~春の舞~ 第一幕
第一幕
聖都シエル・ジャルダンへ続く街道を、一台の荷馬車がゆっくりと進んでいく。
春風の神ゼフィールの像が彫られた西門をくぐれば、荷馬車は市中へと入る。道は広い石畳へと変わり、蹄と古い車輪の回る音は響きを変えた。
老いた馬が引く荷車の上には、今朝山向こうのドゥ・コリーヌ村で摘まれた花が、こぼれ落ちんばかりに載せられていた。黄色のミモザ、白いスイセン、薄紅のチューリップ。
その花びらの間から、日の光を透かして銀の波打つ髪が覗く。
「おーい、お嬢さん。着いたぞ」
手綱を引いて馬を止めると、御者台に乗っていた老人は荷台へ声をかけた。
詰め込まれた花籠の中から、ばさりと小さな影が身を起こした。
「ここがリュミエール座!?」
荷台で立ち上がったのは、長い癖毛を散らした少女だった。銀の髪に花びらや葉っぱをくっつけて、ステラ・フィユは大きな建物に囲まれた街を眺める。
「すごい! こんな素敵な場所なんですね……!」
天空色の瞳が、憧れの地を前にきらきらと輝いた。
「いやここはまだ街の広場じゃよ」
ステラの感動を遮って、老人は淡々と答える。被っていた帽子を持ち上げると、広場から続く一本の道を指さした。
「リュミエール座はこの向こうだ」
庭園の入り口ように樹木がアーチを描く道の向こう、いくつもの棟が連なり合った大きな城が見えた。中央のひときわ大きな屋根には、白地に金の模様が入った旗がたなびいている。
「ほら、あれがそうだ」
「あの大きな建物? あれがそうなの?」
爪先立ちして、ステラは歓声を上げる。
「すごい! あんな建物……作った人は天才ですね!」
荷物——と言っても布の肩掛け鞄一つを持つと、ステラは荷馬車からひらりと飛び降りた。
老人は、途中の田舎道で乗せてほしいと言われた旅の少女を見下ろす。
くすんだ色のワンピースやくたびれた編み上げブーツは、平民にしてもずいぶん垢抜けない装いだ。それから老人は、この街を聖なる都と呼ぶ所以たる、貴族の子息令嬢の通う舞踏学校へ視線をやった。
「あんたみたいな子が、あそこに何の用なんだ? 下働きの募集でもあったのか?」
「そうなんですか? 私、残念ながら炊事も掃除もあまり得意じゃなくて……」
「そりゃ望み薄じゃなぁ」
老人は肩をすくめた。
少女は御者台のそばまで来ると、申し訳なさそうに見上げる。
「乗せてもらったお代、本当に良かったんですか……?」
「はは、かまわんよ。どうせここを通るんだから」
鷹揚に笑いながら老人は、もう癖のようになった仕草で自分の腰をさすった。ステラは小さく首を傾ける。
「腰が痛むんですか?」
「まあ年だからなぁ」
それを聞いたステラは閃いた。
「じゃあ私、あなたの痛みが治るように、祈ります!」
ステラは荷物を置き、荷馬車から数歩離れる。
「おや、おまじないかい?」
優しいねぇと老人は微笑ましく、孫ほどの少女の様子を見ていた。
ステラは足先を真横に開いて立つ。
その背筋は、さっきまでの落ち着きない挙動とは打って変わって、微動だにせず天へ伸びている。
「アン」
緩やかに弧を描いて、右手が頭上へ伸びた。
「ドュ」
片足を高く持ち上げれば、少女の体はわずかに宙に浮いたようにさえ見えた。軸足だけですらりと立つ。
「トゥロワ」
少女は荷馬車の老人の方へ、手を伸ばした。
「————癒しの息吹」
ステラの指先の動きとともに、暖かなそよ風のようなものが、老人の元へ届く。
「お、おお?」
風がやんだ後、老人は自分の腰を触る。それから何度も腰をひねって、驚きの表情を浮かべた。
「おお! すごいな、すっかり楽になったぞ!」
「それなら良かったです」
そう言った時には、ステラは爪先立ちのポーズを解き、さっきまでの小動物めいた仕草へ戻っていた。地面に置いていた鞄を肩に斜めに掛ける。
「ほっほーこりゃすごい、おいぼれの馬まで元気になって! あんた、今のまるで、プリエール……」
手綱を持ち直した老人は、そこまで言いかけて、言葉を止めた。
(まさか……)
ステラは荷馬車の元を離れた後、振り返って老人へ無邪気に手を振った。
「おじさん、ありがとう!」
ぽかんとしている老人へ踵を返すと、ステラは今度こそ王立舞踏学校、リュミエール座の門を目指して、駆け出した。