発勁(はっけい)、炸裂
「私は売れないわ。その子だけ持っていって」
櫻霞の口から飛び出た言葉には、小如はもとより、その場にいた人攫いの男たちも耳を疑った。
「私はあなた達のことなんかどうでもいいし、わざわざこのことを誰かに漏らしたりもしない。あなた達だって、売れない女を抱えたって手間がかかるだけ。私を見逃したほうが、お互い得よ」
小如はそれを聞いて愕然とした。そんな交渉をしたところでこの男たちが櫻霞を見逃すとは思えないが、それよりも櫻霞に見捨てるようなことを言われたのが、とても精神にこたえた。
「はは、お前本気か? 友達を見捨てるなんて相当なタマだな」
「友達なんかじゃない。今日たまたま知り合っただけだし」
「頭、こんなこと言ってますけどどうします?」
首領格と見られる大男は、子分からそうたずねられると、首を横に振った。
「いいや、お前だけ助かろうったって無理だな」
「わからないの? 私はあなたがひどい目に合わないように警告してるのよ」
櫻霞はこんな時でも、何を考えているのかわからない無表情を崩さずに言った。
「私に下手に手を出せば、身体が勝手に身を護るために動く。私の身体はそう出来ている。いったい何をするか予想もつかない。あなた達の命を守るためにも、私を見逃せって言ってるの」
「は? 何をわけのわからないこと言ってんだ?」
「怖くて気でも触れたかよ?」
男達は大笑いしている。
首領格の大男は、だまって櫻霞に近寄るとその腕をむんずと掴んだ。
「来い。売れる身体かどうか調べてやる」
そう言って、倉庫の中へと櫻霞を引っ張っていこうとした瞬間であった。
ちょうど倉庫の扉のあたりで大男が突然、つばをまき散らして何事かを叫んだかと思うと、その場でがくんと膝を折った。
大男の太い手は櫻霞の左腕をしっかりと掴んだままであったが、櫻霞は残る右手を、大男の手首に軽く添えるようにしている。
その添えた手をほんの軽く曲げただけで、大男はしゃがんで動けないまま、苦悶の表情で叫び声をあげた。
残りの男や車夫はおどろいて二人を取り巻いている。
「て、てめぇ頭に何してやがる!」
櫻霞は、首領格の大男の手首に触れていた右手をそっと離した。
大男は櫻霞の足許でしゃがんだまま、ぜいぜいと肩で息を切らしている。
「言っとくけど、私は警告したのよ」
「あぁ!? 何だとコラぁ!」
「これ以上手出しするなら、あなた達全員ただでは済まない。長年の経験でわかるのよ。お願いだから、もうやめて」
その瞬間、おおおっ、と雄叫びが響いた。
首領格の大男が叫びながら、櫻霞に相撲のぶちかましのような突進をかけたのだ。
が、大男はその体当たりの手応えを得ることはできなかった。
櫻霞が、突進してきた大男の首に軽く手を置いたかと思うと、大男の身体があざやかな半円をえがき、櫻霞の周りをぐるりと半周した。
遠心力で振り回され足がもつれた大男は、そのまま加速して、立ち尽くす仲間のほうに戻るように突っ込んでいった。
男達が互い違いにぶつかりあい、もんどりうって、ほんの一瞬の間、人間の塊がつくられた。
刹那、櫻霞はその塊に向かって、すっと右足を踏み出した。
たった一歩だったが、それは静かに地を滑って襲いかかる蛇のように、ぐん、と距離を伸ばした。
右足の裏を思い切り、地に叩きつける。ずしんと大地が揺れたかと思うほどの震動が走る。
「発勁!!」
それが美麗語なのか日本語なのか、小如にはわからなかった。
右脚の震脚とともに掛け声が発せられ、右腕から掌底が伸び、一番手前でもつれていた大男の腹を叩いた。
にぶい衝撃波の音がした。それは大男の腹を伝わり、腰から抜け、その後ろにいた男達の塊に鉄槌のごとき重い打撃を食らわせた。男達五人は塊から再びバラバラになって、はるか後方に吹き飛んだ。
彼らは声も上げずに宙をぶん、と舞い、身体を無軌道に回転させながら、地面へと叩きつけられた。
全員、そのまま立ち上がることも出来ずにうめいている。
衝撃波をまともにくらい、腹をおさえて胃液を吐き出した者もいる。
残ったのは、小如を押さえつけている若い車夫ひとりだった。
櫻霞が近づくと、車夫は懐から刃物を出して小如につきつけ、最後の抵抗を試みた。
「ち、近づくな! このガキを殺すぞ」
だが櫻霞はまったく何の遠慮もなく、距離を詰めた。
あっ、と車夫が短く叫んだとき、櫻霞の左拳が小如のみぞおちに軽くめり込んでいた。
小如はそのとき、まるで氷の上を滑るように、重たいものが体内を抜けていくのを感じた。
衝撃波は小如を素通りしてその背中を抜け、真後ろにいた車夫の左胸を直撃した。
急所の心臓撃ちをくらった車夫は、物も言わずに膝をつき、一時的に呼吸をうばわれて地面をのたうち回った。
気がつけば、その場に立っているのは櫻霞と小如だけだった。
櫻霞は向かいあって立っている小如を一瞬だけ見あげたが、すぐに目を伏せた。
「……さようなら」
そう呟くと櫻霞は、踵を返して歩き始めた。
小如は、少し前まで自分を支配していた恐怖と、櫻霞が見せたとてつもない拳法技への驚きとで、まともに立っているのもやっとなほど足が小刻みに震えていた。
だがふと我に帰り、この場に自分が置き去りにされることの怖さに身震いし、慌てて櫻霞のあとを追った。
「待って……! お願い、お願い、置いていかないで……!」
小如は泣きべそをかきながら、必死でよちよちと櫻霞の後を追いかけた。
「道も知らないの、お金もないの……お願い、ひとりにしないで……!」
小如の頭の中は、ろくな計画も立てずに、衝動だけで家を出てきてしまったことへの後悔でいっぱいであった。
櫻霞は立ち去る背中で小如のすがるような泣き声を聞いていたが、やがて立ち止まり、小如を振り返った。
「言っとくけど、あなたを助ける義理なんてないのよ。私は自分ひとりを守るだけで精一杯なの」
櫻霞はそっけなく、しかし幾分かは刺々しさを抑えたような口調でそう言った。
小如は、親に捨てられかけている子供のように、ただ顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっていた。
櫻霞は無言で小如を見ていたが、やがて足早に近寄るとその両腕を取り、ひょいと彼女を背中におぶった。
「哨船頭街の通りに出たら、まともな人力車を拾って花園露天市まで急ごう。もう時間がないわ」
櫻霞は小如を背中に背負って歩き始めた。
小如はこの時ほど、人力車なんてものに二度と乗りたくないと、心から思ったことはなかった。