第9.5話 セカンド・ハンド・ニュース
「……なぜ、ずっと隠れているのですか?」
薄闇の散歩の後、香凜を見送ったアリアはふと背後を振り向いて言った。
すると木陰に隠れていた影が小さく揺れた。
「ミリエラさん」
名前を呼ばれ、少女は観念したように陰から歩み出る。
「別に。通り道だったから」
無表情に答えるミリエラ。アリアは彼女の前にずいと歩み出て問い詰める。
「気付いていないと思っていましたか。今日だけではありません。数日前から毎日のように、私たちを尾行していましたね。距離をとっていても、私にはシルフが教えてくれます」
「…………」
「目的はなんですか? 長老たちかヴィシアドルに依頼されたのですか。それとも人の国の王が師匠に何か企みを? いずれにせよ、カリンの身に害を及ぼそうというのならば――」
「違う!」
うんざりしたような大声で否定するミリエラ。予想外の反応に目をぱちくりするアリア。
「……あーあ。もう、いいか」
ミリエラはふうっとため息をつくと普段の冷たい口調を捨てて、年に似合わぬ大人びた声でつぶやいた。ひるみつつも厳しい態度で問い詰めるアリア。
「質問に答えてください。あなたの目的はなんですか」
「私は……あんたたちがどうなるか気になってただけ。いつまで経ってもぐずぐずしてるから」
「? なんの話です?」
「…………」
アリアの問いに、ミリエラは沈黙した。
それから意を決したように深呼吸すると、敢えてぶっきらぼうな声を作って続けた。
「『この手の中のぬくもりを』。いい曲よね」
「……はい」
「あれ、私の手」
アリアの顔がこわばった。両手はぎゅっと握られ、表情の消えた両目はじっとミリエラの顔を冷たく見つめていた。
「香凜に何か聞いた? その感じだと私ってことまでは知らないか」
「それを……私に伝えて、どうしたいのですか」
こわばったままのアリアの顔は、怒っているようにも怯えているようにも見えた。
「見てられないのよ。あの子が、脈なしの女に振り回されてるとこ。時間の無駄じゃない? お互いにさ。私があきらめた意味がなくなるし」
「あなたの言っている言葉がわかりません」
「いつまでそうやって、わからないフリしてんだよって言ってるの」
自分よりずっと背の高いアリアに対して、ミリエラは一歩も退かず睨めつける。
「どうしたいのかなんて聞きたいのはこっちよ。好かれてるって知ってるくせに、何も気づかない顔して。そのくせ毎日隣でベタベタして、あからさまに熱い視線送っちゃって。何考えてんの、本当に」
「あ……」
アリアの顔が赤く染まる。
「あの子の気持ち考えてる? あと一週間。もしあんたがエルフの森に帰ることになったら、それっきりでしょ。残りの人生、あんたのこと引きずって生きてて欲しいわけ?」
「……私は……」
「私は……っ!」
互いに言いかけた言葉を飲み込んで、口を閉ざした。
沈黙の後、先にしびれを切らしたのはミリエラだった。
「私はあんたのこと好きじゃないけど。香凜には幸せでいて欲しい。私の隣じゃなくても。そのためにここまで……はるばる異国まで追ってきたんだから」
「あなたの気持ちが、私とカリンにどうして関係するのですか!」
アリアは声を抑えながらも、はっきりと怒りを込めて言った。彼女がカリン以外の他人に感情をここまで露わにするのは、初めてのことだった。
「私が……私がどれだけあの方を慕っても、誰も幸せになんてなれないではないですか。同じ時間を生きることも、同じ世界に生きることもできない。共に生きることのできないものが、人間を愛してどうなるのです。彼女の限られた時間を、私のために浪費させてしまうだけではないですか」
「……あきらめてるなら、離れていけばいいじゃない」
唇を噛んで、ミリエラが言う。
「わかっています。私は勝手です。でも今この時だけ、音楽を通じてだけ、私はカリンと繋がれるのです。同じ風になれるのです。だから、お願い……」
アリアの握りしめた両手が震えていることに、ミリエラは少し遅れて気がついた。
そして彼女の宝石の瞳から、ぽたぽた涙が流れていることにも。
「私の『今』を奪わないで……!」
その悲痛な表情を見たミリエラは一瞬ぎょっとして、それからばつが悪そうに顔をしかめた。
「……あー……その。そういうつもりじゃ……ごめん」
「……いえ。あなたのせいではありません。今のは……私自身の問題です」
アリアは深呼吸して涙を抑えると、小さく呪文を唱えてシルフの力で頬を乾かした。
「私は、カリンの『歌姫』でいられることが幸せです。それ以上は、望みません。たとえ彼女が望んでいるとしても。まどろみの夢は夢のまま、思い出になれば……醒めることもないのですから」
涙を風に消し去り、決意の表情を浮かべるアリアを見て、ミリエラははっと気付いた。
「あんた、大会に勝つ気なかったわけ? だから平気な顔で――」
アリアは質問には答えず、彼女に背を向けた。
「……カリンが私のためにしてくれることは、全部嬉しかったです。胸が張り裂けそうなほどでした。だから、その気持ちだけで、私はもう千年生きられます。あの方の歌と、頂いた愛だけで」
「受け取ってもないくせに、愛がどうとか言わないでよ」
チッと舌打ちして、ミリエラは歩き出すアリアを呼び止める。
「アリア。あんたがあきらめても、香凜はあきらめないよ。そういう子だから」
アリアは一瞬立ち止まり、うつむいて泣きそうな顔をした。それから深く息を吐いて、また歩き出した。彼女が今、帰るべき家に向かって。
<第9.5話 おわり>