第二幕(9)
部屋に戻って来たステラは、ぴったり体に合う大きさになった制服を脱ぎ、椅子にかけた。
「すごいな、プリエールって服を直すこともできるんだ」
襟の刺繍をなぞり、踊ってくれたディアナの姿を思い出す。
その振付を真似しようとしたところで、ステラの口から大きなあくびがこぼれた。
長旅の疲れが、一気に体に押し寄せてきた。ステラはよじのぼるような動作で大きなベッドへ上がると、寝具の上に倒れ込んだ。
「すごい、ふかふかだ……さっきのパンみたい」
ステラはうつぶせになって、清潔なリネンの匂いを吸い込む。枕を引き寄せ、ベッドの端に身を丸める。
ステラは寝室の、縦長のガラス窓から覗く夜空を、ぼんやりと眺めた。
いつもならベッドに入ればすぐに寝入ってしまうのに、今日は頭の中が興奮して、疲れの割にいつまでも眠りにつけなかった。
(本当にたどり着けたんだ、リュミエール座に……)
ステラは一度横になったベッドから降り、自分の荷物のそばへ行く。
布の袋の底から、年季の入ったスカーフに包まれたものを取り出した。
中に入っていたのは、古い形の舞踏靴だった。使い込まれ、ところどころに黒ずんだ汚れもあったが、靴先に施された銀の魔法具部分は最高級のものであることがわかる。ステラは大切そうにその靴を両手に持った後、足を通した。
両足に履くと、ステラは星明りの差し込む窓辺へ向かう。コツ、コツ、と爪先が床板を打つ音が響いた。
白い、質素な肌着のまま、ステラは清廉とした光の中でゆっくりと跪く。
(先生、先生が言った通り、ここにはプリエールを踊る子がいたよ)
服を直してくれたディアナの舞、そしてあの窓から見た、二人の踊り。
(ルノと、エリー……)
エリーの華やかな舞踏は真昼の太陽のように眩しかったし、ルノの静謐な動きは厳かな夜の闇のようだった。
薄青い星の輝きを受けながら、ステラはゆっくりと立ち上がっていく。
肩を落ちていく銀髪が、斜めに差し込む光の中できらめいた。
ステラは片足だけで立つと、もう片足を後ろへ大きく上げていく。薄いスカートが広がり、光に透かされて足の線が透けた。
舞踏靴によって、ステラの体は爪先の一点だけで、支えられる。
(お母さん、お父さん、送り出してくれて、ありがとう……)
ステラは夜空の果てへ手を伸ばすように、腕を掲げる。星から届く幽かな光の中で、ステラの祈りの姿は白々と浮かび上がった。
音楽のないまま、ステラは斜めに差し込む星明りを受けて踊った。初めはゆっくりと、やがて速度を上げて身を回せば、白い布地は儚くはためく。
足から伝わってくる軽やかな感触に、ステラは天国で踊っているような、不思議な心地がした。
故郷で踊る時、足の下から伝わってくるのは常に、硬く荒れた大地だった。
ふるさとは、岩山の途中にうずもれるようにある寒村だった。
『もういい、もういいのよステラ、あなたが踊らなくても……ッ』
母が、震える手でステラの足を撫でた。夜通し踊り続けた足先は腫れ上がり、割れた爪から血が流れていた。父はうなだれ、悔しげに呟いた。
『本当なら、聖都からの舞踏団が来てくれるはずなのに……』
季節の実りも、天災の封じも、全ては聖都にあるリュミエール座から訪れる貴族たちが、プリエールを舞って執り行っていた。
だが東の果てのポレール村にはある時から、舞踏団が訪れなくなった。
祭りでプリエールを踊る者はいなくなり、神々の怒りによって自然はたちまち猛威をふるった。夏は旱魃が続き、冬は豪雪に呑まれた。そして荒ぶる自然は、魔物という姿で顕現した。
夜になるたびに、巨大な野獣や怪鳥が跋扈し、村を襲った。彼らを鎮めるには、プリエールを舞うし
かない。だが平民にその術はない。人々は粗末な家に身を隠し、朝が来るのを待つしかなかった。
ステラも、そうやって子供時代を過ごした。
そこに一人の旅人がやってくる。四十路を過ぎたほどの、長躯の美しい女だった。
彼女は、村のために踊った。ただ一人の舞だったが、生み出される祈りの力は絶大だった。
幼いステラは、そのプリエールに魅了された。自分も踊りたいと言ったら、両親は無理だと笑った。
『プリエールは貴族たちにしか踊れないのよ』
そんなことはない、と言い返したのは、旅人の女だった。
彼女はステラに、プリエールを教えた。
そしてステラを守って————もう二度と、踊れなくなった。
「…………」
星の光が差し込む部屋で、ステラはゆっくりと舞う。
舞踏靴に通された足が動くたび、蛍のような優しい光が弧を描いた。
三年前のその事件の後、“先生”から託された銀の舞踏靴——それは足の大きさが合わず、魔力で補助しながら踊るしかなかった——を履いて、ステラは踊り続けた。
『ううん、大丈夫』
案じる母と父の顔を見て、にっこりと笑う。
『私は、踊りたいの』
義務ではない。もちろん村の人々の助けになりたかったし、救われた命で報いたいとも思っていたが、そういう重荷を背負って踊っているわけではなかった。
『プリエールが、好きだから』
それが、ステラが時を忘れて舞う理由だった。
あの時、神への祈りの舞を見た瞬間、ステラは自分の人生を捧げるべきものと出会ったと直感した。夢中になった。あんなふうに踊りたい。もっと、もっと、もっと。
『ステラ、あんたはリュミエール座に行きなさい』
成長したステラに、“先生”はそう言った。
『もう十分、あんたは一人で踊ってきたから』
ここは私が、守っておくから。
手の振付だけだって、できることはあるんだからサと、そう背を押されて、ステラは初めて村の外へ旅立ったのだ。
「ありがとう……先生」
舞い終えたステラは、再び膝をつくようにして身を伏せた。
発生した魔法は、降り注ぐ星の光を逆さにしたように、ガラスを越えて天へと昇っていく。
故郷の平和を祈った魔法は、ステラにはもうそれが届いたか確かめるすべはなかった。