#3.1 夜の海
高校を卒業した俺たちである。親友と彼女は大学に進学したが、アホな俺は就職を選んだ。いや、これを真面目に受け取られては困る。何故なら親友と彼女は別にして、俺のような日本人はよほど学業優秀かつ資産が無いと進学は難しいからだ。いくら成績が良くとも日本人にだけ課せられる高額の授業料が支払えなければ無理というものだ。
幸いなことに両方とも持ち合わせていない俺は自動的に就職となり、晴れて勤労青年となるわけである。ということで、俺だけ一足先に違う道を歩むことになったわけだが、彼女とは勿論、親友ともそのまま親交を続けていた。
大学生活がどんなものなのか、それらを想像しながら仕事に汗を流す俺である。但し、その流す汗の殆どが冷や汗だったと記憶している。その仕事内容とは、スリル満点、生きるか死ぬかのラインを跨ぎつつ走り抜けるアクション映画さながら、と言いたいところだが、実際は一日中立っているだけとか、河原で落ちている石を裏返すだけだの、全くもって意味不明な仕事? をさせられたものである。
更に言えば、意味不明な分は給与から減額させられるという、これまた意味不明なものであった。これらはただ指示に従っていただけ、従うしかないというのに、この仕打ちである。要は建前上、日本人でも雇うが、お前にやる仕事は無い、スミで引っ込んでいろということだ。
ということで、サクッと就職先を辞めてしまった俺である。しかしその後が大変だった。文字通り『路頭に迷う』を地で行くように職を求め、町中を彷徨ったものである。それは会社の経営者に殆ど日本人が居なかったということに尽きるだろう。良くて門前払、就職の面接どころか、その門を叩くことさえ不可能に思えた次第である。
そして、というかとうとう万策尽き果てた頃、幸運にも日本人を雇ってもらえるところに行き着くことが出来た。そこの社長は偶然にも日本人だったが経営者ではなく傭われであった。これは何かの引合せと思い仕事に精を出したものである。
それから2年ほどは平穏無事に暮らしたものだ。やはり会社の社長が日本人ということもあり社員にも日本人が多く、学校と違い気軽に日本人同士で会話することも出来た。それは密告するような輩が居なかったおかげでもあったが、閉鎖された空間とも言えたかもしれない。
そこで良く話題に上ったことは、とにかく若いうちに結婚し子供を作れということだった。しかしいくら彼女が居る身とはいえ結婚はともかく、子供はまだ早いだろうと思っていたが、やけに勧めてくる先輩たちであった。
だが、やっと収入が安定したと言っても子供を持つほど蓄えも無く、今以上の貧乏になってしまいそうで、とても考えられないと自分の意見を言うと、それなら俺たちが援助してやると言ってくれる先輩たちでもあった。
しかし何故、そうまでして勧めてきたのかは今でも分からないが、分からないなりに、何となく思い当たる節がないでもない。それはその内に分かってくることだろう。
彼女が居るという「エヘン、どうだい」という自慢ついでに、つい彼女が大陸の人であることを言ってしまった俺である。それを聞いた諸先輩方は一同落胆したのだが、それでも子供だけは早くと言い続ける。
ここで先輩たちが落胆した理由、それは俺と彼女は実質、結婚できないからだ。この実質というのは何がしらの法律で決まっているわけではないが、それは飽くまで表向きであり、実際は民族が違う者同士、正確にはどちらかが日本人の場合、婚姻届が受理されることはない。しかしそれは制度上の問題であり、一緒に暮らす分には問題はない。但し彼女がそれを良しとした場合に限るが。
◇
数年後、俺と親友は2人で卒業旅行に行くことになった。一体、何を卒業したのかというと、まず親友は大学である。そして俺は……ジャジャーン、独身の卒業である。
なぬ! と思われるかも、いや思うだろうが、そこはそこアレである。彼女の卒業を待っていたのもあるが、それを機に同棲を始めるのでアール。そもそも婚姻というものは気持ちの問題であろう。そこに、そう、2人の間に国家権力が介在するというのは無粋というもの。2人の気持ちが結ばれれば全て良しである。
但し、彼女の家族はもちろん大反対である。そして何故か俺の両親も反対である。それらを押し切る形で、実際は駆け落ちしたようなものだが、世間がなんと言おうが2人の愛は不変なのである。
しかし、結婚とは人生の墓場とも言うらしいので、それを実感する前に経験したいことがあったのだ。それは、都会、それも東京というものを一度だけでも見てみたい、というとても素朴なものである。それに賛同した親友とノコノコと出掛けた、ということである。
◇
電車に揺られながら目指すは東京、あんなものやこんなものがあるに違いない、と妄想を膨らませていると、宇都宮を過ぎた辺りで検札が始まったようである。だがそれは抜き打ち検査のように乗客全員を調べているわけではなく、車掌と思しき人物は通路をどんどんと歩き、俺の前で立ち止まった。
またか、と思ったが、ここで不満に思ってもどうしようもないことである。その車掌が何も言わない内に切符を提示したのだが、車掌の目的は検札ではなく、俺の身分証を見せろと言ってきたのである。
ということは、車掌と思っていた人はどうやら車掌ではなかったということだ。心の中では、「いい加減にしてくれ」と悪態をつきながら身分証を見せると、なんと、次の駅で降りろと言うではないか。
なんでも日本人はこの先には進めないという。そんなことは今まで聞いたこともないが、ここまで来たのも初めてである。そんなものと諦めるしかないだろう。これで東京行きはおじゃんになったわけだが、親友のアイデアで筑波山から東京を眺めようということになった。
筑波山から東京までの直線距離は100㎞もないはずである。なら筑波山の頂上からなら見えるのではないか。ということで行き先を変更し、筑波山に向かった俺たちである。
筑波山からの眺めは生憎と天気が悪く、霞んでいて殆ど何も見えないままで終わった。しかし、その時は知らなかったのだが、俺たちの足元にはとんでもない物があったようだ。それは核の廃棄物処理場である。茨城県に処理場を作り原子力発電所から出る核廃棄物を貯蔵しているとことになっているらしいが、実際は単に投棄されている。ということで茨城では人は住んでいないことになっているが、これも実際は、何も知らされていない者が住んでいるらしい。おそらくそれも日本人だけだろう。但し、どれもこれも憶測である。
◇
また数年が経った頃だ。彼女と家庭を築き、毎日を楽しく幸せに暮らしたはずのある日。仕事が終わり家に帰ると、何時も玄関に現れる彼女の姿がその日は無かった。
俺の記憶には彼女と毎日、どんな事をして何を話して過ごしたのか、そんな日々の記憶が殆ど消えてしまっている。残っているものといえば彼女と喧嘩した事や上手く行かなかった事など、およそマイナスの出来事くらいしか記憶が残っていないようだ。それはおそらく幸せだった普通の毎日をやり過ごしてしまったからだろう。単に歳をとったからだとは思いたくないものだ。
家に居ない彼女である。それは俺の方が先に帰宅したからだろうと思った矢先、玄関から男3人がノックもせず侵入し、いきなり取り押さえられた俺である。それは強盗でも異常者でもなく、特定の思惑のある人たちであろう。
自由を奪われた俺は車に乗せられ、目と口を塞がれた。それはまるで誘拐のようなものだろう。そして再教育施設に投獄され、そこで3年間過ごしたらしい。その『らしい』というのは、その3年間の記憶が全く無いからだ。なぜ記憶に無いのかなど、本人である俺が知る由もないが、ただ何かを忘れたい、考えたくないと強く思っていたのは確かである。従って、これ以降のことは、暫く親友から聞いた話となる。
◇
3年後、施設の出口に立つ俺、らしい。そこに親友と彼女が迎えに来ていたようだが、親友の顔を覚えていても彼女のことは誰だか分からなかったらしい。
施設を3年で出られたのは親友の尽力があったからだそうだ。その件については今でも頭が上がらないが、この施設は俺の意思で入所したことになっているらしい。そして本人の意思で何時でも施設から出ることが出来ると、それは今でもそう言われているが、実際は刑務所そのものだろう。俺が生きて施設を出られたのは奇跡に近いことだと今でも思っている。
親友の運転する車に彼女と一緒に乗り込み、そのまま家に帰るはずだったが、その時、彼女が「海に行きたい」と一言だけ呟いた。その声は小さく車の走行音に掻き消せられそうになったが、かろうじて聞き取った親友は確認のために聞き返そうと思った。しかし、その言葉を飲み込むと車の向きを変える。
その頃はもう日も暮れた後であり、夜の海を見てどうするのかと親友は思ったが、それ以上は考えても分からないと、彼女の希望の通り海に向かった。
浜辺に着くと、彼女は車を降り、その開いたドアから俺の手を引っ張る。それに引かれた俺は何ら抵抗せず素直に車を降りるが、周りがもう暗いとか海風が冷たいとう感覚はなかったようだ。そして俺の手を握るのが彼女であるということも分かってはいなかった。
俺と彼女だけが車ら降りたが、それは2人だけになりたいのだろうと親友はそのまま車に残った。そして車の側で、暫く俺と彼女は手を繋ぎながら、あてもなく真っ暗な海を見つめている。
その時の彼女が何を考え何を思ったのかは誰にも分からない。もしかしたらそれは彼女自身にも分からないことだったかもしれない。それでも俺の手を握っている感触だけは、紛れもない現実だと分かっていただろう。それが俺の隣に立つ人が誰であるのかを俺が理解していなくてもだ。
俺の手を強く握りしめる彼女は海に向かって歩き出す。それに引かれて俺も一緒に足を運ぶが、それは次第に冷たくなり、直ぐに体全身が凍りつくような冷たさが襲ってくる。俺たちは波をかぶり押し返されても進み続けるが、あまりの寒さに俺は彼女の手を離してしまった。
それでも彼女は俺を置いて前に歩き続ける。その後ろ姿を見送るように見ているだけの俺。彼女が波に飲み込まれ行くことに気がついた親友は、慌てて彼女に近寄り、その腕を掴むが、「もう、嫌だー」と叫ぶ彼女が親友の腕を振り払ってしまう。
それでも俺はその光景を見ているだけである。そこで何が起こり、その結末がどうなるのか。そんなことも考えらえずに、ただ見ていただけだ。
歩みを止めない彼女を波が襲い、彼女の頭がかろうじて水面に出ているだけになる。親友は必死で彼女に追いつこうとするが、それが運命だと言わんばかりに波が親友を押し戻した。
「なんでなんだ、なんでなんだ」と親友は消えかかる彼女に向かって叫ぶが、それは彼女の耳、いや、心には届かなかったのだろう。親友の視界から消えていく彼女は、波に押された瞬間、それは振り向いたと言ってもいいだろう。
その時、俺はただ寒くて、真っ暗な空と、空っぽの世界に向かって叫ぶ。
「寒いよー、いやだよー、ひとりやだー、誰か助けてよー」
それはまるで子供が全てを失ったかのような聞き苦しい声で、とても大人の声とは思えないほど惨めな声だ。
その声に耳を塞ぐ彼女。しかし俺は何度も同じことを叫び続ける。それは誰かが止めるまで続いたことだろう。
波は彼女を押し戻し、前に歩けと言わんばかりに何度も押し返す。そして歩き、耳を塞いだ両手で俺を抱きしめた。そうして俺は彼女に抱かれながら泣き叫び、いつしか彼女を強く抱きしめていた。
◇