逃亡、祭囃子
リ──と、何かの虫が夜を彩る。誘蛾灯に沿って石を蹴ると、こつんこつん、とトンネルみたいに音が反響する。
夜特有の冷気の中で、僕は右手の柔らかい温度に気付く。横目でちらりと見ると、僕とさほど背丈の変わらない少女が並んで歩いていた。彼女は青い浴衣を着ている。背中に赤い花が堂々と咲き誇っていて、とても似合っていた。
「そろそろだね」
何がそろそろなのかも分からぬまま、僕は無意識にそう呟いている。彼女はにこりと笑って、頷く。幼い顔立ちだ──小学生だろうか。長い坂道を上りきって、僕たちは眼下の屋台の数々を恍惚とした表情で見下ろす。
坂道を下りた向こう側、そこには浴衣姿の老若男女がまるで何かの細胞みたいに犇めいていた。僕は不思議で堪らなかった。そこで見た景色はなぜか、燦々と煌めく太陽よりもずっと、輝いて見えたのだ。
翳りのない澄んだ空の奥で、欠けた月がそっと微笑んでいる。
「行こうか」
「……うん!」
はっ、と息を呑む。
風鈴の囁く縁側で、僕は少し寝てしまっていたらしい。
また、現実逃避をしていた。まったく、僕は何から逃げているんだろう。人生か、それとも時間か──。いずれにしても、逃げても時間稼ぎにしかならないような、そんな大きいものから逃げている気がする。
何とも言えない懐かしさに襲われ、胸が痛む。
あれから何十年も経った。
僕ももう五十代半ば。何かを始めるのには遅く、全てを諦めるには早い。
随分と変わってしまった。
隣で手を握ってくれる人などいないし、祭り囃子の音ではしゃぐような年齢じゃない。
それでも──お前だけはいつまでも変わらないな。
月を見上げると、揺るぎない安心感と共に、長い間共に苦難を乗り越えてきた戦友のような、そんな妙な感覚に襲われたりもする。
ふっと笑い僕はまた瞼を閉じる。
そうして少し明るい瞼の裏で、また記憶の底にいる誰かを描く。