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愛想の内側に毒ガスを詰めて生まれた獣の叫び

作者: 仁

「いや、あの子はお前みたいに愛想に命懸けてないだけだ」と恋人の兄は言った。敵意は向けられていても、信頼できる男であったから、その言葉の意味を考える。愛想、とはなんだ。

それは表面を繕う事。

なる程、それは言えてる。僕の本質をよく見ている。炯眼だと思った。そして、愛想に命を賭けてるから、愛想の博打に負けて命を失うんだ。「愛想を失いたくない為に、愛を失う」。こう、文章にしてみると、その字面の滑稽さは最高だ。最高に皮肉だ。表面を繕う事に命を懸けて、その被膜の内側に有った筈の命がすっからかんになるとは。いや、なんともはや、馬鹿げている。それは決して生存戦略ではない筈だ。混乱と逃避、その動機たる恐怖。それらの総決算が、生きながらにしての命の喪失だ。

今、恋人は僕の前を去ろうとしている。恋人は僕の命だった。その命が、今、僕の部屋から去って行く。或いは、違うのかも知れない。僕が彼女の部屋から去らなければならない。よく考えれば、僕に僕の社会的契約を必要とする僕の部屋が与えられている筈がない。そう思う位には、僕は僕自身の性格をわきまえている。その部屋はたぶん彼女の物だ。

恋人は、愛想に依っても手に入る。だけれど愛想の世界の向こう側にしか、恋人を繋ぎ留め続けるもやい綱は結べない。


そして死に瀕している僕は考える。人は、何かを手に入れたくて自分の命を賭ける訳じゃない。ただただ、自分の立っている世界に自分で自分を繋げているに過ぎない。それが自分一人の世界ならば一人で沈み、二人の世界なら二人で沈む。或いは、二人の場合には、片方が片方の縛りを断ち切る道もあるのかも知れない。とにかく、僕は僕一人で僕の島と一緒に沈んでいくしかないのだから、別の場合の推定は関係無い。僕は僕の人生というものを考え、そしてそれが失敗だったと考え、かつ失敗を避ける方法は無かった、何故なら生まれついた通り以外には生き得なかった、とお決まりの運命論を唱える。この論も大嫌いだ。自分の心から失敗と共に、後から後から湧き出てくる、この運命論。自分からでる、自分の嫌いなもの。僕はこれを避けようとしなかった。ありのままに生きた。避けようとしなかったが故に、運命論者の内の最も頑迷な一派に成り下がった。こうした一切から解放される事を願って、生まれなかった事の次に良い事をこれから行う。自殺だ。


手近なのは、土壌消毒用の古典的な化学薬剤、クロールピクリンを飲む事。それしか思いつかないから、早速行う。苦しみがでる一瞬前、クロールピクリンに因って自殺が出来ると知った切っ掛けとなった新聞記事を今更思い出す。そこには、駆けつけた救急隊員や、搬送された先の医師らにも二次被害が出たという事も書かれていた。飲み込まれたクロールピクリン剤が胃の中で毒ガスを発生させ続けるらしいのだ。死にたかった者に巻き込まれて、他人を助ける職務を負っている者が何人も傷付いた。それ以来、医療者らは安全の為に、服毒自殺を試みた者の胃の中に何の毒物があるのかを精査してからでなければ、医療行為が行えなくなった。かつては命を賭して他人の命を助けようとだけ考える事も出来た者達の、在り方が変わってしまった。今では他人を助ける者も自分の命を守りながら努めなければならない。それは一つの倫理の更新だった。彼は「自分を守る事」を通して「自分達を守る」という領域にも足を踏み入れるから。今日では身勝手な献身は、払わずともよい犠牲を生じる結果にも繋がり得る、という観点で、批難され得る。「命を賭して」という単純な美学は、複雑さの認識に因って瓦解した。その無情の地平に我々を放り出す切っ掛けとなったのは初めの新聞記事に書かれた服毒自殺者であったろうが、しかし彼は必ずしも自身の行為が他者を害する可能性を認識していたとは言えない。だから彼には同情の余地がある。だが、その新聞記事を知っている僕はどうか?僕は明らかに、他者を害し得る事を知ってクロールピクリンを飲んだ。僕の死んだ体が毒袋になる事を知っていてこれを飲んだ。…忘れていた?いや、そんな事はない、本当は飲む前から思い出していた。クロールピクリンで自殺が出来るという知識は僕にとって、自殺者が毒の息を吐いて、或いは吐瀉物や開腹した胃から毒ガスを生じて、医療従事者や身近な救護者を攻撃する事を伝えた記事とセットの情報だったのだから。僕には、僕が他人の道連れを望まなかったという言い訳は許されてはいない。かつての自殺者も、命を賭ける事を辞めた人達も、皆不幸の産物だったと許されたとしても、僕だけは違う。僕は不幸の一部ではなく、不幸の上に乗って復讐する者だ。運命論だ、ありのままだと行ったが、それはフェアではなかった。僕は、僕の目的に沿って持てる者を利用した。そしてここまで来たのだ。そして…クロールピクリンを飲んだ今となっては、全てが後の祭りだ。痛い。内側の全てが痛い。そしてその後、体の死が、既に経過した心の死にやっと追いついてくる。そしてもういよいよ視界が狭まった時、ガスマスクと白衣を身に付けた誰かがこう言うのが分かった。「あなたを助けます。あなたはそれを望んでいないかも知れないが、職務に最善を尽くすのが私に課せられた運命だからです」、と。そこから先は本当の闇だった。

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