第六章(16)
薄暮の中、校内の敷地を移動してサボエリへ向かう。
歴史あるその建物の扉は開け放たれており、今日も一歩中へ入ると重厚な革の匂いに包まれた。
「すみません、靴を受け取りにきました! ステラ・フィユです!」
ステラが挨拶すると、すぐに工房の奥からモリスが手の拭いながら現れた。
「おお、お待たせしてすまなかった、ステラ君」
「いえ! こんなにすぐ出来て、びっくりしました」
ステラの端的な感想に、モリスは一瞬目を丸くし、楽しそうに笑った。
「はは、そうか。……今日は、ご友人も増えて賑やかですな」
エリーとミーシャは、モリスに視線を向けられて驚きを隠しきれないまま、ぎこちなく会釈をした。ミーシャが「ほんとにモリスさんじゃん……」とエリーに耳打ちする。エリーは友人のお喋りをたしなめつつ、自分も内心同じ感想が浮かんでいた。エリーの舞踏靴……否、ヴェルネ家の嫡子であるルノでさえ、モリスに作ってもらった靴は持っていない。そもそも家のお抱え職人がいるのでリュミエール座に入る前から自分の靴は別の職人が担当しているわけだが、誰もが憧れる最高峰の靴職人なのだ。
(彼に靴を作ってもらっていた、あの子の“先生”って……)
エリーが当惑している間に、モリスは試着用の椅子へステラを案内していた。
「さあ、ここへ座って」
モリスはステラを座らせると、机から布張りの箱を持ってくる。箱には、『Stella Feuille』と書かれたタグが針で止めてあった。
「あっ、そうだ、この靴」
ステラは自分が今履いている舞踏靴を脱ぐ。両足とも揃えると、モリスへ返す。
「貸して下さった靴、ありがとうございました!」
「足に馴染むようだったら、それも持っておきなさい」
「え! でも先生の靴もあるのに」
ステラは一時的に借りるだけでも、自分にはこんな高価なもの分不相応だと思っていた。綺麗に使って綺麗に返そう、そう思っていたが、モリスの反応は異なった。
友人たちも。
「持っておきなさい。リュミエール座の支給だし、普通ダンサーはいくつか靴を常備しているものよ」
「ああ。そもそも、最初に履いていたあの靴は……その、今原型をとどめているだけでも奇跡だと思う」
エリーの言葉に続き、ルノも同じ意見を告げた。今から考えれば、さすがモリス作と言うべきか、普通の舞踏靴ならとっくにバラバラになっていても不思議ではない酷使のされ方をしていた。
「友人方もそう言っている。これは持ち帰れるように包み直そう」
モリスは近くの職人に声をかけ、もう一足分の包みを用意させる。
「けれどこれからは————」
椅子に座り直したステラの前に、モリスは膝をつき、持参した箱の蓋を開けた。
「これを履いて、踊る」
くるんだ絹布を取り去ると、そこに一足の靴が現れた。
「あなたの靴だよ」
モリスは靴紐を緩め、ステラの足元へ持っていった。
「私の、靴……」
ステラは息をつめたまま、自分の前にある靴を見つめた。
デザインは、エリーたちが履いている学校指定の舞踏靴と同様だ。滑らかな革で作られ、爪先には魔法を発生させるための金細工が施されている。真新しいその細工は、工房の光を受けて眩しいほど輝いていた。
「履いてみなさい」
ステラはその靴に、足を通した。
ずっと、ぶかぶかの“先生”の靴を履いていたステラは、自分の足先から踵まで、完璧にフィットする感覚に衝撃を受ける。さっきまで履いていた靴も素晴らしかったが、今足を通したものに比べたら雲泥の差だ。
ステラはゆっくりと立ち上がった。そのまま、優雅に爪先立ちする。
何年も、プリエールの姿勢として繰り返してきた動作だったが、格段に滑らかに立ち上がることができた。これだけの些細な動きでも差があるのだ。
この靴で踊ったら、どれだけ違うのか。
「これで少しは、リュミエール座のダンサーらしくなるんじゃない?」
腕を組んでエリーは、まんざらでもない表情で新しい靴を履いたステラの姿を見つめる。
「リュミエール座の……ダンサー」
それはステラにとって、物語の中だけに登場する存在だった。こうしてその場所に辿り着けただけでも、そのダンサーと出会えただけでも、ステラの人生には起こりえない出来事だったのに——。
(ここまで、来たんだ)
ステラは、荷馬車に揺られて聖都へ到着した日のことを思い出した。坂を上って、花咲くリュミエール座の門をくぐった日。荘厳な建物、魔法の気配、何より歓喜したのは……。
自分以外の、祈りの舞を踊る仲間たち。
ステラはくるりと回転した後、髪を揺らして四人を振り返った。
「この靴で、みんなと夏至祭に出られるの、嬉しい」
眩しく笑ったステラを見て、エリー、ルノ、そしてミーシャもディアナも、つられるように笑った。
* * *
聖都の西門を出てすぐの森には、祭りのための広場が準備されていた。
拓けた空き地には、火を灯すための松明の木や伝統的な織物で作られた旗が設置されている。そして、大きな柱を中央に立てた舞台が。
来週に迫った夏至の夜、リュミエール座の最上位組がプリエールを神に捧げる祭壇だ。
暮れなずんでいた日が完全に沈むと、辺りは青ざめた夜の闇に包まれた。普段なら、今の季節の夜の森は、生き物たちの気配で満ちているはずだったが、今は虫の声一つ聞こえてこなかった。ザザ……と風が木々を揺する。
その揺れる枝葉の間に、大きな影が蠢いた。
低く、地響きを立てながら、巨大な何かはゆっくりと広場のある方へと近づいていった。