竦み上がって、篝火に映し出された生き物を見上げた。
黒々とした巨大な影が、そこに聳え立っていた。
生き物――生き物には違いないが、それは熊や狼などでは決してない。見上げるような巨大な体や、全身を覆う皮膚の質感は、さながら大木が動いているようだ。実際それは、樹木を性質としている。
オーガと呼ばれる、荒ぶる自然が魔物の姿をとった存在だ。
「オーガだ!!」
「魔物が出たぞッ!」
広場に集まっていた市民たちは叫び声を上げて逃げ出した。
散り散りになって逃げ惑う彼らの姿、そして広場へ踏み込んできた怪物の姿は、舞台の上からだとよりよく見えた。
「嘘……どうして、こんな聖都の近くに、魔物が」
エリーは、書物でしか見たことのないその姿に、体の芯から震えが駆け上がってくるのを感じた。
祈りの力が及ばない辺境の地では、魔物が跋扈すると言う。
だがそれは、自分たちの生活には関わることのない事象のはずだった。大きな災害や、戦争のように。
だが今目の前で、太い腕で祭りの旗を引きちぎりながら咆哮を上げる巨躯は、圧倒的な現実感でそこにいた。濃い苔とも土ともつかない臭気とともに、オーガが顔を向けた。
腐りかけの葉のような毛髪の間から、ぽっかりと黒く洞を作る目が、エリーの姿を捉えた。
「……ッ!」
その瞬間、背筋を震えが走り、エリーはどっと冷汗を噴き出した。
「エリー!」
「早くこっちに!」
ディアナの悲鳴じみた呼び声とともに、ミーシャに腕を引かれてエリーは我に返った。竦んだ足が感覚を取り戻す。
広場にいた人々を誘導していたオーギュストは、連れ立っていた部下へ告げる。
「……あなたたちは、早くリュミエール座に連絡を」
聖都のそばへオーガが姿を現すなど、プリエールが栄えてからのこの百年ほど報告されていない。異常事態には違いないが、さすがに祈りの力で守られた門の内側まで侵入することはないだろう。避難が優先と考え、オーギュストは舞台に取り残された生徒たちへ声を張り上げた。
「全員、すぐに街を目指して避難しなさい!」
オーギュストの声に、オーガが振り返った。
「ガァウアアアッ!!」
よく通るその声に反応し、オーガは太い前肢を薙ぎ払った。大木が倒れてくる時のような、凄まじい軋みと空を掻く音が響く。
「しま……っ」
オーギュストは長椅子代わりに設置されていた丸太を越え、身を伏せる。だがオーガの腕は、その丸太ごと叩き潰そうと再び振り下ろされた。
「————炎よ、斯く在れかし」
その詠唱は囁くような声音だったが、舞台を蹴って躍り上がった跳躍は力強かった。
逃げようとするエリーたちの横を、ステラはすり抜け、大きく跳躍した。第二幕用に衣装の上から羽織った、白の薄紗の布が翻る。
ジュテ・アン・トゥールナン――片足を振り抜き、回転しながら着地するこの技巧は、プリエールの中でも高難易度の技だ。
舞台の上から放たれた魔法は、空中で炎となってオーガの顔のそばへ降り注ぐ。ごうっと闇の中で焔が揺らめき、オーガがそれを嫌がるように振り払った。
火の粉を散らし、オーガの顔が舞台に残ったステラの方へ向く。
「ステラ!」
舞台を振り返って、エリーが叫んだ。その横からルノが駆け出していた。
「何やってるんだッ!」
引き戻そうとするが、ステラは舞踏をやめない。伸ばしたルノの腕をすり抜け、魔物の迫る舞台の上で舞い続けた。
「大丈夫」
軽やかに身を翻して、ステラは四人を振り返った。
「このまま第二幕を踊れば……」
『妖精の祝祭』第二幕は、闇の力を抑えてこの先に始まる季節を祝福するもの。この演目の振付には、魔を退ける効果があるのだ。
「この魔物なら、祓える」
ステラの澄んだ双眸に、朱い色が映り込む。そこに底知れない凄みが宿った。




