ミッション3:剣道部に潜入せよ! その3
今日の放課後は暑かった。
先日、梅雨入りが発表された。
どんよりと雲が立ち込め、日差しは強くない。雨は降っていないものの、湿気がまとわりついてくる。外気の湿気が汗の揮発を妨げ、体温が中に籠もっていく。
季節は夏にさしかかっていた。
ボクはじとりと汗が滲み出るのを感じた。
ただそれは単に湿気のせいだけではないと思う。
「で?何もできなかったと?」
ボクは会澤さんの座る席の前で正座していた。前回とは違い、おしりのハマり心地がちょうどいい。しかも、今回は『反省会』なのだ。この姿勢が自然なのは間違いない。
しかし収まりがいいからといって、自信を持って語る内容ではない。なぜならボクは失敗したんだから。
「す…すみません…」
ボクは深々と頭を下げ、弱々しく謝罪の言葉を述べた。土下座の一歩手前。反省している身としては正しい態度だと思う。
ボクはそのままの姿勢で、会澤さんからお叱りの言葉がくるのを、頭を垂れてじっと待った。
……
……
何の言葉も来ない。
待てど暮らせど、頭の上から会澤さんの言葉は、降っては来なかった。そろそろ完全土下座モードに移行すべきか…と思っていると__
『ふぅ』
軽いため息。
ボクはおそるおそる頭を上げた。
そこには額に右手をそえた会澤さんがいた。
アンニュイ。
意味すらろくに知らない言葉が頭に浮かんだ。
「それにしても…」
会澤さんはボクに一瞥をくれた。
位置的にちょうど見下ろす形になった。
叱責でも、罵倒でもない一言。
侮蔑は含まず、ただ感情を伴わない視線。
会澤さんの美しく顔から放たれるそれらは、ボクに冷たく突き刺さった。
でも、これはこれで__
「匂わないというのは誤算だったわ。」
へっ?!
ボクが妄想に浸ろうとした時、予想外の言葉が飛んできた。
会澤さんをもう一度見た。
じっとりと、いやじっくりと見た。
左手で隠れている会澤さんの目は軽く俯いていた。口元も悔しそうに結ばれている。
会澤さんは小声で何かを呟いていた。
何を言ってるかはよく分からない。
微かに『ちょっと無理が…』とか『もっとリサーチして…』と聞こえてきた。
まるで会澤さんが悪いかのように…
まさか、まさか、会澤さんが反省を?!
違う!違う!
ボクが!ボクが!
匂いを確認しすぎて、変態扱いされただけなんです!!
会澤さんは悪くありません!!
すべてボクが!ボクのせいで!
言葉が喉から今にも飛び出しそうになった。
しかし、一つも出てこなかった。出せなかった。
なんとなく会澤さんの行動をボクが止めてはいけない気がした。
言葉の代わりに、汗だけがとめどなく流れた。
俯いたボクの額から、首すじへ。
そのまま胸元に流れ落ちた汗で、シャツがべったりと肌に貼りついた。
ボクは会澤さんの言葉を待った。
ただただ待ち望んでいた。
お願いです!
ボクを叱責してください!
変態扱いされて失敗したボクをなじってください!
言葉でだめなら、冷たい侮蔑の目線を投げかけてくれるだけでも!
ボクはもう一度、会澤さんを見た。
きっと懇願するような目をしていたと思う。
ボクのお腹の下の方に熱い滾りが上がってきた。何だろう、何だろう、これ…
期待している?
ボクは会澤さんからの叱責を期待している?
ボクの中の滾りが全身に広がろうとしていた。耐えられない…お願いします…会澤さん…お願いですから…ボクを…
……
……
ボクは懇願するように、会澤さんをじっと見つめた。
会澤さんもボクに目を向けた。
見つめ合う会澤さんとボク。
……
ラブストーリーなら、互いの顔が近づいて、愛のセリフが出てきたのかもしれない。でもそんなことは微塵も起きなかった。
起きなかったし、ボクもそんなことは望んでなかった。
会澤さんは目線を、なぜか逸らした。
気まずくなった、というわけでもなさそうだ。ボクは十分気まずかったけど。
会澤さんは、そのまま目線を軽く上に向けた。目線の先を追ってみたけど、空気以外は見当たらない。
すると、会澤さんは、一瞬『くんっ』と鼻を鳴らした。本当にほんの一瞬だけ。
そのあと、唇を少しだけ動かしたように見えた。しかし声は聞こえなかった。腹話術のように唇が動いた。そう思った。
ボクが会澤さんに見とれていると、会澤さんはスッと立ちあがった。
ボクは正座したままだったので、見上げてしまう。
下から臨む会澤さんは、夕日を光背にして、彫像のようだった。
会澤さんはそのままスッと動いた。
滑るように、なめらかに。
航跡を残すように。最初に教室で見かけたように。
そのまま行ってしまう、会澤さんが行ってしまう。そう焦りだした時、教室の真ん中で、会澤さんはふと立ち止まった。
会澤さんは、ボクの方をチラリと一瞥した。
口元には軽い笑みが浮かんでいた。
微笑み…いや、あれはイタズラを思いついた時の…
会澤さんがボクを見た時間は数秒だったはず。なのに、その瞬間、時を止められたように思えた。
ボクが硬直しているのを確かめたかのか、会澤さんはそのままクルリと振り向き、立ち去っていった。
カツカツと会澤さんの足音が遠ざかっていく。
ボクは一人。
誰もいない教室に残された。
正座をとくことなく、滴る汗を拭うこともできず。
その夜、ボクはもっと反省の態度を取るべきだったかと更に反省し、悶えた。