#1.2 終わりの始まり (2/2)
ここで親友が羨ましく思うのは、労働という柵から日本人だけが解放され、住居は変わってしまうが、優雅な施設での暮らしが待っているからだ。それを『大陸の人』から見れは特権のように思えるだろう。しかしここは日本自治区である。そこで日本人が優遇されても、誰も文句はあるまい。
一方、親友のような『大陸の人』たちには定年という制度がない。つまり動けなくなるまで働かなければならないということだ。まあ、それが一概に悪いとは言えないが、逆に働かないことでボケないかと要らぬ心配をしてしまうじゃないか。
施設と言っても小さな街のようなものなので、出入りも自由、いつ起きるかも自由。一日中寝ていても良いし、運動だって出来る。そして究極なのは、施設内では一切お金が掛からないということだろう。この世のパラダイスと言っても言い過ぎではないはずだ。ということで親友には悪いが、しっかりと俺の分まで働くが良い。が、そのような事はこっそりと胸の内に隠しておくのが良いだろう。
「そういうお前こそ、随分と出世したようで、なによりだ。
あれか、あれだよな、役所に勤めているのか? そうだよな」
「まあ、そうとも言えるかもな。そのおかげでお前に会うことが出来た。
だから、なんだ、出世するのも悪くはないだろう」
「そうだな、悪いはずがない」
ここで暫く沈黙が続いた。それは俺から何かを話す、というほどのネタを持ち合わせていなかったせいもあるが、親友が何かを言いたそうにしていたのを只管に待っていたせいもあるだろう。そしてやっと、その思い口が開くようだ。
「お前、一人なのか? ああ、見れば分かることなんだが、そのだなぁ」
「なんだ、そんなことか。見ての通り一人だ」
親友が迎えに来たということは、俺の暮らしぶりは疾うに知っていたはずである。それを敢えて訪ねたということだろう。そこで少し焦らしてやろうと思っているうちに、
「そうか」と言われたしまったので、催促代わりに
「それで終わりか?」
「まあ、そうだな」と、あっさりと引き下がってしまった親友である。
残念な団地で一人暮らしをしていた俺、そう、もう過去形で言えるのは素晴らしいことなのだが、親友が聞きづらそうにしていたのには訳がある。意外に思うかもしれないが、これでも一応、俺は妻帯者であった。『あった』というのは、諸々そういうことである。
「あれだろう、彼女のことだろう」
「ああ? ああ」
「彼女なら、ほれ」
上着の内ポケットから写真を取り出し、親友にそれを手渡したところである。写真には彼女こと、俺の妻だった人が写っている。それがサッと披露できるのは、今でも彼女に惚れているからだ。だから肌身離さず、とまでは言わないが、引越しのお伴にと、持ち歩いている。それを親友に見せることになるとは、なんだかサプライズのようで嬉しい。
「若い時の写真か?」
親友が、今にも写真を舐めてしまうのではないかというくらい、まさに食い入るように見ているが、それで唾でも付きはしないかとハラハラ・ドキドキの俺である。そう、御察しの通り、俺と親友は高校の同級生、そして彼女こと俺の永遠の恋人も同級生であった。
そしてこの親友の態度からして、いや、以前、いや最初から知っていたが、親友は彼女に惚れていたのだろう。しかし残念ながら俺の方が桁外れに良い相手であったという、ただそれだけのことである。但し親友が覗き込んでいる写真は、もう20年前に撮ったものだ。但し、注釈を付けなくてはならないだろう。
「うーん、そうだ、な。最後の時の、な」
「最後?」
最後というのは、その写真を撮って以降、写真を撮る機会が無かったとういうことだ。正確には……後で話そう。
「俺は彼女を『死にたがりの彼女』と呼んでいたからな」
「なんて物騒な。……まさか!」
「うーん、そうだな。その、まさかだ」
「おお、なんてこったい、そんなー」
写真に写る彼女、俺にとって最愛の女性であったが、残念ながら向こうは俺をそんなに必要としていなかったようだ。
俺の記憶に残っているのは、彼女が2回、自殺を試みたということ。その最初の1回目のことは余り覚えてはいないが、最後の、つまり2回目の時、彼女には信じられるものも、どのような言葉も、そして俺の言葉も存在も意味が無かったのだろう。いつも俺に「死にたい」と言うようになり、そしてそれを実行した。ただ見ていることしか出来ず、何の役にも立たなかったカスのような俺だけが残ってしまった。
「言っただろう、『死にたがりの彼女』だって。
それで、彼女は自身の望みを叶えたんだ。それも2回だ。本望だろうよ」
「お前! それって、それでいいのか」
「良いも悪いも、……ないだろう。もう、昔のことだ」
「はあ、ああ、そうか」
もしかしたら強く責められるのではないかと構えたが、それ以上に落胆する親友を見ると、俺自身の罪深さを感じずにはいられない。出来ることなら、今すぐに叫んでしまいたい衝動が込み上げてくるが、ちょうど車が目的地近くに到着したようだ。それで俺も気持ちをぐっと押さえる切っ掛けになったのだろう。外の光景を見ると、また違う思いが湧き上がるのだ。それをつい声に出してしまう俺だ。
「あれが『施設』か?」
「そう、だろうな。場所に……間違いはないよう……だ」
親友は運転手の頭を殴ると、「ここなのか? 嘘じゃないだろうな」とまた口より手が早かったようだ。それに「間違いないです。いつも来ていますから」と答える運転手君。その『いつも』という言葉が妙に引っかかるものだ。
「そう、か。まるで刑務所じゃないか。なんだ、あの高い塀は」
俺は口にはしたくない現実を口にしてしてしまった。そこに見える、長く続く高い塀。そうして直ぐに何かを悟ったような気分にもなったようだ。
この瞬間まで、レジャーランドとまでいかないまでも、ちょっと洒落た街並みを想像していたのが悔やまされる。自分が受けるであろう特別待遇、定年という制限。何もかも良く考えれば、もっと早くに分かりそうなものだろう。それをなんで正反対のように想像したのか。それはおそらく、そう考えたくなかったせいだ。全ての苦労も苦しみも、そこから逃れたい気持ちが幻想を抱かせたに違いない。
「……多分、認知症とかの徘徊防止だろう。俺も見るのは、現地を見るのは初めて、だ」
親友が何かと理由を付けようとするが、その気持ちだけ、会えたことだけで良しとしよう。諦めることには慣れているつもりだ。
「そうか、そうだろうな。まあ、まあ、来てしまったものは仕方がない、来てしまったものは」
大きな力に、小さな俺が敵うはずもない。それは親友とて同じことだろう。この世の誰かが引いた軌跡をただ進むしかない。贖うことが出来ない運命、それを許さない社会。それをジタバタしないで受け入れるか、抵抗して痛い目をみるか。そのどちらかしか選べないのが現実のようだ。
「ここで止めてくれ」
俺は親友というよりも、直接、運転手に言ったつもりだ。別にここで車を降りて逃げるわけではない。ただもう少し、時間が欲しかっただけである。
「降りてどうする?」
案の定、親友が俺の真意を探ってくる。おそらく俺の先人たちも俺と同じことを考えたことだろう。しかし、至る所に設置された監視カメラと、人の目がある。そして初めて来た場所で、どこに向かえば良いのか、誰を頼れば良いのかさえ分からない始末だ。そう、答えは嫌なほどはっきりとしてる。
「歩いて、その、施設の門を潜りたいんだ」
俺には急ぐ理由がない。それと同時に遅れる理由もない。なら自分のしたいことをしたいようにしたいではないか。
「それだけか?」
親友が不審に思うのも無理はないだろう。万が一、本当に俺が逃げてしまうと、親友が困る事になることは容易に想像がつくというものだ。
「勿論だ。それに、少し、時間が欲しい」
細かいことを言うつもりはない。だがこのくらいの融通は利いても良いのではないかとも思うが、これ以上言って親友を困らせるわけにもいかないか。
「分かった。俺も歩く」
少し間をおいて親友は、何かを飲み込むように、そして力を抜くようにして、そう言ったような気がした。
続けて「おい、車を止めろ」と何時もの調子で運転手に怒鳴る親友である。そうして停車した車から、まず親友が降り、その開いたドアから俺も降りる。そしてまた運転手に「先に行って待っていろ」と注文を付ける親友である。考えてみれば、というより思い出すと、親友は口は悪いが根の部分は優しい人間であったはずだ。それが、こう強く若い運転手に当たるのは、その性格というよりも周りが信用できないからだろうと思える。俺も、親友も本当に信用できる人との出会いに飢えていたのかもしれない。
車から降りて直近で見る塀。それは塀というよりも壁と言った方がいいだろう。高すぎて向こう側を見ることは出来ないのは、その先が閉鎖された場所であること考えるの普通だろう。だが、こうして壁を見ていても始まらない。とにかく、歩くと決めたからには歩いて行こう、この壁が途切れるまでだ。
「さあ、行こうか」
親友もしげしげと壁を見上げるが、俺が声を掛けた時、一瞬、俺に顔を向けそうになったのを止めたように見えた。その理由を考えたが、途中で止めてしまった俺である。生まれも立場も違う二人ではあるが、今は時を同じくし、その先の運命が違っていても進む先は同じだ。僅かな時間ではあるが、思い出に耽るには充分であろう。
「ああ、行こう。寒いが、ゆっくりと行こうじゃないか」
「ああ」
ここ福島県は昔、日本という国に在ったそうだ。かつては東日本と呼ばれたが今は日本自治区、大陸の一部である。この自治区には日本人9000万人が暮らしていると言われているが、実際はその十分の一も居ないだろう。それが俺の実感である。