新人看護師の残念な看病の話
ここはとある都内のマンションの一室。
彼女はベッドサイドに座り込んだまま、ベッド上で横になっている彼の頭を撫でていた。
開襟シャツ風の腰が締まった黒いロングワンピースに、袖口がふんわりしたベージュのカーディガンを羽織っている彼女の恰好は、ありふれた今時の女の子のそれである。
しかし、すんなりとした体型と女にしては高い彼女の背丈は、きっと街中では普通の女の子以上に周囲の目を引くだろう。黒いミディアムヘアーは綺麗に整えられていて、顔立ちは優しく甘い。
「大丈夫、すぐに良くなりますよ」
そう言って、彼女は優しげな顔に笑みを浮かべてみせる。対する彼は病人らしくグレーのスウェットを着ているが、穏やかで理知的な面差しの男だった。
普段はかなりの照れ屋であるはずの彼は、今は抵抗する元気もないようで半眼のまま彼女にされるがままになっていた。……とても珍しい現象だ。
見た目通りに物静かで大人しい部類の彼は、他に類を見ないほどの甘え下手でもあって、決して人に隙を見せない。彼女が甘えるように頬ずりしたり抱きしめたりしても決して嫌がることはないが、逆に甘やかすように頭を撫でようとするとそれとなく手を外される。それがいつものパターンだった。
そんな彼が、こうも為すがままになっているとは。
「……体の不調は人の行動パターンも変えてしまうんですね……。休むのを邪魔してしまうのもなんですし、私はそろそろ帰りましょうか」
そう言って、彼女は名残惜しげに彼の短い髪に触れる。すると彼は一拍置いて、ゆっくりと彼女に目を向けた。
「……帰るのか」
熱のせいか、彼の声は少しだけかすれていてだるそうだ。
「いつまでも体調の悪い人のそばに居座って、撫で回し続けるのもどうかと思うので」
彼女はそう言って笑った。
なにしろ相手は病人である。
昨日の夜にチャットアプリで「熱が出た上にまだあがりそうだ」という連絡を彼から受けて、心配でいてもたってもいられずに彼の家まで押しかけてしまった。だが、だるそうにしている人間を愛玩動物のように撫で続けるためだけに長居してしまってはいけないと思ったのだ。
「顔も見たし、必要そうなものは置きに来ることが出来たので、目的は達成しました。後はゆっくり休んで下さいね。
飲み物は、枕元に置いてあります。
買ってきたごはんは冷蔵庫に入れておいたので、食べられそうなものをチンして食べてください。氷枕は冷凍庫にあるので使いたくなったら使ってくださいね」
そういって、彼女はパッと彼の頭から手を離した。
抵抗する元気がないだけで、撫でられ続けるのは彼も嫌だろうなと思っていた。
……だが彼は、彼女の手が離れたことに気がつくと、ぼんやりとした表情のまま彼女の手首をぐっと掴んで自分の頭の上に戻してしまう。
「あれ。いいんですか? いつもだったら頭はちょっとって嫌がるのに」
「……もう少し」
「えっ?」
「もう少し、いて欲しい」
そう言いながら、彼はぼんやりと目を瞬いで、自分に触れている彼女の手を確認するように触り直す。
会話が噛み合っているようで噛み合っていない。
彼女はきょとんとした表情で目を瞬いた。
──なんとなく、看護大学の授業で知ったオースティンの言語行為論とかいう知識を思い出す。
「寒いね」という言葉が文字通りの意味だけではなく「窓を閉めてほしい」「その上着を貸してほしい」という要求をも含んでいるとかいう内容だった。
そんなわけで彼女はオースティンの理論に基づいて、彼の「いて欲しい」という言葉を撫でて欲しいし側にいて欲しいと思ったから出た言葉なのだろうと勝手に解釈することにした。
理詰めで全てを考える彼には根拠がない慰めなど必要ないのかもしれないと思っていたのだが、体が弱っているときは別なのかもしれない。
「……大丈夫、すぐに良くなりますよ」
彼女は先ほどと同じことを言って、ふわりと笑った。理詰めで全てを考えるはずの彼は、特に反論もせずに静かに息を吐いている。
彼女は先ほどと同じように、彼の黒髪に白い指先を滑らせた。
彼が抵抗する気配はない。ただ凝と目を閉じている。
自分の早合点が結果的に正解だったらしいことに、彼女は内心で安堵した。
何度も何度も彼の輪郭をなぞっているうちに、彼の呼吸が寝息に変わる。
(早く元気になるといいなあ……)
ほぼ確実にただの風邪だと頭では分かっていても、過保護な彼女は彼のことが心配でたまらない。
結局、彼が深い眠りについても彼女は帰ろうとすることもなく、ベッドサイドに座り込んだまま目を閉じた。
帰ろうと思っていたがやっぱりやめた。
レースのカーテン越しの光はまだ日が高く、絶好の外出日和であることを告げている。
だが、彼女には特に外に出て何かをやる予定はなかった。
もともとデートのはずだったのが、彼が風邪を拗らせてしまって中止になってしまったからだ。
無理やり予定を作って外に出るよりも、ここで彼の寝息を聞いていたかった。
これはそんな、熱で潰されてしまった彼と彼女の休日の話。
☆
時刻は少々さかのぼる。
自己管理がなっていなかったと彼が気づいた時にはもうあとの祭りだった。
頭と喉の痛みや全身のだるさといった違和感に気づいたのが昨日の朝。
それを無視して日々の業務や険悪になりかかっていたチームスタッフ間の調整作業に奔走し、異様な寒気を覚えて帰宅早々に床に入ったのが昨日の夜。
目を覚ますと体が異様なまでに熱くて重く感じられたので、体温をはかってみれば38度7分というとんでもない数値をたたき出してしまったのが今日の朝。
(……完全にこじらせた……手遅れだな)
時刻は昼。熱は38度2分。苦痛は少ないが熱は高いし体は重い。
ベッドの中で、もはや引き出しに戻すのも面倒くさくなった体温計を枕元に放り投げて彼は思わずため息をついた。
体温計の隣に転がっている電波式のデジタル置き時計は、今が土曜の13時半であるということを伝えている。
シャワーを省略した上に夜中に汗をかいてしまったせいか、体が酷くベタついていた。
休日なので職場に休みの連絡を入れる必要もないが、月曜までに熱が下がらなければどうなることやら。
諸々の引き継ぎ作業のめんどくささと考えたくなさに彼が頭を抱えていたそんな時に、彼女はひょっこりやってきた。
「あ、起きてる。チャットアプリ見ましたよー。
風邪を拗らせちゃったんですよね、大丈夫ですか?」
ガチャリとドアが開く音とともに、ミディアムヘアの黒髪を綺麗に整えた女性が部屋に顔を出す。
七つ年下の彼の恋人は、彼がそうして欲しいと言ったわけでもないのに特に理由もなく敬語で話した。
彼にとっては見ているだけで癒される存在だが、今は一番来て欲しくない相手でもある。
「……帰れ。今すぐに帰れ」
「来ていきなりそういうこと言っちゃいます?」
「風邪がうつったら大変だろう」
「大丈夫ですよ問題ありませんから。看護師は風邪なんか引かないんです」
「見え透いた嘘を堂々と言うんじゃない、一か月前にマスクをしてゴホゴホ言っていただろうに。
……というか、待ってくれ。どうして君が俺の家に入る事が出来ているんだ? 鍵は閉めておいたはずだぞ」
「え? 前に合い鍵を作ったの、忘れちゃいました?」
思わずベッドから出かかった彼を制して、彼女は呆れた顔で鍵を振ってみせる。
それを見て彼は思い出した。
──作った。そういえば、作った。
何回か前のデートの合間に、地下街の鍵屋で合い鍵を作ったのだった。
「あー……あーー……」
と、ぼーっとした顔で口をパクパクさせている彼を見て、彼女は今はマトモな雑談ができる状態ではないと判断したらしい。
手早く手を洗ってコンビニで買った食料を冷蔵庫の中に入れ始めた。
「難しいことは考えないで、ゆっくりしていて下さいね。抗生物質が処方されているかもしれないと思って、ビタミンK(ほうれん草・小松菜・納豆が代表的)が補えそうで消化の良いものを選んできました。腸内細菌によるビタミンK産生量の低下が起こってしまうんですよ……って、今何か食べられそうです?」
「いや、あまり……朝は38度7分くらいあって、さっき測ったら38度2分だったしなあ」
「なるほど、じゃあ今はやめておきましょう。寒気はあります?」
「……ない。昨日はあったんだが」
「よかった。だったらもう今以上に熱が上がる可能性は低いですね。
土曜日だし、病院はもう今の時間には閉まっちゃってますし、今日と明日をゆっくり過ごせば体も段々楽になっていくんじゃないかなあ」
デートが出来ないのは残念だけど、いまは体を休めるのが優先ですねと彼女は笑う。
「食事や飲み物やいろんな雑貨を買ってきたので、土日は家から出ずに療養に専念できますよ」
そんなことを言いながら彼女はベッドサイドに座り込み、彼に自分の手を当てた。
快い冷たさに彼は思わず安堵の息をついたが、反面彼女は渋く険しい顔になる。
「……熱いですね。でも大丈夫、きっとすぐに良くなりますよ」
そう言って彼女が笑顔を作って手を離すと、今度は彼が渋い顔になる番だった。
「気休めを言ってくれるな。
こうも熱でやられていると、週明けまでに回復出来ている気がまったくしないぞ」
「寒気はもうありませんから、今以上に熱が上がる可能性は低いと思いますよ」
「どうだかな」
「大丈夫ですって。週明けまでに間に合うかどうかは……ちょっとよくわかりませんが」
「……全然納得できないぞ。そもそもその『寒気』って一体なんなんだ?
よく寒気が消えた状態を『熱が上がりきった』とかいうが、あれも全く意味がわからん。寒気が消えたら熱はもう上がらなくなると言える根拠は一体どこにあるんだ? 根拠のない慣例みたいな思い込みじゃないのか?」
高めの熱を出しているのに、彼はいつもの彼の調子で納得できないことを理詰めで理解したがる。彼女は思わず苦笑した。
「ちゃんと理由もありますって。ほら、冷たいものでも飲んで落ち着いてください。今は休息と水分補給が大事ですよ」
そうしてガサゴソと自分が持ってきた薬局のビニール袋を漁って、そこからゼリー飲料のパックを取り出した。
そして熱で気持ちが落ちているらしい彼を慰めるように、それを頬に軽く当てる。
彼は「そうだな」とため息をつきながら、それを受け取って蓋を開けた。
彼がゼリー飲料をずぞぞと飲み始めたのを見やりながら、彼女は問わず語りに話し始める。
「風邪をひくとね、ウイルスと戦っている免疫活性食細胞の働きで、内因性発熱物質っていうものがつくられるんです」
寝物語がわりのつもりだった。
聞いているうちに彼が眠ってしまえるといいなと思いながら、彼女はのんびり話を続ける。
「サイトカインは血流に乗って脳……厳密には体温を調節する機能がある脳の視床下部に行こうとするんですけど、BBB(脳血流関門)に阻まれて目的地である脳までたどり着くことが出来ないんです。
そこでサイトカインは、脳に情報を伝えるためにプロスタグランジンE2(PGE2)の産生を促します。
PGE2を受け取った視床下部の体温調節中枢は、セットポイント……つまり体温の設定温度を上げます。
すると体の各部位が、その設定温度にもとづいて体温を上げようとして、皮膚の血管を収縮させたり、汗腺を閉じたりして、熱放散を抑制する活動を始めるんですよ。それに筋肉をふるえさせて熱産生をうながしたりもしますね。
これが風邪で熱が上がっているときに、体の中で起こっていることです。
この実際の体温と設定温度が離れている時に起こるのが『寒気』。実際の体温が設定温度よりも低いから起こる感覚なんですよ。
今寒気を感じていないということは、体温が設定温度どおりになったということなので、今以上に熱が上がる可能性は低いと判断することができます。
もちろんなんらかの理由で風邪が悪化した場合には、セットポイントが更に上がって熱も上がってしまう可能性は否定できませんが」
「……よく分からんが、詳しいんだな」
「看護の基礎ですから」
そう言って彼女は笑う。
「患者さんに対する評価が間違っていると、見落としてはいけないポイントを見落としてしまって患者さんの命を脅かす看護をやってしまいかねません。
ですから、看護師は医療的診断を行う資格を持たないとはいえ、患者さんの状態を医学的見地から徹底的にアセスメントするように教育されています。
病棟の先輩相手だと、今の説明はわざわざ口にするまでもない大前提の知識で、もっと患者さんの状態に合わせた看護計画だとか、気を付けるべき随伴症状やケアを行う根拠と注意点なんかをすぐに説明できないとぶっ飛ばされてしまいますね」
「なるほど、それは怖いな」
「怖いです。命がかかっていますから」
彼女は頷いた。
ぶっ飛ばされることよりも、ケアする対象の命を危険に晒してしまうことの方がずっとずっと怖いのだという。
「だから病棟のスタッフはみんな、始業二時間前に患者さんの情報収集のためだけに体を引きずって出勤する羽目になるんですけど……とにかく、寒気が消えたのなら熱がセットポイントと同程度に上がり切ったということで、これ以上熱が上がる可能性は低いです。
ただの風邪ではなくて何らかの特別な感染症の前触れである可能性ももちろん完全否定はできませんが、今それについて考えすぎて眠れない状態になってしまうなんて、有益どころか害でしかありません。
だから今はとにかくこまめに水分と栄養をとって、きっと良くなると信じて沢山寝るのがいいと思います」
そう言って彼女は笑う。
言葉の内容からも分かる通り、彼女は新人看護師だった。
先輩にはいつも根拠不十分でボコボコにされてばかりだと彼女自身は情けなさそうにいつも言っているが、ボコボコにされているからこそ、知識は確実に積み重なっているように彼には思える。
専門分野に関しては誰もが饒舌になるものだなと考えながら彼がゼリー飲料を飲みきると、彼女が飲み殻を取り上げた。ごみを捨てる作業さえやらせるつもりがないようだ。
「それにしても、うーん。長くて小難しい話を聞いていたら眠くなってくるかなって思ったんですけど、寝れなさそうです?」
「……体がベタついて、あんまり寝られそうな気がしないな」
「体でも拭きましょうか?
一応ここに来るまでに清拭スプレーも買ってきましたけど」
「なぜそこまで……というか、熱が出ている時に拭いていいものなのか?」
「ケースバイケースですねえ。
病棟では38度6分を超えていた場合、本人の強い希望がない限り原則として清拭はやりませんけど、それ以下ならまあ……今38度2分でしたっけ?」
「だな」
「微妙ですね。
うーん、無理に拭く必要はないと思いますけど、気持ち悪いならベタベタしている部分だけ拭いちゃいましょうか。ぱぱっとやってしまいましょう」
彼女はそう言ったかと思うと、さっさと洗面所のタオル何枚かを水で絞って電子レンジで温めて、即席の清拭布を作成した。
……洗面器にお湯まで入れている。口調の軽さとは裏腹に、かなり気合が入っていた。
そして彼が何か言う前に、彼女はスプレーで泡のようなものを出して、さくさくと体を拭き始めてしまう。
躊躇いや恥じらいを一切感じさせない様子だったのが彼にとっては有り難かった。
「……まさかこの歳で介護されることになろうとはなあ……」
人によっては嬉しがるシチュエーションなのかもしれないが、彼は元々人に頼ることがとてつもなく下手で苦手な人間だ。現に今もかなり厳しそうな表情をしている。
「体調が悪いんだから、介護だってされていいんですよ。
チャットアプリで言ってましたけど、風邪気味なのにお仕事遅くまで頑張っちゃっていたんでしょう? 早く帰ったら良かったのに」
「君も三十になれば分かる……管理職をやらされていると、自分以外の人間同士の調整作業でアホほど時間を取られるものなんだよ……」
「もー、すぐに年齢のことを口に出すんだから。それは言わない約束でしょう?
……よし、こんなものかな。どこか他に拭きたいところはありますか?」
下半身とか、と彼女は言ったが、下半身は流石に「自分でやる」と断固固辞した。
別にいいのにと彼女は口を尖らせたが、この場合いいか悪いかを決める権利は彼女ではなく彼にあると言えるだろう。
「そこまでやらなくていい。さっきから君は俺を甘やかしすぎだぞ」
「だって、私に負けず劣らず自分の体に無頓着なんですもん。気にしたくもなりますって」
ベタつきやすい首筋を更に念入りに拭き直しながら彼女は唇を尖らせる。怒っているというより辛そうな顔だなと彼は思った。
体を気が済むまで拭き終えた後、彼女は彼の体温を測り直した。38度3分。
「……変な上がり方はしていないですね。よかった。もうこれ以上上がらないといいなあ」
「きっともう上がらないとかさっき言っていなかったか?」
「言葉尻をとりあげないでもらえますか。心配は心配なんですってば」
そんなことを言いながら、彼女はベッドサイドに座り直して彼の頬にそっと触れる。
その指先がなぜかとても優しく感じられたので、彼は思わず気恥ずかしそうに目をそらした。
「……こんなに触っていたら、君にもうつってしまうぞ」
「通常の風邪は、咳やくしゃみによる飛沫感染か接触感染のどちらかでうつります。どちらも鼻か口を経路にして起こるのですが、今はお互いに咳もくしゃみも出ていませんし、私はさっきからスタンダードプリコーションに配慮した接触しかしていませんから、心配には及びません。
私にそんな牽制は効きませんよ」
なんてことを言いながら、彼女は挑むように笑う。だが熱にうかされている彼は話の半分も理解できていなかった。
ぐったりともぼんやりともつかない様子で目線を宙にただよわせている彼の頬に、彼女はそっと自分の頬を寄せる。とても悲しそうな顔をしているが彼には見えていない。
「……苦しそうで可哀想。こんなに苦しそうな風邪だもの、もしここでキスなんかしちゃったら、絶対に感染ってしまうでしょうね」
「おい」
「なのでしません」
そう言って、彼女はあっさり彼から顔を離した。
一瞬前までは彼女のシャンプーのにおいが分かってしまうくらい距離が近かったということに、彼は一拍おくれて気がついた。
「……破滅願望がないようで何よりだよ」
彼はそう言いながらため息をつく。
熱があるので彼女に体を触られたところで妙な気分になる余裕さえなかった。
「君は熱にやられた気の毒な三十歳をからかって楽しいか?」
「その話はしないでってさっき言ったでしょう。からかってません、甘えているんです。
昨日熱が出たって聞いて、凄く怖くなっちゃったんですから……これくらい許してください」
彼女はそう言いながら彼の腕を取り上げて抱きしめる。本当は思い切り抱きつきたいのかもしれない。
「そういえばデートの予定が潰れたんだったな。悪いことをしてしまった」
「そんなこと!
……熱が出たんだから不可抗力ですよ。それより甘えたりとか触ったりとか、あんまり接触できないことの方が辛いです」
そう言いながらも、彼女は彼を労わるように頭を撫であ。
「今日はもうなーんにも考えなくていいんですよ。申し訳ないなんて思わなくていいんです。
沢山横になって、眠くなったらそのまま寝てしまったら、そしたらきっと治りますから」
また根拠があいまいなことを言い始めた彼女に対して、気休めを、とは彼ももう言う気が起きなかった。説明はもう十分に聞いた。
それに体のベタつきが消えて彼女に頭を撫でられているうちに、眠気が出てきている。
(俺が寝付いたら帰るつもりなんだろうな……居てくれた方が安心できる気もするが、こちらの都合で引き止めても悪いか。さっきは出端から俺が帰れと言ってしまったわけだし……)
そんなことを考えつつも彼はまどろむ。何か言ったような気もするが、半分寝ていたような状態だったのでなんと言ったのか覚えていない。
「……大丈夫、すぐに良くなりますよ」
根拠の曖昧なはずの言葉なのに、彼女の言葉はなぜか不思議な安心感を持って彼の心に落ち着いた。
彼女に撫でられたまま目を閉じて、彼が次に起きた時には翌日の朝になっていた。
……ちなみに、隣で寝落ちしていた彼女は結局彼から風邪をもらってしまい、翌々日のシフトなしの休日にはダウンしてしまった。そんな中、
「君がドヤ顔で長々としていた説明は一体なんだったんだ!」
……と、風邪から復活した仕事帰りの彼に無茶苦茶に怒られながら看病される羽目になってしまったのは、また別の話である。
ここまで読んで下さってありがとうございました。
もしこのお話にピンときましたら同カップルのこんな夏の恋愛短編シリーズもありますので、よろしかったら是非。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054890815628/episodes/1177354054890815630