ミッション1:使用済みサッカー部ソックスを持ってこい! その3
夕暮れ。
先週と同じく、赤光が教室内に深く差していた。差し込む光が、昼間とは違う陰影を作っていた。夕陽は傾き、教室の前方を照らしていた。
先週までなら、誰もいない、いないはずの教室。今日は違っていた。
夕陽のスポットライトを浴びて、一人の女性が座っていた。
窓際に座る美しい女性。
見慣れようとしても、つい見惚れてしまう人。
黒い髪をなびかせる姿に、時が止まった気がした。
会澤薫さん。
ボクが教室に入ってきたことに気がついて、会澤さんは振り返った。
「いらっしゃい。」
そういうと会澤さんは、ニコリと微笑んだ。
同じクラスのはずなのに『いらっしゃい』は変な言葉だ。まるでボクが迷い込んだ客のようにも思える。でも、会澤さんが言うと、普通のことのように自然と思えた。
『はい』と小さくつぶやき、ボクは会澤さんに近づいた。
会澤さんの席に近づくと、ボクは先週と同じように、会澤さんの前で正座した。
ボクが座ると、会澤さんは少し驚いたような表情を見せた。何か変なことしたっけなぁ、ボク。
「……」
「……」
ボクは会澤さんが話すのを待った。
沈黙。
窓はしまっていたが、遠くから部活のかけ声が微かに聞こえていた。
放課後というシチュエーションだけ切り取ったら、『告白』に見えなくもない。
「…まぁいいわ。」
しびれを切らしたように、会澤さんは話し始めた。何がいいのか分からなかったが、ボクは疑問を口にはせずに、会澤さんの次の言葉を待った。
「それで、持ってきたの?」
「あっ、はい。」
そうだった…それが今日の目的だった。
ボクは慌てて持ってきたバッグからソックスをとりだした。
もちろん仲川くんのもの。
透明なビニール袋に入れていたので、中身は見えている。
「洗ってなんかはしてないよね?」
「えっ、あっ、はい。そのままです。」
ボクは袋に入れたまま、片膝を立てて、ソックスを差し出した。
正座した姿勢から、座っている会澤さんにソックスを掲げた。
何だか献上品みたいだな。
中身は、アレだけど…
会澤さんはボクから袋を受け取ると、くるりと回して中身を確認した。
そういえば、持ってこいとは言われたけど、何に使うんだろうか。
会澤さんは少し口もとを緩めた。
頬は少し赤らんでいる、のかな?
光の加減かもしれないけど。
先週のイタズラ顔とは違う、何だろう…
しばらく見ていると、会澤さんはビニール袋からソックスを取り出した。
右手でつまみ上げるように取り出すと、さっきと同じようにソックスをクルリと回した。何かを確認するかのように。
見ている会澤さんは、会澤さんの顔は…
紅潮していた。
夕日の加減…ではなかった。
なんだろう、もうすでにボクのことすら視界にないような。
一人の世界に入っているような。
天使が優雅に舞っているような。
手に持っているものさえ見なければ。
ボクが見とれていると、会澤さんは手に持ったソックスを自分の顔に近づけた。
えっ?!
ボクが驚いている間に、会澤さんはソックスを鼻に近づけ…
すぅー
深く息をすう音が響いた。直後…
はふぅ~
深く息をつく音が続く。
すぅー、はふぅ~
すぅー、はふぅ~
すぅー、はふぅ~
続けてきっかり三度の深呼吸音が聞こえた。
「予想通りだわ。仲川くんのモノは!」
『予想通り』
その予想外の言葉にボクは困惑した。
しかし、会澤さんはそんなボクを無視して、興奮気味に続けた。
「漢のかほりの主張はあっても、そこまで差し出がましくなくって!少し酸味があることで、アクセントになってる!!!でもちょっと物足りないかな__」
会澤さんは、会澤さんは、いったい、何を言っているんだろうか。
言葉の調子では、目の前のあるソックスに対する『講評』をしているように、見える。見えるけど、想定外すぎて、ボクの頭は理解を拒否していた。
ボクの困惑をよそに、会澤さんはソックスの匂いをクンカクンカを嗅ぎ廻っていた。まるで香水でも嗅ぐかのように。
しばらく、その様子をじっと眺めた。
天使のように美しく会澤さん。
頬を赤らめ、光悦の表情を浮かべる会澤さん。
手には長めのソックス。
ボクは少し我に返った。
ボクはおそるおそる会澤さんの顔を見上げた。
いつも被っているお面を、少しだけずらして、下の顔が見えたような。
会澤さんの本当の顔をチラ見できたような。
そうか、会澤さんは…
ボクは知らずゴクリと喉を鳴らした。
会澤さんは、会澤さんは…
間違いない。
会澤さんは、変態だ。
紛うことなき。
臭い変態!
「何だろう、この柑橘系の匂いは?何か知ってる?」
ボクが会澤さんをボーッと眺めていると、突然、声が飛んできた。
会澤さんがボクに向かって声をかけたことに気がつくのに数秒。
『柑橘系の匂い』を発する元が何かを理解するのに数秒。
匂いの原因を思い出すのに数秒。
合計18秒程度の時間を要してボクが発した言葉は。
「えっ、あっ、あの…」
すでに答えになっていない。しかし会澤さんはじっとこちらを見つめていた。光悦とした表情で、ボクの答えを待っていた。
会澤さんがジッとボクを見つめている。
次第に、会澤さんが近づいているような圧迫感を感じた。
「えっっと、ボクが、そのオレンジジュースをこぼしてしまって…」
会澤さんの迫力におされ、ボクは下を向きながら、コソコソと返答した。
「……」
「……」
沈黙。
どうしよう…
ボクは会澤さんの言葉を待った。
ひょっとして叱責されるのだろうか…
汗の匂いが好きなのに、オレンジの匂いが邪魔だ、とか。
なんでこんな匂いをつけたんだ!って…
いつもそうだ。
ボクは、ボクが何かやろうとすればするほど、失敗して、誰がが困って…
ボクのせいになって…
反論するのも、怒るのも、大変だから…
自分が我慢すればって、苦笑いして…
だから…ボクは…
「あの…あ、会澤さん__」
沈黙が怖くなった。
ボクは声をかけた。
顔は下を向いたまま。
少しくぐもった声で。
少し掠れていたかもしれない。
しかしそんなボクの発言を遮るように、言葉が被さってきた。
「まぁいいわ」
まぁいいわ…
それは柔らかい言葉だった。
完全にボクは叱責されるつもりでいた。
そういう心づもりだった。
しかしそれとは真逆の…暖かくて、包み込むような口調で。
ボクはおそるおそる顔を上げた。
そこには…
光悦とした笑顔があった。
いつものクールな笑顔ではなく、
頬を赤らめて、口元は歓びを抑えきれていない。
心の底からだとハッキリと分かる笑顔。
「ありがとう。渡辺くん。」
ありがとう…
そんな言葉を聞いたのは何時ぶりだろう…
ボクにそんな言葉を言ってくれた人。
心の底から感謝してくれた人。
いただろうか…中学生の時も…小学生の時も…
「渡辺くんがいなかったら、この匂いにはたどり着けなかった。助かったわ。」
ありがとう。助かった。
それは会澤さんにとっては普通の言葉、当たり前の言葉だったのかもしれない。
実際、会澤さんはボクの方を見ているわけではなかった。
その目と鼻先は、戦利品にのみ向けられていた。きっと会澤さんの関心のほとんどもそちらに向かっているはずだ。
でも…それでも、ボクにほんの少しでも向けられた感謝の気持ち。それを感じられただけで、ボクは素直に嬉しかった。
良かった、本当に良かった。
「どうしたの?泣いてるの?」
再び下を向いたボクに、会澤さんが声をかけてくれた。
「い、いえ、何も、あ、ありません…」
ボクは少しはみ出た鼻水を拭った。
どちらにせよ、これで会澤さんとの契約は終わりだ。
仲川くんとは少し変な感じになっちゃったけど、これで、なんとか普通の高校生活に戻れる。
別に、残念とか、そんなことは、ないし…
ボクは会澤さんに気づかれないように、ほっと一息をついた。
会澤さんにも喜んでもらった。
ボクも普通に戻れる。
みんな、みんな…もとに戻れ__
「初回にしては上出来ね。」
ボクが安心しきっていると、頭の上から言葉が降ってきた。
しょ、初回?
どういうこと?
救いを求めるように、ボクはすぐに顔を上げた。
会澤さんを見上げると、先ほどの『本当の顔』とは違っていた。彼女は最初に浮かべたようなイタズラっ子の笑顔をニンマリと浮かべていた。
「どうしたの?まさか、これだけで終わりだなんて、思わないわよね?わ・た・な・べくん?」
まさか、まさか、これからも?
ボクは、ボクは、どうしたらいいんでしょうか。
ボクはこれから先のことを妄想していた。
緊張してか何なのか、ボクは自分で頬が熱で赤らむのを感じた。
会澤さん評価点:60点
講評:
臭いの質はよい。酸味と香ばしさが適度に混じっている。
土の匂いが混じっているのが少し難点。
強さも物足りない。アポクリン腺よりエクリン腺の方が強いのか、さほど強いにおいではない。運動部だから強いと思ったけど、そうでもないらしい。柑橘系の匂いが混ざってしまったのが原因なのかもしれない。




