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紅赤の華 〜日本が赤く染まるとき〜  作者: Tro
#1 夕日が沈む海岸線
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#1.1 夕日が沈む海岸線

例えば、それが日の出までだとしたら、今はとっくに朝日が昇っている。

例えば、それが日没までだとしたら、今はとっくに月が出ている。

要は、その時は疾うに過ぎ去っている、というわけだ。


福島県の、ある海岸近く、そこに建ち並ぶ5階建ての古びた団地。そこは海に近いこともあり外壁はボロボロ、鉄製の物は錆びつき、ステンレスのものさえ、その表面が剥げている。いや、それは本当の理由ではないことは分かっている。全くもって『修繕』するという気が誰にもないというだけだ。


その3階の、自宅の窓際に立てば遥か海原の景色が、と言いたいところだが、そこは前方に別の棟があるため望むことは出来ない。その代りカーテンを引き、右方向を見れば、沈むゆく太陽が見えてくる。


空に浮かぶ雲の下側からは地上にかけて見事な夕陽、そこに紅く染まる世界が広がるが、それでもまだ、空の高い部分は藍色である。とても不思議に思えるが、その不思議加減が心地良いとも言える。


心地良いといえば、そのニュアンスとはだいぶ違うが、振り向けば何もない空っぽの部屋である。狭い部屋だと思っていたが、そこが最初は壁と床だけだったと思い出させてくれる程、清く何もない。それでもやはり、狭いことには変わりはないだろう。


自分が住んでいる部屋に何も無いというのには理由が二つある。一つは、これから引越しをするからだ。荷物は全て部屋から運び出した後であり、この部屋にある『もの』と言えば俺自身のことだろう。そして間も無く、この部屋は誰も居なくなる、つまり無人になるわけだ。


逆に初めてこの部屋に入った時のことを思い出しもするが、今の俺がこの部屋を見たら、とても住む気にはなれないだろう。それは狭いということもあるが、余りにも味気ない住まいである、ということに尽きる。それは、ここの生活で喜びとか楽しみなど、おおよそ生きていく上でのスパイスのようなものを得られるとは思えず、実際そうだったのだから仕方がない。それに対して努力しようと努めたとか、考えることを……いや、この辺で止めておこう。


そうして二つ目の理由、これが引越しをする理由でもあるのだが、今日が俺の60歳の誕生日だということだ。それと引越しとどういう関係があるのかと思われるだろう。


ここで俺が60歳になったということは、ここでは俺が最年長者になったことを意味する。年齢だけで言えば俺が一番偉いのか? ではないが、国の福祉政策のおかげと言っておこう。労働できるのは60歳まで。それ以降は優雅な施設での生活が待っているというわけだ。


俺の住む地域の端から端まで、どこに行っても高齢者と出会うことがない。それは現役世代とそれ以降の世代とで居住地域を分けているせいもあるが、忙しない地域と離れるのも考え方次第では悪くはないだろう。おかげで平均寿命は男女共に悠に85歳を超えている。その一員になるには少々早すぎる気もしないではないが、これを何番目かの人生の始まりだと思いたいし、そう思うしかないだろう。


もうじき、ここの自治会長が俺を迎えに来ることになっている。その人がこの部屋の鍵を掛ければ、俺の隠居生活が始まるというわけだ。政府からの案内状によれば、そこは街からかなり離れているようだが、施設と言っても小さな街を形成しているらしく、歩いて行ける範囲内に病院やら商店、そして図書館や映画館など至れり尽くせりらしい。そんな場所で日がな一日、優雅な生活となる。それがスローライフというものだろう。思えば、あんなことやこんなこと、いや、止めておこう。


◇◇


何もない部屋を見渡していると、玄関をノックする音が聞こえてきた。既に電気のブレーカーを落としているのでインターホンは鳴らない。もう少し、ギリギリまで電気を点けていても悪くはなかっただろう。そんなことを思いながら玄関を開けると、そこには案の定、自治会長が立っていた。


自治会長は30代と言ったところの男である。顔は知ってはいたが、今までろくに挨拶も交わしたこともない。そんな間柄のせいなのか、無表情というか、強いて言えば面倒な仕事を仕方なくこなしている様に見えるが、そんな風に見えたのは俺が皮肉くれているからだろう。しかし、これでも俺は従順で純朴、素直な良い奴だと自負していたのだが。


持ち物の無い俺は直ぐに部屋を出る。そして自治会長に部屋の鍵を渡した……と言いたいところだが、差し出す鍵をジロジロを見るばかりで、受け取ろうとはしない。一応、儀式的に、ここを治める長が最後の鍵を掛ける、という手筈のはずだが、まだ若いために知らないのだろう。仕方なく自分で鍵を掛けると、ようやくその鍵を受け取った次第だ。


こんな具合なので、階下に降りる階段でもお互い無口である。何がそんなに気に入らないのか。少し俺の晴れ舞台、再出発の門出にケチが付いたような気がしないでもないが、まあいいだろう。もう二度とここに戻ってくることはない。だから必然的にこの自治会長とも顔を合わせるのはこれが最後となる、はずだ。しかしどこかでまた出会うかもしれない。ここは大人しくしておこう。俺は大人の対応ができる大人、のつもりだ。


地上に舞い降りた、と少しは気取ってみたいところだが、それを却下するかのように、小さなゴミがあちこちに散らばっているのが見えてくる。それは建物が荒んでいるのと同様、その中身である住民の心も荒んでいるからだろう。せめてそれを自覚していれば良いのだが、多分、この散らかりようでは無理な話だ。


そんな見栄えのしない場所に、これまた古い、セダンタイプの白い車が停まっている。おそらくそれが俺を迎えに来た車に違いない。運転席には運転手が座ったまま、そして車の脇には冴えない顔をした男が立っている。冴えないと言ったが、それに追加して、かなり老けているのか、それともそれ相当な歳なのか。そんな男が俺を品定めするかのようにジロジロと見てくる。そうして見当がついたのか、今度は俺の顔をマジマジと見ているではないか。そう、俺からしたらそれはただただ『気色悪い』だけだ。


「おい、この野郎」


冴えない老け顔の男は、ニヤニヤしながら俺に挑んできたようだ。こんな時にこんな場所で、それは余りにも不愉快な一言で始まった。それが初対面の者に向かって言う言葉かよ、と俺は思う。折角の門出になんて奴がなんてことをしやがる、と怒りも湧いてきそうだったが、そこはぐっと我慢し睨み返すだけで勘弁してやろうと思った次第だ。なにぶん、面倒ごとは御免である。これから極楽な隠居生活が待っているのだ、多少のことは飲み込んでしまうのが賢いやり方、のはずだ。


俺が相手を睨んでいたせいか、それとも相手の気が短いせいなのか、また「おい!」と訳の分からぬ威嚇を続ける男である。俺はそのまま立ち止まったまま動かないでいると、今度は言葉ではなく右手を俺の腹に向けて繰り出してくる。それを、俺は腹ではなく自分の頭を守るかのように両手で上げた。そして、


「やめてくれー、やめてくれよー」と自分でも驚くくらい大声で叫んでいた。それは殆ど条件反射と言っていいだろう。そうした自分に自分で驚いたくらいだ。どこからそんな恐怖心が湧いてくるのか、一体どこに隠れていたんだ、と考えると余計に訳の分からないものに心が支配されていくのが分かる。


それには、どこにも理由も訳も無い。ただ、何かから逃れたいという気持ちが一瞬で沸き上り、それに満たされ俺は自分でもどうしようもないくらい、おかしくなったようだ。


ただ、そんな自分の姿を他人事のように見ているもう一人の自分が居ることも確かなようだ。それはまるで幽体離脱した霊体が自分の体を見下ろしているようでもある。そこで無様に泣き叫ぶ自分、それを何の感情もなく、ああそうか、という具合で見ているだけの自分が同時に存在している。そんな奇妙な瞬間、出来事が起こった。


しかし、その状態は長くは続かないようだ。せっかく魂だけの存在に安堵していたのに、直ぐに引き戻され興奮しきった実体が現実だと教えてくれる。そうなれば押し寄せ続ける波のように、どこかで堰き止めていた一部が崩壊してしまう。その後は意識のある限り叫ぶのだろう。


俺がその時、どうしていたのかは記憶に無い。ただ気が付けば誰かに抱きしめられていた、ということだろう。そして冷静に考えれば、その誰かとは目の前に立って俺を怒鳴った男しかいない。もしかしたら自治会長かとも思ったが、そんな性格の持ち主ではないだろう。何故なら俺を抱きしめ続ける男の腕には遠慮が無い。


「悪かった、許してくれ。もう昔と違うんだな、許してくれ」


男は、まるで叫ぶかのように大声で言う。そうして言いながら崩れそうな俺を支え、力の限りとでもいうのか、俺を抱きしめ続ける。そしてそれが女性であれば良かったと思えるくらい落ち着きを取り戻した俺。いや、収まってきたと言うべきか。


そして何故、こんなオッさんにハグされなければならないのだ、と不快にも思ったが、それよりもオッさんの言った言葉を再生し、こ奴の正体を考えた。何故なら「おい、この野郎」という台詞、そして俺の腹にパンチを入れようとしたこと。それは、どこか記憶のあるもののように思えたが、しかしそれはただの勘違いか。


平常運転に戻った俺は、奇怪なオッサンを突き飛ばし、一歩、二歩、序でに下がれるだけ下がりオッサンを観察する。こ奴のおかげで、とんだ醜態を醸してしまったが、見れば見るほど奇怪だ。


俺の前でジジイが泣いている。それも顔を歪めながら俺を拝むように見ている。何時から俺はこんな奴の神になったのだろうと思う。そいつは手を合わせながら只管、「俺だ、俺だよ、高校の時の」と呪文を唱えるが、『俺、高校』を頼りに記憶を検索すると、ああ、そういうことかと40年以上前のことを……今更思い出せるわけがない。


「もしかしてお前は、あれだ。あの時の」と俺が言ったところで、「そうだ、俺だ」と、急に小泣きジジイの顔が気色悪い笑顔に変わったのだが、最後まで言わせなかったお前が悪いんだぞと、「お前、誰だ?」と返してやった。しかしそれでもしつこく、「俺だ、俺だよ、思い出せないか?」と繰り返すばかりだ。


不思議に思うかもしれないが、『俺』を連呼せずとも名前を言えば良いではないか、それで一発解決だ、なのだが、相手が焦って名前を言い忘れている訳ではなく、敢えて言わない、言えない事情があるようだ。それは俺に名前を当ててほしい、または思い出してほしいというロマンチックなものを相手のジジイが持ち合わせていないのは外見からして確実だ。


なら、『俺だ』と言い張る行為がボケている以外の理由であれば、それは『言えない』ということになる。そう、そんなことなら俺でも承知していることだ。そして、やっと記憶の棚から溢れた欠片を拾い上げれば、目の前の小汚いジジイはかつての同級生である。


ああ、あいつか、と思い出したが、それならどう見ても同じ歳には見えないくらい、老けてくたびれた男。それが俺にとっては無二の親友だった男だ。こんな形で、こんな場所で、序でに長い時を経て再開するとは、どう考えても運命とは思えない。そう、俺は運命を信じない男だ。だからこれは大きな偶然なのだと思う。しかし、思い出したからにはジッとしている訳にもいかないだろう。それが例え爺さんだとしてもだ。


「お前か、思い出したよ」

「やっと、やっと会えたな、おい」


◇◇

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